陣内仁(じんないひとし)
健一は昨日、謎の人物から送られてきたページにPAを通してアクセスをした。
自室のベットに横たわっている健一の目には部屋の天井が映っているが、徐々に黒い幕が降りてきたように目の前は真っ暗になった。
そして、文字が表示され『お待ちください』とだけ表示されている。
この技術はフロートシティで活用されている『ネットワーカーズ』というPAを通した通信技術だ。謎の人物から送られてきた限定部屋にアクセスした状態だ。
0時になり、10秒頃過ぎてからだろうか、映像が始まった。
以前と同じ様に女性と男性が映っているが顔は映されていない。部屋も暗い。
「皆様、お待たせ致しました。昨日、メッセージさせて頂きました通り、こちらの男性の記憶映像をご覧くださいませ。共有が終わると自動的にネットワーカーズの接続は解除されます。こちらの男性と同じ様に記憶を戻されたい方には共有終了後のメッセージに記載されておりますページへとお進みください。期限はございません。それでは、どうぞ」
映像に映っている男性は健一が仕事で使用しているのと同じ様なユニットに腰をかけ、リクライニングで徐々に腰を傾けていった。
男性の頭には脳波ヘルメットを被り、女性がボックス型の機械にスイッチを入れた。
すると、健一が観ている映像にノイズがジリジリと走り、頭部にガツンという衝撃が起きたが、痛みはない。
映像ではなく記憶と感情の共有と言うべきか、その共有は長いようで短かった。恐らく数秒で終わったかと思う。
共有された内容は彼が東京で働いていた時に倒れ、障害を持ち自殺するまでの記憶だった。
恐らくこの記憶は10年以上前の記憶かと思う。
彼は絶望の中に居て、考えられることはなく常に頭の中は真っ白な状態だった。
考えられることは『もう、何も出来ることがないから死にたい』これのみだった。
他に生きるための目的がなくなってしまっていた。
男性の名前は陣内仁。まだ、AIも今ほど発展していなかった時代だ。
陣内はシステム会社のエンジニアだが他社への常駐が基本だ。
常駐先では大学などの学校関連の管理システムの開発をしていたが、チーム体制はなく彼1人で構築を行っていた。
そんな、常駐先のオフィスでは完全に孤立していた。
そもそも、最初、陣内が常駐先に赴任してきてからこのプロジェクトは頓挫しており、前の担当者は蒸発していた。
何も知らないまま陣内は案件定義書とスケジュールだけを所属している会社から言われ、赴任先で開発を進めていた。
どう考えても終わるわけがない、スケジュール。何も言ってこない赴任先の人々。
視線だけで攻撃されているような気分になる気持ちに、ついに陣内の糸は切れ、パニック障害で赴任先で倒れてしまった。
そして、精神病院に入院させられ鬱と診断された。
そこからの、陣内の感情というのは真っ白だった。
健一は陣内の感情を共有して鬱状態の人間というのはここまで、何も考えられないのかと怖くなった。
何もしないまま1日が過ぎていく毎日。
奇声を上げながら病院の廊下を行ったり来たりする入院患者。
そんな光景を見ながら「俺もこの人達と一緒なのか」と更に絶望する気持ち。
陣内が勤めている会社からは10年以上勤めたのに自主退職願を催促される始末。
まるで、使い捨ての道具の様な扱いだった。
この気持ち、感情はダイレクトに共有できないと言い表せないものだ。
そして、陣内は自殺を選んだのだ。
埼玉県にある有間ダムで飛び降りた。
共有はここまでだった。
健一の心臓の鼓動が未だに鳴りっぱなしで、体中が汗まみれだ。
陣内が自殺をしようとするときには、心では「やめてくれ!」と叫んでも止められない。とてもリアルな嫌な夢を見ているような気分だった。
仕事で健一は人の記憶をモニターの画面越しで観るのには慣れてはいるが、記憶と感情の共有はもう懲り懲りだと思った。
特に辛い嫌な出来事は想像以上に辛い。自分が体験しているわけではないのに健一自身が死にたい気持ちに襲われるほどだった。
「はー…はー…」と荒くなっている呼吸を整えながら、右手で顔の汗を拭う。
すると「健さん大丈夫!?」と翼がノックした後、直ぐに部屋に入ってきた。
翼は健一の様子を見て驚いた表情をしながら再度、訊いた。
「ちょっと!大丈夫!?」
驚いている翼を安心させようと健一はいつも死んでいる表情とは打って変わってニコッと笑って「大丈夫!大丈夫!ちょっと死ぬかと思っただけ」と答えた。
健一自身は辛い目に合っていないのに部屋に入ってきた翼の顔を見て、緊張感から開放されたかのように強張っていた体の力が一気に抜けた。
それを感じた瞬間に「良かった。翼が居て」と健一は思った。
また、同時に「茂木くんは大丈夫なのか?」と心配になった。
健一はベッドから立ち上がり、多少ふらつきながら「水を飲みたい」と言いながら部屋の扉の前になっている翼の横を通り、キッチンへと水を飲みに向かった。
翼は後ろに付いて着ながら言った。
「人の記憶でそんな目に合うんだったら、自分の記憶については止めといた方がいいよ。今のままじゃ駄目だっていう理由はないでしょ?」
健一は水を飲みながら答えた。
「まぁ。確かにそうなんだけどさ…ちょっと、んー…まぁ。どうするか考えるよ」
止めるとは言わない健一を翼は予想していたのか「あっそ」とだけ言った。
「茂木さん大丈夫かな?健さんがそんなんじゃ、優しい茂木さん心配なんだけど」
「それ、さっき思った。これには面食らってるよ。絶対に。一応、今日、飲む約束してたからメッセージ送ってみるわ」
健一は自分のPAのトンボを「ツヨシ!」と呼び「茂木くんに電話」と言った。
プルル、プルルとPA同士の通話も普通の電話の様に鳴るのだが、音がなる前に茂木は電話に出た。
「健一さん!絶望感が凄いです!キツすぎます!辛い記憶の感情共有はするものじゃありません!!!誰かと話しないとあの記憶と感情に引っ張られっぱなしなってしまいますよ!」
茂木は1コール前に応答し、捲し立てるように健一に話し始めた。
「あはは。良かった。生きてるね」と健一は茂木に言い、今すぐに健一の家の前にあるバー『ミミズク』で飲もうという話になり、電話を切った。
「茂木くん。興奮してたな。翼も行くか?ミミズク」
「おっ。誘ってくれるなんて、意外じゃん。行くよ。話しを聞きたいし」
普段だったら翼を誘うことは健一はしないのだが、変に自分の気分が高ぶってしまっている健一は翼を誘って、ミミズクに行くことにした。
「そもそも、あの後にバーはやっているのだろうか?」
健一と翼はそれぞれの肩にPAであるトンボとカラスを乗せて、アパートの家を出てバーに向かった。