第一話(2) 狐狗狸-2
商い通りから狭い横道へ逸れると、その先に長く蛇行した石段が現れる。隣接する建物の壁に挟まれた、人型のモノが2人並んで歩くのがせいぜいの幅の細い石段。
軽い足取りで婀彌陀羅が1段先を進む。
石段を登るにつれ、薄暗いだけだった周辺の闇が段々と濃くなっていく。
さらに登ると、その闇の中に真紅色の人工的な灯りが入り込み、ざわざわとした喧騒が空気に混じる。
カツリと下駄を鳴らし、最後の石段を登りきる。
石段の先には、幾千もの提灯が闇を彩る夜の街が広がっていた。
石段を登りきるまでに日が落ちたのではない。この空間だけが、常に夜の暗闇に覆われているのだ。
天には太陽もなければ、月も星もない。
闇夜を照らす月の代わりとでも言うように、過剰なまでに取り付けられた提灯や看板が、明々と夜暗に浮かび上がっている。
何処からともなく響いてくる笛の音や太鼓を鳴らす音が、チンドンチンドンと祭りのように鳴らされ、商い通りと比べて異常に騒がしい。
彼方此方の店の窓から見える異形の影が、楽しそうに笑い声を上げながら酒を飲み交わしている。
どの建物よりも高く大きな門に設置された、ネオン看板には『絢爛界隈』の文字。この空間の通り名だ。
呼び名の通り、「商い通り」よりも煌びやかな店が多いのが特徴の大通りである。
大きな通りが何本も重なり繋がりあった為に、一つの街のようになった事から「界隈」と、いつ頃からか呼ばれ始めた。
始めはただ暗いだけの通り道が、ここまで大きくなったのには理由がある。
闇夜を照らす派手な店が犇めく中で、一等明々とその存在を主張する建物が一つ。
他の追随を許さぬとばかりに、ひときわ巨大な横看板を掲げる店──『最天郷』
最天郷は、界隈随一の老舗料亭である。
外観は、和と中の要素が盛り込まれた十重の高層建築で、全ての屋根を赤瓦が覆っている。
煉瓦屋根の両端には猿の像が置かれており、その両手に掲げられた玉からは、どうどうと滝のように水が流れ落ち、洗練された庭園まで続いている。
壁一面に並ぶ窓からは絶えず暖かな光が漏れ、窓の上に取り付けられた長い庇には、赤い提灯がずらりと吊るされていた。
この店が出来たことで、絢爛界隈はこれほどまでに活気に満ちた場所となったとまで言える実績があった。
最天郷で出される料理は、未知の食材が使われ、その味は天上の甘露にさえ勝るとも劣らぬ味だと言われている。
事実、普段はお目に掛かれないような上級神でさえ、この店を贔屓にしている姿が見られており、噂が真実であると物語っていた。
店も料理も最高級品。150年先まで空席の無い、予約の取れない店。
縁の無いモノは、手の届かない高みを眺めながら、最天郷を囲む小さな食堂で、その味を想像で腹を満たすしかない。
もはや周囲の店など、最天郷を照らすだけの引き立て役と言っても過言ではないだろう。
しかし、婀彌陀羅と軛の目的地は、その真向かいにあった。
最天郷の明かりがギリギリ届かない位置に、ひっそりと佇む木造の古びた店──。
この闇の中に店を構えておきながら、店を照らす提灯は入口に1つしか吊るされておらず、影に呑まれ店の全容が見えない。最天郷の前に店を構えるなど、烏滸がましいほど飾り気が無い。
店の扉には【商い中】と書かれた紙が貼ってあるが、他には看板も無く、何の店なのさえ分からない。
闇にぽっかりと浮かんだ引き戸式の扉を開け、婀彌陀羅と軛は迷いなく店内へ入っていく。
中に入ると暖かい空気と共に、香ばしい匂いが漂ってくる。店に充満する香りは、疑いようもなくここが食事処であることを物語っていた。
外装とは変わり、店内の様子はそう悪くはない。
古家であることに変わりはなく、木の格子窓や梁の露になっている天井など、内装も造りが古めかしいが、これが却って趣を感じさせる風合いになっていた。
飾り気のない店内には、数席分のカウンター席と、頑丈な作りのテーブルが8卓に長椅子が配置され、透し彫りの施された木の敷居で区切られている。
店に入った客を迎える声はない。
店内には食事中の異形の客が数人いたが、従業員の姿さえ見当たらない。暖簾の掛かったカウンター越しの厨房から、調理をする金物の音だけが絶え間なく聞こえてくる。
それを気にすることなく、婀彌陀羅と軛は勝手に空いている席に着くと、壁に掛かったメニューを見ることなく厨房へ向け声をかける。
「おやじ注文だ。適当に肉料理と野菜料理を5人前持ってきてくれ」
婀彌陀羅の注文に店内にいる客の視線が向けられる。
「それから月夜鍋と、山菜汁……、串の盛り合わせを」
軛はテーブルに乗せきれない量を注文する婀彌陀羅を止めようとしない。他の客が好奇の視線を向ける中、黙って注文を聞いていた軛が動く。
「今、注文した料理をもう10人前足してくれ。あと米を飯櫃で頼む」
最初の注文が2人分でなかった事に、店内から驚嘆の声が上がった。
そう時間もかけず、出来上がった料理を運んできたのは、ガタイの良い中年風の人型をした男の物の怪だった。
形は人と似ているが、腕が肩と背中からも生えており、両腕合わせて6本の腕が料理の皿を持っている。
袖が6つある黒い調理衣を纏い、料理人らしく短く切られた白髪に、黒紫色の瞳はその半分が目付きの悪さから瞼に隠れている。常に眉間に皺を寄せているのか溝は深く、客商売には向いていない顔付きの男だ。
この店を回しているのは、この店主1人だけである。他に従業員はいない。
この店にはテーブル席と座席、カウンター席と数はあるが、全ての席が埋まる事は滅多にない。
質素過ぎる店構えも問題なのだが、それ以前に、目の前に最天郷があるのだから必然的に客足は遠のいてしまう。
客が多い日でも十人程しか入らない店では、店主一人で手が足りてしまうのだ。
とんとんとん、とテンポよく料理の盛りに盛られた皿がテーブルに乗せられていく。手に持った皿を置くと、すぐにカウンターへ戻り、次の料理を持ってくる。
作り置きでもされていたのではないかと疑いたくなるほどの速さで、出来立ての料理が次々と運ばれてくる。
最後の料理をテーブルに置くと、寡黙な店主は一言も話す事なく厨房へ戻って行った。
そんな店主の態度にも慣れたもので、婀彌陀羅と軛は各々料理に箸を伸ばす。
狐面を外さぬまま、婀彌陀羅は料理を摘むと自然な流れで口元へ運ぶ。
すると、料理は着けている面を通り抜け、婀彌陀羅の口元へ入っていった。面から引き抜かれ箸先からは、料理が綺麗に無くなっている。
「うむ。相変わらず、あの厳つい顔からは想像できない味だな」
「この肉料理は初めて見るな」
軛に至っては、箸先が面に触れるより先に、口元で料理が消えていく。
食事中も面を頭から外さない2人に、他の客が不思議そうにチラチラと視線を向けてくるが、それらも無視して食事を食べ進める。
大皿に盛られた「イカの串焼き」「瓢箪瓜の漬物」、平皿に山のように積まれた「とっぺん油丈の丸焼き」と、「イモリとマタタビのソース和え」、土鍋から鳥の足が何本も飛び出している「千羽怪鳥の赤汁鍋」などなど……。
テーブルの上に並ぶ料理は、現世の食材を使ったものから、常世の食材を使った物まで、節操のないレパートリーで埋め尽くされていた。
とくに会話を楽しむこともなく、2人は黙々と食欲を満たしていく。
ようやく料理の半分以上が皿から消えたところで、
「──ところで、今日の予定はどうなっている」
と、空になった碗を置きながら、軛が声をかける。
それに、少し考える素振りを見せ婀彌陀羅が答える。
「そうだな。また、山だろうな」
「またか……」
予想していた通りの返答に、軛がむつりと口元を引き結び不満をあらわにする。
昨夜、婀彌陀羅と軛が待ち惚けを食わされた七霧山は、此処には居ないもう1人の仲間、狸面の妖の縄張りだ。
夜遅くに山に居た理由は、山へやってくる筈だった人間──、縄張りを侵す不届きな輩を追い払うのが目的であり、婀彌陀羅と軛は加勢で山に赴いていた。
だがそれは、急な大雨に邪魔され遂行出来なかった──ということは、考えるまでもなく、問題が解決するまでは七霧山に行く必要があるということだ。
それが、口約束とは言え、3人が結んだ『協定』なのだから仕方がない。
婀彌陀羅と軛にも、それぞれに縄張りがある。
婀彌陀羅は廃ビルのある土地を、軛は人間と共に住んでいる家を縄張りとしている。
人間達が勝手に決めた所有権を売り買いする遥か以前より、婀彌陀羅たちはその土地に住んでいた。
それを、後から我が物顔で横取りし、縄張りを踏み荒す人間を、人嫌いな婀彌陀羅たちが許すはずも無い。
縄張りを侵す者には制裁を──しかし、1人では力不足が否めない。
その為、自分達の縄張りを人間の魔の手から守るという名目で、婀彌陀羅たちは協力し、力を合わせて人間を駆除しあっていた。
──だというのに、軛は心底嫌だという感情を隠そうともしない。
婀彌陀羅は軛が嫌がる理由を知っている。
此処には居ないもう1人と軛は馬が合わない。軛に関わり合いになりたくない人物を問えば、いの一番に狸面の男の名が上がることも容易に想像できる。
そんな軛に、婀彌陀羅はまったく仕方の無い奴だと息を吐く。
「仕方ないだろう、皆でそう決めたのだからな」
普段は思いつきで周りを振り回す側の婀彌陀羅から諭され、これ以上の愚痴を言えずに軛は渋々と頷く。
それを見計らっていたかのようなタイミングで、
「やぁ、揃ってるね~」
と、横から低く落ち着いた声が割り込んでくる。
「八瞞、遅かったな」
いつの間に店に来ていたのか、テーブル横に立っていたのは、昨夜山に居たもう1人。
狸面の男──『化け狸』の妖、八瞞だ。
昨夜、口元に被っていた防毒面は外されており、半面の黒い狸面だけが着けられていた。
雨除けの外套は身に着けておらず、いつもの緑を基調とした和服に、羽織をかけた落ち着いた装いをしている。
店の電光を受ける髪は若草色で、長く伸ばされた後ろ髪は、輪を作り項で纏められている。
露わになった口元は柔和に弧を描いており、昨夜の奇抜な様相とは打って変わり、人当たりの良さそうな雰囲気を醸し出していた。
「あ、おやじー。杏仁プリン1つ~」
他のテーブルに料理を運んでいた店主は、八瞞の声に一度視線を向けただけで、何も言わずに厨房へ戻って行く。八瞞も慣れたもので、店主の無愛想な対応に何も言わない。
これで今まで一度も注文を間違える事なく、正確に料理を運んでくるのだから、この店主でも店は成り立っている。
「はい、詰めて詰めて」
座る婀彌陀羅に手を振り奥へ行くよう促し、八瞞も空いた場所へ腰を下ろす。
「さてさて、ちょうど今日の予定を話してたみたいだけど……」
「あぁ。今日もお前の所だろうと話していたところだ」
「昨日、仕留め損ねちゃったしね~」
そう言いながら、テーブルに並べられた料理に八瞞も箸を伸ばす。それに婀彌陀羅も軛も文句を言う様子はない。3人揃っての食事。もとより、それを前提として婀彌陀羅も多めに料理を注文している。
この店で食事をするのは、3人の日常の一部だった。
食事量の多い婀彌陀羅と軛は、それぞれ食事を自らで調達するのが難しい。
その為、この店のように素早く、安く、大量の食糧を調達できる食堂で過ごす時間は必然的に多くなる。
店主の干渉も無に等しいこの店は、婀彌陀羅たちにとっては居心地が良く、日によっては自分達の住処よりも長居する事も珍しくない。
わざわざ予定を合わせなくとも、食堂へ来れば、まず婀彌陀羅か軛のどちらかには会える。それを見越し、八瞞も店にやって来るので日々の待合所になっていた。
「じゃあ、今日も俺の山って事で決まりかな」
「そうだな」
と、婀彌陀羅は頷くが、軛は黙々と食事を食べ続けている。暗に、嫌だと態度で雄弁に示していた。
「異論がありそうだけど、あえて俺は無視します」
口元に笑みを称えたまま八瞞がそう言うと、軛の纏う空気がピリピリとしたものへ変わる。
「お前達は、相変わらず仲が良いな」
そんな空気を読みもせず──、否、読んだ上で、つまらなそうに婀彌陀羅が言えば、即座に軛が噛みついてくる。
「そう見えるのなら、お前の頭に虫が湧いているということだ」
聞き捨てならないと吐かれた言葉に、次は婀彌陀羅が愕然とした様子で料理を食べる手を止めた。
「お前……まさか、我に蚤を移していたのか?」
瞬間、面越しだというのに、軛の額に血管が浮き出たのが八瞞にも察せられた。
ダンッとテーブルを叩き、軛が身を乗り出す。
「蚤などいるかっ!俺を普通の犬扱いするなといつもいつも──」
「喚くな、冗談だ」
吠える軛を歯牙にもかけず、何事も無かったかのように食事を再開しだした婀彌陀羅に、揶揄われた軛が歯噛みして拳を握る。
握り潰した箸をテーブルに叩きつけ、婀彌陀羅に殺気を飛ばす軛を見ながら、
「君らの方が、仲良いじゃない」
と、料理を摘まむ間に運ばれてきていた杏仁プリン片手に、八瞞が呆れた声を出す。
いつもの婀彌陀羅からの一方的なじゃれ合いだ。
「みんな仲良し。良い事ではないか!」
明るい声でそう言う婀彌陀羅に「……虫唾が走る」と、軛が忌々しげに吐き捨てている。
「…これを仲良しの定義に入れられたら、俺らに敵なんていなくなるから」
「そうだな、お前には敵が多そうだ」
頷く婀彌陀羅に、八瞞が不服そうに顔を向ける。
「他人事みたいに言ってるけど、婀彌ちゃんには負けるからね?」
「それは謙遜のつもりか?使い所を間違っているぞ」
面越しの顔を見合わせ、婀彌陀羅と八瞞は狭量な張り合いを始める。
「稲荷ちゃんとか、この間も怒らせてたよね」
出された名に婀彌陀羅が鼻を鳴らす。
「お前に目を付けている天惺よりはマシだろう?」
次は婀彌陀羅の出した名に、口元の笑みを深め八瞞が無言になる。
いつもなら軛を巻き込みながら、ここから口論が続く流れなのだが、
「ま、冗談はこのぐらいにして──」
と、珍しい事に早々に八瞞が引き下がった。
常とは違う反応に、婀彌陀羅と軛の視線が八瞞へ向く。
「今日は山に来なくていいよって伝えに来たんだよね」
「何故だ?」
婀彌陀羅が首を傾げる。
「俺一人でやった方が早く解決するから」
「……昨夜とは随分と建前が変わったな?」
「そう?ま、実際、君達が関わると碌なことにならないでしょ」
自覚無いの?と、視線を送る八瞞に軛が怒りを込め抗議する。
「言い直せ。事態を引っかき回しているのは婀彌陀羅だけだ」
「それに便乗して、面倒事を起しているのは狢の方だろう」
「かき回してる方の自覚はあるんだな?」
「結果的にそうなるだけで、我は意図してはおらん」
「結果が同じなら変わらんだろうが」
言い争う婀彌陀羅と軛の横で、八瞞が席を立つ。
「あ、おい、狢……」
「それと、これは昨日のお礼」
そう言って、八瞞は婀彌陀羅の手に何か紙を握らせる。
「ん?おい……!」
「それじゃあ、ご武運を〜」
軽く手を挙げ、引き留めようとする婀彌陀羅を無視して店から出て行ってしまう。
置いて行かれた婀彌陀羅と軛は、八瞞が去って行った扉を見つめながら、
「……何かあるな」
「何も無かったことがないだろう」
そう意見を合致させる。
「何を手渡された」
軛に促され、婀彌陀羅は手に押し付けられた紙を広げて見る。
それは朱色の墨で文字が描かれた長方形の紙だった。
「…………あやつの作った〝符〟だな」
「何故、そんな使えないものを渡す?」
符の使用用途を知る軛が訝しんだ声で言う。
言われずとも、婀彌陀羅もこの符の使い方は知っていた。軛の言う通り、決して使えない訳ではないが、使い所の難いものではある。
「嫌な予感しかしないな……」
「我もだ……」