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「でもそれは、モノリスが……」
「モノリスなんて、あれはただの板だ」
ポセイドンが僕の言葉を遮る。
「そんなことない。僕はモノリスの中に入ったんだ」
「ほう、どんな感じだった?」
モノリスの中の感覚を思い出していた。あの、満ち足りた幸福感と万能感に包まれた美しい空間を。
「言葉では言い表せない」
「世界だ」
ポセイドンが不意に立ち上がって手を広げた。
「なんだって?」
「君がいたのは、世界の始まりにして終わり。多次元空間における特異点だ」
相変わらず、言っていることがわからないやつだ。
「ここは君の世界なんだ。わかるかい。君がこの世界を認識した瞬間、この世界は誕生したんだよ」
「量子論の基礎だろう。でもそれはただの理論だ。哲学だ。現に、僕という存在はこの空間に連続している」
「そう断じるには証拠がない」
「あんたは一体、何が言いたいんだ」
「つまり、俺はこの世界を唯一壊すことが出来るんだ」
「どうしてそんなことが出来ると言うんだ」
「神だからね。俺は、君の世界の唯一の特異点なんだ。君が世界の特異点であるように、君の世界の中では俺が特異点なのさ」
彼がそう言ったとき、僕はある仮説を思いついてハッとした。
「じゃあ、あんたが船を作ってここを脱出したいというのは……」
ポセイドンがニヤリと笑う。
「この世界を壊すということなのか。あんたが、ここから出ていって、世界は均衡を崩してしまう。特異点というのはそういうことか」
「さあ、どうする。俺を殺すかい」
ポセイドンの後ろから、音もなくプロテウスが姿を表した。一分の服の乱れもなく、まっすぐに立っている。唯一、この間と違うところがあるとしたら、彼は僕に向かって殺気のようなものを放っているということだ。
「仏に逢うては仏を殺せ」
ポセイドンが念仏のように唱える。
「父母に逢うては父母を殺せ」
一歩、僕に近づく。
「これはね、過去に学んできたこと、信じてきたことを、全て手離した先にこそ、本当の未来があるという意味なのさ。覚えているかい?」
「いや、そんな言葉、初めて聞いた」
僕は一歩後ずさる。
「まだ、思い出していないのか。君は、この世界を作るときに、この言葉を俺に教えてくれたのに」
少し寂しそうな顔をした後、ポセイドンがいたずらっぽい子供のような表情をした。
「一緒に行かないか。外の世界に」
こちらに手を差し伸べる。その手をぼんやりと眺めた。この手を、どこかで見たことがある気がした。
「だめだ。僕はこの島で妻と生きていくと決めたんだ。それに、外は天使だらけじゃないか」
「天使なんて、本当にいるのか」
「馬鹿言うなよ。僕たちは天使から逃げてきたんじゃないか」
「そうか。なら君を殺してここから出て行くしか無い」
「どうしても?」
「ああ、どうしても」
ポセイドンが顎をシャクって僕を示すと、プロテウスが音もなく僕に近付いてきた。この老人は僕を殺すつもりだ。
「なんでだ。ここにいたら安全じゃないか。どうして外に出ていこうとするんだ」
「それはね、俺が特異点だからだよ」
プロテウスが動いたと思った瞬間、嫌な予感がして顔の前に腕を出したら鋭い痛みが走った。見ると、押し出した腕がぱっくりと切れて血が流れていた。最初は驚きがあって、次に痛みがやってきた。突然血圧が下がったからだろうか、激しい動機と吐き気に見舞われた。死ぬかもしれないと思った。
「抵抗しないほうが良いよ。その方が楽だ」
僕は息を整えながら、ポケットから箱を出した。
「そ、それは……」
預言者の箱だ。先程、ソクラテスの家から持ってきておいて正解だった。
初めて、プロテウスが表情を歪めるのを見た。この箱が何かはわからないが、呪詛のようなものが詰まっているのだろう。ヒッポカンポスとの戦いの時に見たのは水子の霊だったが、これもそうなのだろうか。
突然、破裂音が響いた。何かが爆発したのかと思って身構えた。見ると、ポセイドンが手を叩いている音だった。
「見事だ。実に見事だ。プロテウス、下がれ」
ポセイドンの指示に、プロテウスはすぐに従った。闇の中に姿を消す。
「君はそれが何か知っているのか」
ポセイドンは箱を指さす。
「さあね。君たちが苦手なものなんだろう」
「そうか、知らないのか」
ポセイドンはやれやれ、と行った様子で首を振った。
「それなら、君は俺が何者なのかも気付いていないと言うことだ」
言いながら、ポセイドンは猫面を外した。驚いたことに、彼の風貌には、猫だった。猫っぽい顔、ではない。完全に猫の頭が乗っていた。猫の面を付けた猫の顔の人間だったのだ。意味が分からない。ボサボサの髪だと思っていたのも、彼の毛並みだった。人間の体に猫の顔が乗っていても、もはや驚かなくなってしまった。彼が人間ではないと言うことは、彼の言動や彼の周辺からもわかっていたことだ。
その顔にどこか懐かしさを感じたが、誰だったのか思い出せない。シュッとした輪郭に、思ったよりも幼い。目は完全に猫の目だ。
「驚かないんだな」
「今度はバステト神だとでも言うつもりかい」
僕が言うと、ポセイドンはヒヒヒ、と笑った。ポケットから小さな王冠を取り出して、頭に乗せる。どこかで見た気がした。
「そうだと良いがね。どうしても思い出さないか」
今度は寂しそうな顔で僕を見つめる。
「知らないと言っているだろう。僕に神の知り合いはいないのでね」
ポセイドンの顔を見てドキッとした。先程までと違って、真剣な眼差しで僕を見ているからだ。
「君は俺を殺す」




