第一話(4) 堕物-2
堕物の巨大な口が、地面ごと獲物を鋭い歯で抉り尽くす──、筈だった。
勢いのまま齧りついた地表には、土壌が刮げた跡が残るだけで獲物の姿は無い。
堕物は口に入り込んだ土を喉に流し込みながら、首を落ち着きなく振り、消えた獲物を探し始める。
目が無いぶん鼻が利くのか、頻りに鼻先をヒクつかせている。
堕物の動きが止まる。
首が向いているのは、正確に婀彌陀羅の逃げた方向だった。
「やはり、標的は婀彌陀羅か……。もはや疑うのも時間の無駄のように感じるな」
予想を裏切らない婀彌陀羅に、軛は呆れ半分、その他の何とも言えない複雑な感情を半分にぼやく。
厄介ごとを持ち込むのは、いつも婀彌陀羅だ。
好き勝手に衝動のまま行動しては各地で敵を作り、自ら首を絞めていく。
その尻拭いをするのはいつも軛だった。
婀彌陀羅を始末しようと乗り込んできた相手に、素直に身柄を差し出していたら解決する物事がどれほどあっただろうか。
婀彌陀羅の様子を窺えば、通りの奥へ向かい逃げている最中だった。背を向け、脱兎の勢いでこの場から遠ざかって行く。
だが、いくら逃げようと相手は堕物。この程度であれば、直ぐさま距離を詰められてしまう。
逃げる婀彌陀羅を追おうと堕物が前足を踏み出す、その前に軛は立ち塞がった。脇に槐を抱えたまま、堕物の進行を塞ぐように前に出る。
「ギャギュィイイイイ!!」
途端、堕物が激高し奇声を上げる。
邪魔をされている──、まともに思考を紡げない堕物でも直感で感じられたのだろう。
邪魔者を排除する事を堕物は躊躇しない。
堕物は軛に向け、口から赤黒い塊を吐き出した。
それを素早い動きで避けると、直前まで立っていた地面がジュウッと音を立て泡立った。吐き出された粘液質の赤黒い塊は、触れた地面を溶かしながら周囲に激臭を放つ。
「……ぐっ……!」
鼻の良い軛は面の下で顔を盛大に顰め、喉からくぐもった呻きを漏らす。
泥々とした塊の中には、喰われた妖達の溶けた体の一部が見えた。それを見て、軛は喰われた者が生きてはいない事を改めて認識する。
堕物の体内は、この強酸の消化液で満たされているのだろう。仮に生き延びている者がいたとすれば、この消化液を弾くような特殊な能力が必要になるだろう。
それ以前に、あの口内に蔓延る幾千の歯の通路を、五体満足で通り抜けれたらの話ではあるが──。
「ふぐ、ぅ゛うぅゔっ」
苦悶の唸りに視線を下げると、脇に抱えた槐が両手で鼻と口を押さえ、顔を紫色にして身悶えていた。
浮いた両足をバタつかせ、早くこの場を去りたいと訴えている。血と臓物の交じった消化液のあまりの激臭に、恐怖に固まっていた槐もそれどころではなくなったのだろう。
斯く言う軛も息を止め、声を出さないよう努めている。
軛は背後を振り返り、先ほどよりも距離の離れた婀彌陀羅の姿を確認する──間もなく、小脇に抱えた槐が大腿を叩き軛の注意を引く。どうやら本当に限界のようだ。
軛は槐を抱え直すと、堕物の方へ向かい駆け出す。
正面から向かってくる獲物を仕留めようとする、堕物から繰り出されるた前足の攻撃を搔い潜り、さらに逃すかとばかりに襲いくる無数の尾の刃を全て躱し、軛は堕物の横を素早く通り抜ける。
それ以上は振り返ることもなく、軛は婀彌陀羅が逃げた方向とは逆の方へ、速度を上げ走り去った。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★
「ギュ ギィイ゛ィ ィア゛ァア゛」
堕物が毛を逆立たせ、無数の尾を振り回しながら憤怒の雄叫びを上げる。
標的を目前にしながら捕らえられず、追えば方々に逃げ惑う獲物に翻弄され、怒りが憎悪へ変化し膨れ上がる。
──それを引き金に、堕物の身体に変化が起きる。
吼える堕物の身体の内部で何かが蠢く。ぼこぼこと動き回る何かは、堕物の皮を裂き表面へとその姿を現す。
それは、無数の紅い眼球だった。ぎょろぎょろと落ち着きなく動く眼玉は、裂けた皮膚から流れる血で、血涙を流しているようにも見える。
堕物の変化は止まらない。
鋭い尾は棘で覆われ、口内の歯も牙のように鋭さを増し、身体や手脚がビキビキと音を立て、頑強な肉体へと変態していく。
ごく稀に、瘴気の吸収以外で堕物に変化が現れることがある。
思考をまともに紡げない堕物が、激しく反応するのは負の感情だ。
それは瞬間的な憎悪や憤怒、興奮が高まったりと、何かしらの精神的変化の兆候があった直後に起こる。
まるで進化したかの如く、姿が変化し力が増大する。
当然、手に負えない事態となるため、速やかに堕物を討伐出来ないのなら、手を出すなと言われる程である。
「軛め、余計な挑発をしたな」
堕物の変化を横目で見返りながら、婀彌陀羅はさらに足を早める。
槐がいた為、軛が稼げた時間は僅かだったが、堕物とは幾分か距離を取れた。
(このまま逃げ切れれば、上々だが……)
そんな甘い考えが過った時──、堕物の蠢く無数の目が婀彌陀羅を一斉に捉えた。
「っ──!!」
次の瞬間──、ズンッ!!
地が震える衝撃と共に、堕ち物の巨体が空へ跳躍する。
手足の筋肉がバネのように変化した堕物はまるで蚤のように飛び上がり、その勢いのまま婀彌陀羅へ目掛け跳び込んでくる。咄嗟に前へ飛び込むようにして身を逃がし、既の所で即死の攻撃を回避すると、背後で大砲が撃ち込まれたかのような破壊音が上がる。
振り返ると、堕物は斜め後ろに建っていた店へ頭から突っ込んでいた。かなりの距離を稼いだはずが、一瞬で縮められてしまった。
堕物は崩れた瓦礫に阻まれ上手く動けずにいた。
今のうちに、急ぎ距離を取る必要がある。だが、それも身体が変化したこの堕物相手では無意味だろう。強靭な脚力によって、またすぐに距離を詰められるのは明白だった。
「……埒が開かんか──」
体を蠢かせ、崩れた建物の瓦礫を撒き散らしながら、頭を引き出した堕物は、逃げた獲物を探し眼球を忙しなく動かしている。
複眼の1つが婀彌陀羅の姿を捉え──、残りの眼球も一斉に向く。
そこには先ほどの軛と同様に、通りに仁王立ち堕物と対峙する婀彌陀羅がいた。
「来い。化け物」
前に腕を突き出し、手招く動作で堕物を挑発して見せる。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★
挑発に乗せられた堕物が身を震わせ咆哮を上げる。
「ギッ ヂュ ア゛ァアァア゛ア゛!!」
大口から放たれる咆哮は衝撃派となり、周りの建物が振動し、窓硝子が割れ、壁にヒビが走る。
正面から放たれる圧にも、婀彌陀羅は動じない。
猛り狂う堕物は跳ねる勢いで這い迫る。
飛び掛かられれば一瞬で詰められる距離だというのに、それでも婀彌陀羅は逃げる素振りも見せずに前を見据えている。
婀彌陀羅が両手を前へ掲げる。
紅色の髪先に光が流れ、ゆらりと髪が浮き上がる。
次の瞬間──、突き出された腕から朱色の綱が勢いよく放たれた。
三重螺旋状に綯われた何本もの太い綱が、投網のように左右に広がり建ち並ぶ店の外構に絡まっていく。
瞬く間に、通りは赤い綱のバリケードで覆われていた。
婀彌陀羅の使える妖術の一つ──『結縛』
何本もの朱色の太綱を作り出し、手足のように自在に操ることができる。
妖力で練り上げられた綱は強靭で、その強度は鋼をも超える。
自在に操れるというだけで戦闘には不向きな術だが、妖力をそれ程必要としない割に使い勝手の良い、婀彌陀羅の十八番だ。
大口を開け頭から飛び込んできた堕物が綱に激突する。
「キ ジャア゛ア゛ァア!!」
前を阻む邪魔な綱の存在に、堕物が興奮に目を剥き暴れまくる。
牙に絡まる綱を嚙みちぎろうともがく体に、新たに放たれた綱が巻き付き、大きく開いた口や手足、触手尾を拘束していく。
しかし、拘束されてなお堕物の突進は止まらない。
口枷のように纏わりつく綱に、何度も何度も噛みつきながら全身を振るわせる。
もがく堕物の右腕がズンッ、と一歩前へ踏み出す。
ガキン!という金属音と共に、綱を絡ませていた店の看板が引力に耐え切れず壊れ落ちる。
手足に絡まる綱を引きながら巨体がじりじりと前へ進む。
婀彌陀羅と堕物の間は、僅か10メートル程しか離れていない。
「……くっ……」
婀彌陀羅はさらに綱を放ち、拘束する綱の数を増やす。
しかし、堕物の怪力によって、綱が千切れるより先に、その綱を支える建物の方が限界を迎え崩れていく。
結綱の強度は妖力を練れば練る程に増していく──だが、そんな事をすれば婀彌陀羅の妖力が先に底をついてしまう。妖力が切れれば、今、堕物を拘束している綱自体の強度が保てなくなってしまう。
建物が崩れる音と共に、綱が一本、また一本と緩み、拘束が緩んでいく。
綱を作り出す度に、婀彌陀羅の少ない妖力が削られていく。
堕物の進行を防ぐ綱は、残り5本にまで迫っていた。
「……ぐぐっ……」
婀彌陀羅は残った綱端を腕に巻きとり、胸元で腕を組む。
残った綱の強度と腕力のみで迫る堕物の力に抗うが、堕物が身を捩る度に綱がぎりぎりと腕に食い込んでくる。だが、ここで力を緩めれば、婀彌陀羅の軽い体など一瞬で持っていかれてしまう。
さらに綱を引く腕に力を込めるが、婀彌陀羅の腕力よりも堕物の方が何倍も力が強い。
ばつん──、
ばつん──、
ついに限界を迎えた綱が千切れだし、堕物が一歩ずつ前へ進んでくる。
ズズッ……ズズッ……、
巨体が婀彌陀羅に迫る。
ばつんっ!!──、巨体を押し留めていた3本の綱が一気に千切れる。
どうにか拮抗させていた力が消失し、婀彌陀羅の身体が大きく体制を崩す。
それを好機と見た堕物が、婀彌陀羅に向け鋭い触手の尾を放つが、それを予想していた婀彌陀羅はくるりと身を翻し後退する。
なかなか捕らえられない獲物に、憤った堕物がこれで終いだとばかりに、大きく口を開け勢いよく一歩を踏み出した。
「ギュィイイイイイ!!」
──だが、踏み出した前脚は先を踏むこと無く元の場所に戻ってしまう。
ガリッ、ガリッ、と鋭利な爪先が地面を掻くが、何度前足を動かしても体は前に進まない。
訳も分からずもがきながら、鼻息を荒くする堕物の鼻先が覚えのある臭いを捉え、複眼が一斉に鼻先に寄る。
「こいつに手を出すな」
堕物の口前には、軛の姿があった。
軛は堕物の下顎を片手で抑え、その身一つで巨体を押し留めていた。
どうやら巨大な体は神経が鈍感になっているらしく、臭いを感知するまで顎を抑える軛の存在に気が付いていなかったようだ。
「遅い。危うく喰われる所だ」
「……手を離すぞ」
婀彌陀羅に堕物と戦えるような攻撃手段はない。
妖力は常にかつかつで、「結縛」以外にまともに扱える術がない。
その為、こういった局面で戦闘を担当するのは、軛の役割になっている。
婀彌陀羅は、軛が堕物の手が届かない安全な場所へ槐を避難させ、尚且つ駆けつけるまでの時間を稼いでいたのだ。
だが、助けられておきながら、背後で腕を組んで踏ん反り返り、文句を垂れる婀彌陀羅に、
「もう少し遅れて来るんだったな」
と、軛は後悔を口にする。
そう言いながらも、抵抗を強める堕物を相手に、顎を抑える腕へさらに力を込め押し留める。それどころか、堕物の体は押しやられ、じりじりと後退までしている。
堕物が巨体を震わせ邪魔者を押し退けようと躍起になるが、手足を振り回しても軛の体は揺るがない。
圧倒的な力の差。
だが、思考力の低下した堕物は力を緩めるどころか、首と繋がった胴を無茶苦茶に動かしながら、邪魔をする軛を食い殺そうと無意味に足掻く。
そんな堕物を前に、軛は諦念感を吐き出すように軽く息を吐く。一縷の念で語りかけてはみたが、やはり言葉も理解できていない。
「……やはり、無駄か」
そう呟くと、堕物を押さえる軛の両腕がぶわりと膨張する。
髪と同色の暗灰色の毛に覆われた、鋭い爪をもつ巨大な獣の腕──、これは軛の腕だ。両腕だけを、狗の妖としての本来の姿に戻したのだ。
人の姿をした胴に不釣り合いな巨大な獣の手が、堕物の上顎と下顎を鷲掴む。
鋭い爪が食い込む激痛に激しく抵抗する堕物を意にも介さず、軛は顎を掴んだ両腕を上下に大きく広げる。
「ヂュ ジュゥヴヴ ゥゥウッ !!」
絶叫が上がる。
堕物は紙切れのように上顎と下顎の間から引き裂かれ、続く胴が半端まで引きちぎられる。裂けた部位からタールのような黒い粘液質の血液を撒き散らし、堕物はあっけなく地面に崩れ落ちた。
軛の背後にいた婀彌陀羅が、横から顔を出す。
「どうだ?」
「まだだ、今から殺す」
そう言うと、軛は獣の腕を構え、ピクピクと痙攣する堕物の胴へ容赦なく拳を突き入れた。
蠢く肉の中で腸を掴むと、そのまま腕を引く。ビチ、ブチュ、と繊維が引き千切られる生々しい音を立ながら、赤黒い臓物が引きずり出される。
「ギッ!ギヂュイイイイイッ!!」
もはや原型を留めない肉塊は、複眼を引ん剥き、手足を跳ねさせ、劈くような断末魔の叫びを上げる。
胴体に空いた大穴から、ごぼごぼと粘液質の血が吹き零れ、破れた内臓から消化液が漏れ出し堕物の肉を溶かしていく。
広がる激臭に鼻を庇いながら、軛は引きずり出した──、まだ手の中で蠢く臓物を背後に投げ捨てる。
「ヂュ、ギュ……ィィ……」
堕物の呻きがか細くなるにつれ、粘度をもっていた血液が急速に乾きはじめる。
濁り膜の張った複眼が体内に陥没し、同時に、血を吹き出していた穴の周囲から徐々に干乾びてヒビ割れていく。
そう時間もかからず、堕物の体は崩れ果て塵へと姿を変えていった。
死んだ堕物の体がこの世に残ることは無い。
穢れた魂は輪廻の輪に戻ることもできず、地獄の業火で焼き尽くされてしまう。
あるいは延々と虚空を彷徨い、魂の限界を迎え消滅する運命しかない。
塵が崩れ、風に消えていく中──、
巨大な鼠の頭蓋骨が現れ、それも瞬く間に消えていってしまった。