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狗憑區☆堕等々々  作者: 八々
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第二話(1) 縄張り

 雲ひとつない夜空に、真ん丸に満ちた月が悠然と浮かんでいる。

 人々も寝静まった夜更け。

 静まり返った町に、下駄の音はやけに響く。

 だが、この世ならざる者が立てる音は、ただの人には届かない。


 明かりの消えた家屋の屋根を渡り歩きながら、婀彌陀羅(あびだら)の機嫌は上々だった。

 夜が更けると気分が高揚する。こんな綺麗な月夜の晩は尚更だ。それは婀彌陀羅が妖だからだろうか。

 ゆったりと月明かりを浴びたくなり、更に高い場所へ足を運ぶ。


 選んだのは、町の南東に位置する寺の境内に建てられた寺塔の上。

 神代町の南に建つこの寺塔は、楼閣式の40mにも及ぶ高さを誇る、名の知れた名所の一つだ。

 とある異才の僧が建てた由緒ある塔らしいのだが、婀彌陀羅にとってはただの眺めの良い展望台でしかない。

 反った屋根の上に座り、町を見下ろす。

 この場所からは町の全体が見渡せる。


 普段は観光客で賑わう中心街でも、この時間になれば少しは落ち着きを見せる。

 足元広がる住宅の大半から明かりが消え、街灯の光がやけに明るく見える。

 闇に沈んだ家屋の隙間からは、大小様々な歪な影が覗いていた。それらの影は神社や寺だ。

 神代町には数多くの神社仏閣が点在している。近所を散策するだけでも、歴史的な建造物を目にすることが出来る。

 古い伝承が多く伝わっている、この地ならではの光景だろう。

 これが神代町を観光名所としてたらしめる所以(ゆえん)であり、現在では人を集客する最大の要でもある。


 婀彌陀羅が知る限りでも、昔からこの土地に住む者達は信仰心に厚く、その頃から寺社仏閣の数は多くあった──だが、ここまでではなかった気がする。

 いつごろから増え始めたのか考えても思い出せない。合戦や災害が起こった後ぐらいから急激に増えてきたような気もするが、そこら辺は記憶があやふやだ。あの頃は、人間の蛮行に便乗して狩りを楽しんでいた記憶しかない。

 婀彌陀羅からすれば、隣の空き地にマンション建つんだって~ぐらいに話半分で聞き流していたら、気付いた頃には町中に神社や寺が乱立していたといった感じだ。

 今では、見世物として世界有数の観光名所にまで発展させているのだから、人間の行動力には驚くばかりだ。


 少し目線を上げれば、神代町を囲む郊外まで見通せる。街灯の明かりさえない田舎町の郊外地域は、完全に闇に飲まれてしまっており、その郊外を囲むように西から北、そして東にかけ山々の影が連なっている。

 月明りを引き立たせる陰影の映えた景色。これだけなら、人の世を厭う婀彌陀羅でも美しい夜景だと思えたかもしれない。

 しかし、ここは神代町。そんな情緒ある町ではない。

 ──カラフルにライトアップされた巨大な仏像に鳥居、さらには教会の屋根に乗せられた、聖母像と十字架までが、闇夜に不自然に浮かび上がっていた。せっかくの景観が台無しである。

 月夜の光にも負けない存在感が、感傷に浸る間も与えてはくれない。

 

「神も宗教も節操のない町だな……」


 そう呟き、婀彌陀羅は無言になる。

 静かに町並みを眺めていた婀彌陀羅の視線が、空を見上げる。

 空に広がるのは、星の瞬く美しい月夜だ。だが、婀彌陀羅の瞳に映るのは星の輝きではない。

 何もない空を見つめ、〝何か〟を辿る様に視線が滑る。

 町の全景を見渡す様に、左から右へ──。

 そしてまた空へと上がり──、その瞳に月が映る直前で瞼は下される。


 目を閉じたまま、夏の夜の生温い風を受けていると、塔の下から微かな鈴虫の鳴き声が聞こえてきた。

 遮る物なく響く鈴音は、まるで、この地に人など始めからいなかったかの様な錯覚を覚えさせる。


 暫く虫の音に耳をすませていると、自分が鼻唄を歌っていることに気づく。

 昔からの癖だ。

 堕物へと堕ち、記憶は全て無くなっているというのに、独りになるといつの間にか口ずさんでいる。身体が記憶しているとでも云うのだろうか。

 もう詞があるのか、無いのかさえ思い出せないというのに──。


「さて、何の歌なのだか……」



  ☆★☆★☆★☆★☆★☆★



「暇だな」


 テーブルに突っ伏した体制で、婀彌陀羅が力無く呟く。

 向かいの席に座る軛はそれを横目で見ながら、またかと思う。


 婀彌陀羅はいつも暇を持て余している。

 どうやら、昨日の堕物騒動は余興にもならなかったらしい。

 最終的に、七霧山の開拓地騒ぎの方も八瞞が一人で解決してしまい、婀彌陀羅にはなんの活躍の場も無かった。

 

 婀彌陀羅と軛と八瞞は、『協定』を組んでいる。

 それは、契約書など存在しない口約束の様なもので、相手を縛るような取り決めもない。

 だが、それぞれが抱える()()が、誓約と同等とも言える縛りを生み出していた。


 婀彌陀羅を例に挙げるとするなら、妖術での攻撃手段に乏しく、面が外れれば正気を保っていられなくなる──といったところが上げられる。

 3人揃って、縄張りを護り切るだけの力が圧倒的に足りていない。

 必要時に協力し合わなければ、当然助けの手も借りられなくなる。つまりは、否応なしに協力するしか道が残されていないのだ。

 軛からすると全て関わりたくない事案ばかりなのだが、婀彌陀羅はその逆で、嬉々として関わりたがる。理由はもちろん、暇つぶしだ。


 縄張りを侵害する敵を排除し合い、力を合わせ助け合おう──などと婀彌陀羅は言ってはいるが、実際のところ、自分たちの縄張りが人間に目を付けられることなど、滅多にない。

 それはそうだ、縄張りとしている場所を考えれば容易に想像がつく。廃ビル、一般家屋、そしてなんの収穫も見込めない山。

 そう頻繁に現状が動くはずもない。


 今回の開拓地騒ぎだが、実の所、婀彌陀羅はかなり張り切っていた。殺る気を漲らせて、縄張りを荒らす人間共を、どう追い払ってやろうかと、年甲斐もなく楽しみにしていたのだ。

 それが不発に終わり、婀彌陀羅は愚図っていた。


 今日も今日とて、何もする事が無い。

 いつもの如く腹を満たしに絢爛界隈にあるオヤジの飯屋へ来たはいいが、着くなりこの状態である。


「……暇だ」


 唸るように同じ言葉を繰り返す婀彌陀羅を放置し、軛は頬杖をつき窓を眺める。

 窓から見える明々と揺らめく最天郷(さいてんきょう)の提灯を見上げながら思う──至極どうでもいい、と。

 軛からすれば、八瞞の縄張り──開拓地うんぬんの話は、始めから興味もやる気も無かった。その話が流れたからと言っても、手間が一つ省けただけとしか思えない。


「そんなに暇なのなら、人間でも揶揄って遊んでくればいいだろう」

「……つまらん。少し弄るだけでころりと死んでしまって面白味もない」


 婀彌陀羅はテーブルに落とした頭を上げず、首だけを動かして軛を見上げる。


「しかもだ、気づけば子だの孫だのと次々増え続け、一向に数が減らん。どういうことだ?彼奴等まるで、どくだみの様な繁殖力をしているぞ」

「……」


 おそらく、どくだみの例えは、婀彌陀羅の住む廃ビルに蔓延る雑草のことを言っているのだろう。先日、ついに室内にまで発生したと言って、憤っていた婀彌陀羅の姿を軛は思い出す。──要するに、それほど煩わしいと言う意味だ。

 忌々しそうに愚痴を口にする婀彌陀羅に、軛は鼻を鳴らす。


「お前と人間の時間の感覚を一緒にするからだ」


 婀彌陀羅も一昔前までは、堕物なりに人間を襲ったりもしていた時期もあった。

 ある時は目に付いた人間を気まぐれに呪ったり、またある時は、一族郎党皆殺しをわざわざ宣言しに出向き、人間に絶望を与えるなんて(たわむ)れもしていた。

 だが、人間をたかだか数人仕留めたところで、何かが変わるわけでもない。


 簡単に力尽きていく人間たちを殺すのにも飽き、ある程度気が遊んだらしばらく放置する。人間と感覚の違う婀彌陀羅は、放置する年数も気まぐれだ、数年、十数年間と時間を空ける……、そんな事をしていれば、次々に繁殖していく人間が減るはずもない。

 思い起こせば、婀彌陀羅の気紛れで生き延びた人間が、その後邪鬼を祓った英雄などと謳われ、3人もの嫁を娶り幸せな天寿を全うした──、なんて顛末もあった。

 その家に残された家伝では、婀彌陀羅は討伐され、今は地獄の業火で焼かれている事になっているらしい。伝書を見つけてきた八瞞が大笑いしていたのを覚えている。あの時ばかりは、軛も同情の念を抱いたものだ。

 

 婀彌陀羅の自業自得。

 そう言ってしまえばそれまでだが、そう簡単な言葉で片付けられるもので無いことも軛は理解している。


 堕物へと堕ちた自分達には、絶えること無く人間への憎悪が身魂に渦巻いている。

 面で瘴気を抑え込み狂った精神を抑制していたとしても、感情は消えては無くならない。

 一人、二人の人間を始末したからといって、怨みが晴れる事など永遠にありはしない。それは例え、人間が絶滅したとしても変わらない。

 いくら人間を始末したところで何も変わらないのなら、それはいっそ〝作業〟と呼べるものだろう。

 庭の伸びた雑草を刈り、部屋の隅に溜まったほこりを取るのと同じ。

 少し力を入れて触れるだけで死んでしまう脆弱な生き物など、婀彌陀羅にとっては雑草や塵と同じなのだ。

 どれだけ駆除しようと、繁殖力の強い人間は暫くすればまた増えていく。

 まさに、永久作業。

 そんな作業を率先してする気になるはずも無い。理性があるのなら、尚のこと──。


 この面は、正気を保つと共に、ある意味では持ち主を苦しめていた。

 婀彌陀羅は()うに、人間を絶滅させるなど到底無理なことだと悟ってしまっている。


(……簡潔に言えば()()()()起きない──というだけだがな)


 軛がやり場のない感情に息を吐くと、


「おい軛、何か面白い事をして見せろ」


 などと婀彌陀羅が偉そうに指図してくる。

 この常と変わらぬ不遜な態度を見ていると、そんな繊細な精神など微塵も持ち合わせていないように思え、自分は婀彌陀羅を買い被り過ぎているのではないかと、軛は何千回目かになる自問自答が過る。


「お前の首を噛みきって、素揚げにして食って見せればいいか?」

「お前が言うと、その手の冗句は笑えぬから他では言わんがいいぞ?」

「冗句?本気で言っている」


 そう返すと婀彌陀羅が無言になる。「やってみろ」などと、冗談でも口に出してはいけないことぐらいは分かったらしい。


「……はぁ。よく小娘は、此奴と一緒に暮らせるものだ」


 軛は不愉快そうに鼻を鳴らし、


「そんなに暇だと言うなら、自分の足で用とやらを探しに行け」


 と、冷たく遇う。


「お前も我と変わらん穀潰しの癖に偉そうに……」

「一緒にするな。俺はお前とは違って、日々真面目に行動している」


 軛の答えに消沈したように、婀彌陀羅が再度テーブルに額を着け、


「……つまらん」


 拗ねたようにそう言ったきり黙り込む。


 ここで友人同士ならば、気落ちした友を元気付けようと声を掛けたり、遊びの提案をしたりする所なのだろうが、軛はそんな無駄な事はしない。


 不貞る婀彌陀羅から視線を動かすと、丁度、厨房から3対の腕に料理を持った店主がこちらへ向かって来る所だった。

 今日も変わらず、客を歓迎しているとはお世辞でも言えないような顰めっ面だ。

 複腕を器用に動かしながら、注文していた料理を次々とテーブルに並べていく。店主はテーブルに突っ伏している婀彌陀羅を気にする素振りさえ見せない。客に対しての関心を微塵も持たないのが、この店主の最大の特徴だろう。

 料理がテーブルを埋め尽くすと、香ばしい匂いに釣られ婀彌陀羅がむくりと顔を上げる。


「おお、今日も美味そうだな」


 テーブルに並べられた料理を見るなり、婀彌陀羅はしゃっきりと姿勢を正し、いそいそと箸を手に取る。直前まで愚痴をこぼしていた者とは思えない変わり身の速さだ。

 そんな婀彌陀羅を見て、軛はやはりなと内心で息を吐く。


 婀彌陀羅の感情が長続きしない事を、軛は長年の付き合いで知っている。

 笑っても、怒っても、そう間を置くことなく次の瞬間には平常に戻っている。良く言えば根に持たない、とでも言えばいいのか。変わった思考回路をしているのは確かだ。

 それが堕物へと堕ちた何らかの弊害なのか、ただ単に他人に構って欲しくて作っている態度なのかまでは知りようもないが──。


 軛は料理に箸を伸ばしながら婀彌陀羅を伺い見る。

 先ほどまでの鬱々とした空気は消え、今は周りに花を飛ばさんばかりに一口一口料理を美味しそうに味わっている。

 軛が何をしても、しなくても、婀彌陀羅のペースは変わらない。気を回すだけ無駄なのだ。



  ☆★☆★☆★☆★☆★☆★



 滑らかな食感と共に、卵の柔らかな味わいが口内に広がり、婀彌陀羅は満足そうにスプーンを動かす。

 この店が出す卵豆腐はやけに黄色味が強くはあるが、舌触りは滑らかで味付けも上品でさっぱりしている。

 ここに来ると必ず食べている婀彌陀羅のお気に入りの料理だ。気分により冷奴か温奴を選べるのも魅力の一つでもある。

 薄味の物を食べていると、次は辛物か甘酸っぱい物が食べたくなるのは人間も妖も変わらない。

 揚げ鳥と野菜を酢で絡めた料理──酢鳥を注文したはずだと、酢鳥の盛られた皿があった方へ視線を向ける。

 しかし、酢鳥の盛られた皿は既に野菜の一欠片も残さず空になっていた。

 婀彌陀羅は目の前に座る軛をじとりと睨む。

 黙々と食事を食べ続ける軛は、気づくことなく箸を動かしている。いや、気づいてはいるが、食事を優先しているのだ。

 軛の食事は一口が大きく、婀彌陀羅が一皿を食べる間に三皿も四皿も料理を平らげてしまう。

 見ている側から、顔ほどの大きさがある怪鳥の姿焼を器用に箸で掴み取り、肉片と一緒に怪鳥の太い骨ごと噛み砕き、ほんの数口で腹に収めてしまう。

 だからと言って、軛の食べ方を不快に感じているわけではない。食べ方は豪快ではあるが、所動は整っている。口の周りを全く汚すことなく、綺麗に料理を平らげる姿はいっそ清々しいまであった。

 婀彌陀羅は無くなった酢鳥を諦め、別の物を探す。

 辛く味付けされた茄子の味噌和えがあったはずだと、視線を動かし──、またも空になった皿を見つけ、胸中に吹き荒ぶ虚無感を慰めるように、目の前に置かれた煮豆を摘んで食べた。


 あっという間に空になっていく皿をテーブルの端に重られていく。

 そろそろ、テーブルの上の皿も残り少なくなった所で、軛が思い出したように口を開く。


「お前の所は変わりないのか」

「ん?」


 何の話だと首を傾げる婀彌陀羅に、軛は「縄張りの話だ」と、言葉を付け足す。


「以前は宗教団体が住み着いていただろう。今はもう来ていないのか」


 婀彌陀羅が住処としている廃ビルが建てられたのは、随分と昔になる。

 始めは洒落た造りの複合住宅として建てられたようだったが、人が移住するより前に、家主がビル内で不審死した。

 もちろん、これは婀彌陀羅の仕業だったが、一気に新築のビルが今流行の事故物件に早変わりした訳だ。

 その後は、持ち主を転々とし、用途によって修復工事などの手を加えられ、現在の奇妙な造りの廃ビルとなった経緯がある。

 曰く付きのビル一棟を一般人が購入するはずもなく、裏社会の人間だったり、頭のネジが外れたような輩ばかりが目を付けた。その中に、無名の神を崇める異様な宗教団体もあり、黒装束の変人が頻回に出入りしていた時期があった。


 面の下で、軛は遠い目をする。


(あれらを一人残らず追い出すのは、手を焼いた……)


 軛からすれば、八瞞の開拓地騒動よりも、婀彌陀羅の案件の方がよほど面倒臭い。できる事なら、問題が起こる前に、芽を摘んでおきたいと思うのは当然の話だった。


「何年前の話をしている。そいつらを追い出したのは20年は前だぞ?戻って来るはずがない」

「そんなに経ったか?」


 自分の縄張りに関する事なら、婀彌陀羅といえど比較的まともな思考を持っている。20年という数字に間違いはないだろう。

 人間界の20年は長い。子供は大人になり、町の景観さえも目まぐるしく様変わりする。 

 人とは時間の感覚が違う妖達は、その変動に付いて行くのも一苦労だ。先程は婀彌陀羅を窘めた軛も、人の世の流れにはなかなかに慣れない。記憶を探る軛が何かを思い出す。


「そうか。確か警察が大勢来ていた、あの時の……」

「それは詐欺師の本拠地になっていた時だ」

「……詐欺……」

「悪徳商法と言ったか、あれだ」


 その言葉に軛の食べる手が止まる。が、気にせず婀彌陀羅は続ける。


「その後は麻薬密売に、駆け落ち心中があったぐらいか?時たま、電話を片手に肝試しに来る馬鹿者もいるが、まぁ全て片付けてやっている」


 胸を張る婀彌陀羅に、軛は内心で頭を抱える。何故そんなにも偏った人物しか寄ってこないのかと。

 あのビルは何か呪われているのではないかと考え、婀彌陀羅が住居としている時点で、相当に厄介な忌み地なのは間違いなかったと思い直す。


「……なら、今はただの廃ビルなんだな」

「そうだな。今はラブホ跡地になっているらしい」


 赤汁を皿によそいながらの婀彌陀羅の答えに、軛は思考が停止する。一瞬言葉が理解できなかった。何度も頭の中で反芻し、言葉を理解してもなお信じられず、聞き返してしまう。


「…………もう一度言ってくれ」

「性格どころか、耳まで悪くなったのか?ラブホだ、ラブホ」


 衝撃を受けている軛に気づかない婀彌陀羅は、3文字の言葉を繰り返す。今どきのカタカナ言葉に強くない婀彌陀羅から、流暢に出てくる言葉に軛はめまいがする。


「それは、アレか…………寝台しかない部屋の……」

「風呂も便所もある」

「……いや、そうじゃない…………」

「なんだ?」


 言い淀む軛が、面の下で渋い顔をしているような気がして、婀彌陀羅は首を傾げる。


「?」


 額を押さえ何かを考えこんでいる様子の軛に、何故そんな反応をされるのかが分からずにいると──、


「婀彌ちゃんは、もっと怒っていいと思うよ」


と、横から八瞞の声が割り込んできた。

 視線を向けると、いつから話を聞いていたのか、婀彌陀羅の横には八瞞が立っていた。防毒面(ガスマスク)の外された口元が愉快そうに弧を描いている。


「今日は早いな」

「お腹空いたからね」


 そう言うと婀彌陀羅の隣へ腰掛け、いつもの様に店主に軽く料理を注文する。箸を取り料理をつまみ出した八瞞を、ようやく顔を上げた軛が睨みつける。


「貴様、よくものこのこと俺の前に姿を現せたな」

「あれ、俺なんかしたかな?」


 周りの客が引く程の殺気を真正面から向けられていても、八瞞に動じた様子も見せず飄々としている。


「惚けるな。昨日の件だ」


 声を低くする軛を前に、八瞞は婀彌陀羅に肩を寄せる。


「ねぇ、これどっちの話?」

「堕物の方だ」

「貴様らを始末する方が速いか?」


 こそこそとしてるのは態度だけだ。全て軛にまで聞こえている。

 堕物を差し向けるという暴挙以外にも、まだ心当たりがあるような素振りを見せる2人に軛が拳を握る。

 けれど、そんな軛にもいとも介さず、八瞞は「そっちね」と、本当に忘れていたかのような反応を見せながら、「でも、面白かったでしょ?」などと、婀彌陀羅に話を振る。


「ふむ、まあまあだったな」

「あ、そう」


 この投げやりな返事からも、婀彌陀羅の評価など元より気にしてもいなかったのがあからさまだ。

 しかも、それで話は終わったとばかりに、食事を続ける2人の姿に、軛は自分の感覚まで可笑しくなりそうな錯覚を抱く。

 次第に一人怒っているのが、だんだんと馬鹿らしくなってくる。


「……次にやったら、殺す」


 それだけを威嚇を込めて言うも、軛の声に覇気は無い。八瞞も反省の色は無く「おお、コワ」と肩をすくめるだけだった。


 軛の怒気も薄れ、静かになったテーブルで料理を食べ進めていた婀彌陀羅は、視界の端に違和感を感じて箸を止める。

 前を見ると、向かいに座る軛が面の額を押さえ俯いていた。纏う空気はずっしりと重く、何かが肩に伸し掛かっているかのように鬱々しい。

 その様子は、自分の不甲斐なさを痛感し、変えられない過去を後悔する人生の惨敗者のようだ。負け犬と言った方がしっくりくるかもしれない

 そんな声に出せば殴られるような事を考えながら、婀彌陀羅は怪訝そうに声を掛ける。


「なんだ?どうかしたのか」

「……なんでもない、気にするな……」


 どう見てもなにも無いようには見えず、面の下で婀彌陀羅の眉が寄る。

 3人の中で一番食に対し執着しているのが軛だ。その軛が料理を目の前にして手を止めるなど、もはや婀彌陀羅の知る軛ではない。天変地異の前触れだ。


「具合でも悪いのか、それともこれが食べ物だと認識できないほど頭がおかしくなったか?動物病院にでもつれて行くか?」


 貶しているようにしか聞こえない婀彌陀羅の気遣いにも、


「黙れ、俺を犬扱いするなと……、はぁ……」


 と、手で追い払う仕草をするだけで反応は弱い。

 そんな2人を眺めながら八瞞の口元が弧を深める。


「せっかく俺が黙ってたのに婀彌ちゃんが()()のこと暴っちゃうから、ワンちゃんがショック受けちゃってんだよ」

「……黙れ狸」


 訳知り顔で婀彌陀羅へ答える八瞞は、何故だか1人楽しそうだ。


「ふむ……」


 八瞞が言うようにショックを受けているというのは、軛の様子から見ても合っている様にも思えた。だが、婀彌陀羅にはその理由が理解できない。


「何故だ?」

「何故だろうね〜?」


 理由が分からない婀彌陀羅が問うが、八瞞はそれには答える気が無いのかはぐらかしながら、軛の前にある皿から揚げ物を摘み齧り付く。

 何もかも分かってますと言った顔をしておきながら、答える気が無い。その様子からも、現状を面白がっているのがあからさまで婀彌陀羅は面白くない。理由の分かっていない自分まで笑われている気がする。

 婀彌陀羅は楽しそうにしている八瞞を面越しに睨め付ける。


「何をそんなに気にすることがあるのだ?そもそも、どれが問題なのかも分からん」

「たぶん、ラブホかなぁ」

「ただの宿泊所のことだろう?──お前がそう言ったではないか」


 八瞞へ箸先で指しながら婀彌陀羅が言う。


「照明も凝った創りをしているし、壁紙も洒落た部屋ばかりで飽きん。子供好きする部屋ばかりだ」


 その言葉に軛が八瞞へ顔を向ける。


「まさか、お前……」

「うん。言ってないね」


 八瞞の軽い返答に、どうりで婀彌陀羅が気分も害さず堂々と答えたはずだと、軛は額を押さえる。

 過去にラブホの意味が分からなかった婀彌陀羅が、どういった建物なのかを八瞞へ訪ねたのだろう。

 そこに住む婀彌陀羅を哀れに思ったか、揶揄ったのかは分からないが、ただ宿泊するだけの洒落たホテルだと教えたようだ。

 婀彌陀羅が本来の用途に気付いていなかったのは幸いだったが──、仮にも人間を憎む堕物が住処とする場所を、人間が目交うだけのやり部屋にするとは恐ろしい。


(人間共は〝あの部屋〟を見ていないのか?)


 長年付き合いのある軛や八瞞でさえ入ることを許されない、朽ちた老木が植わっているあの部屋を──。


 知らなかったでは済まされない。確実に面倒なことになる。

 先ほどの婀彌陀羅から発せられた自覚ないカミングアウトは、軛に思考が停止するほどの衝撃を与えた。無様に取り乱さなかった自分を褒めてやりたいぐらいだ。

 

 軛としても婀彌陀羅の機嫌を損なうのは勘弁願いたい。その為にも、決してラブホ本来の意味を婀彌陀羅に知られる訳にはいかない。

 それよりも、同じ過ちが繰り返されないよう、現世に疎い婀彌陀羅の代わりに立ち回る必要があるかもしれないと考える。


(……そうなると、今後はこいつの縄張りまで俺が気に掛ける必要があるのか……?)


 先が思いやられると頭を悩ませ、重い溜め息を吐き顔を上げれば──、


「そうだ。先日、背が鋭角になっている面妖な馬の玩具を見つけたのだが、あれが何か分かるか?」

「……何だそれは、精霊馬のようなものか?」


 軛には婀彌陀羅の言う馬が分からず、精霊馬でなければ木馬ではないかと軛が考える間に、


「いや、もっとデカい奴だ。我の予想では近代的な呪具か何かだと思うのだが、どう思う?」


 わくわくした様子で婀彌陀羅は八瞞へ話を振る。


(何故、こいつに聞くっ……!)


 婀彌陀羅が聞いた途端、一瞬だが、八瞞の口角が震えるのを軛は見逃さなかった。絶対に、笑いを堪えている。

 その玩具がどういう物なのかは知らないが、あのビルに残された遺物だ。確実に碌でもない物だとは見当がつく。

 もう余計なことは言うなと睨む軛を見ながら、八瞞の唇が弧を描く。


「あとで教えたげる」

「絶対に教えるな」

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