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「生き残るのは、どちらかだけ。すでに、村人も全員死んだ。おっと、君の奥さんだけは船に積んであるから、あとで迎えに行くと良い」
全員死んだ、と聞かされてどきりとしたが、妻だけは残していてくれたとわかってホッと胸をなでおろした。
「どうしてだ」
「このまま生かしておいたら、俺を殺さないだろう。君はもうこの島では生きていけない。俺を殺して船を奪うしか、生き残る方法はない」
猫だった頃のヘルヴィムとの思い出が、頭の中を巡る。吹き出すように涙が零れた。
「感傷に浸っている余裕はあるかな」
再び、ポセイドンが槍をつく。揺れのせいで、今度は上手くかわせなかった。左足の太ももに、刃が沈み込む。
僕はうめき声を上げてその場にへたりこんだ。その拍子に刃は抜けたが、同時にどうしようもない痛みが僕の体を駆け巡った。
「痛いだろう。すぐに楽にしてやる」
ポセイドンが槍を振ると、刃についていた僕の血が慣性力で飛んでいった。
「どうして……どうして……」
僕は無様にも、口の端から泡を吹きながら泣いた。痛む足を押さえて、その場にうずくまることしか出来なかった。歩み寄ってくる死から逃げ出す勇気さえ無かった。
もうダメだ――僕はぎゅっと目をつぶった。
ものすごい風圧を顔に感じ、いよいよ自分の首が吹き飛ぶところを想像した。しかし、いつまでもそれは来なかった。
恐る恐る目を開けると、槍は目の前で止まっていた。見上げると、ポセイドンが苦しそうに顔をゆがめていた。理由はわからないが、チャンスだと思って身をよじって逃げようとしたとき、地面に箱が落ちていたことに気づいた。落ちた衝撃で開いたのだろう、箱はポセイドンのほうに向かって蓋を開けていた。明らかに、ポセイドンはこの箱を忌避している。プロテウスもそうだった。ヒッポカンポスもだ。神に類する存在に対して、効果を発揮する代物なのだ。その証拠に、僕が触ってもなにも不快感はない。
恐る恐る、箱の中を覗き込む。箱は、深淵の縁のような底なしの違和感と、ズシリと重量感のある闇が詰め込まれていた。その闇の中に、ギョロリと目玉が一つ動き回る。目を凝らしてみると、それは徐々に輪郭を持ち、胎児のようなものに見えてきた。
「水子の霊」と預言者は言っていた。確かに、これそのものが水子の霊なのに違いない。ただ、どうして水子の霊なのか。それに、彼らがそれを嫌がるのかわからなかった。
水子の霊は僕を見てニヤリと笑った様に見えた。
「それのことも思い出せないのか」
顔をしかめながら、ポセイドンが声を絞り出す。
「それが君の味方をする理由だよ」
ポセイドンの首を、見えない手が絞り上げている。彼の首に小さい手形が浮かび上がった。彼はこの箱を見て恐れていたのではない、見えない何者かに攻撃を受けているのだ。それを僕に気取られないように、ポセイドンは我慢しているのだ。
「これ」が僕に味方する理由――ほんの少しも思い浮かばなかった。太ももの痛みのせいで思考に集中できない。
島は休まず地震にその身を震わせている。山の稜線が形を変えた。あれはモノリスではなかったか――。
ひどく気分が悪い。太ももから血を流しすぎているし、揺れに酔っているせいもあるだろう。いずれにせよ、僕の命が尽きることに変わりはなさそうだ。
「せっかく守ってくれてありがたいけど、僕はもうダメそうだよ」
水子の霊に語りかける。心なしか、悲しそうな顔をしているように見えた。胎児の顔が何処にあるかなんて、僕にはよくわからない。
その時、水子とは何だったのか思い出した。そうだ、あれは妻と寺に行ったときに聞いたのだ。――そうだ、水子とは、生まれることができなかった子供のことだ。
ハッとして箱に視線を落とした。まさか、この子は僕と妻との――いや、まさか。僕は子供を作れない体質のはずなのだ。
「どうしてだ。僕は君の敵だぞ」
「もし産まれていたとしても、良い子に育ったはずだろうね。君のような父親でも守ってくれるんだから」
自然と涙が溢れた。
そして悟った。これは過ちだ。この島は僕の過ちの全てなのだ。
「これが罰ならば、受けよう。殺すなら彼ではなく、僕を殺してくれ」
壊れ物を扱うように、箱を恭しく持ち上げた。
目が熱い。僕の目からはマグマが溢れ出し、乾燥した砂地へ降り注いだ。このまま、この身を焼き尽くしてほしい。この子にはその権利がある。
胎児が笑った。
ハッと息を呑んだ。そのあまりにも美しい笑顔に、マグマは止まり、大地は潤いで満たされた。心が清らかに洗い流されてゆくようだった。
これが、父性というものなのか。
太ももの痛みも感じなくなっていた。
「世界は君を選んだってことだね」
ポセイドンは僕を見てニコリと笑うと、自分の胸に槍を突き刺した。ゴボゴボ、と溺れるような音が彼の喉元から聞こえたかと思うと、口から大量後が吹き出した。彼の体は槍に沿って、ゆっくりと大地に滑り込む。
「な、なんてことを……死ななくたって良いじゃあないか」
ポセイドンは弱々しく首を振った。
「生き残るのは君だけなのさ」
「どうして」
「そういう決まりだから」
「誰がそんな……」
ポセイドンが僕の口に人差し指を近付けた。
「僕はもう死ぬ。だから、君に僕の船を貰ってほしいんだ。場所はわかるだろう?」
以前、ポセイドンがプロテウスと乗っていったあの場所だ。
僕は首が折れんばかりに頷いた。
「じゃあ、早く行くと良い」
「一緒に行こう」
「それは無理だよ。君もわかっているだろう」
ポセイドンは震える手で、自身の胸の辺りを指さしてみせた。
「せっかく会えたのに」
「また会えるさ。忘れないでいてくれよ」
そう言うと、ポセイドンは長く息を吐いて、動かなくなった。
どこからか、プロテウスが音もなくやってきて、ポセイドンの体から槍を引き抜いた。僕のことを睨めつけるようにすると、ポセイドンを軽々と抱きかかえ、洞窟の中へ戻っていった。




