78 了
僕は島を出る前に家に戻り、寝台の横の壁にこの島から出るな、と刻んだ。どうして、この壁にそう刻まれているのか、今の僕にはやっと理解できた。
あのとき見たままの船が、船着き場にあった。
ポセイドンの言ったとおり、彼女は船に横たわっていた。髪をそっとなでる。
船をつなぎとめているロープを外した。
何故か操作はわかっていた。
島は揺れているのに、海面はピタリと静止したように凪いでいた。
どうやって動かすのだろうか。エンジンがついていない。
不意に大きな波が発生した様に見えた。あの波が直撃したら、この船は転覆するだろう。僕は目をつぶった。
「これも業か」
果たして船は転覆しなかった。波を発生させたのはヒッポカンポスだった。水面からヌッと頭を出し、船を支えた。
「僕を殺すのか?」
ヒッポカンポスは優しい目で僕を見つめていた。馬の目はいつだって優しい。そして、気付いた。
「そうか、君もか」
僕はフェラーリに乗っていた。エンブレムは馬だ。
ヒッポカンポスは船を押し始めた。船は少しずつ、島から遠ざかってゆく。
島にはもう誰もいない。
不思議な島だった。
彼女は僕の膝で寝息も立てずに横たわっている。これだけ騒がしいのに、眠ったままでいるなんて凄い才能だ。
彼女の神を撫でていると、僕はすべてを思い出した。
この女は妻などではなかった。
僕が妻にしたかった女だ。僕はただのストーカーだ。
この島から出てしまえば、彼女は僕の元から去るだろう。
島から逃げ出した船の上で、ふと気付いたことがあった。
島の方に向き直ると、島は一つの大きなモノリスで出来ていることに気付いた。
天使の村で、いなくなれと願ったら村人が殺し合った。
妻に戻ってきてほしいと願ったら戻ってきた。
哲学者の村でも猛獣に喰われてしまえばいいと思ったら村人が喰われた。
今まで、あまりにも都合が良すぎたのは、大きなモノリスの中で僕が願ったからだったのだ。
僕は再び願った。
もう一度最初から、この島で始めたい。
今度こそ、ハッピーエンドにたどり着けるように。
僕は彼女の首を絞める。
「仏に逢うては仏を殺せ」
首にかける力を強める。
「父母に逢うては父母を殺せ」
更に強める。
過去に学んできたこと、信じてきたことを、全て手離した先にこそ、本当の未来があるという。それならば、僕はこの島で起きたすべてを捨てよう。
僕はひどい頭痛に見舞われて記憶をなくすだろう。目覚めた僕は、再びあの島でハッピーエンドを探すのだ。
どこにもないハッピーエンドを。
永遠に。
そうして、僕たちの乗った船は難破した。
了




