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家に帰ってくると、妻も家に戻っていた。妻は僕を見ると、何か言おうとしたが、僕は彼女の言葉を聞くことなく、彼女の足の指にむしゃぶりついた。まるで、赤ん坊が母親の乳房に吸い付くように、足の指を一本ずつねぶってゆく。
彼女はくすぐったそうに体をくねらせたが、僕はガッチリと掴んで離さなかった。
「どうしたの」
僕は彼女の言葉を無視して、指をしゃぶり続けた。
「痛い」
彼女の声で我に返った。口の中に何か異物感がある。吐き出してみると、指だった。見ると、妻が足を抑えて震えていた。痛すぎて声が出ないのか、虫の羽音のような音を口から漏らす。
僕がやったのか。掌に乗った指を見つめながら、妙に冷静な自分に気づいた。
足の次は肩を、手の指を、頬を、女性器を――。
「痛い、痛い」
彼女の声が通り過ぎてゆく。
やがて、その声は聞こえなくなった。
いつの間にか眠っていたようだ。目を覚ますと夜になっていた。口の中がぬるりとする。
家を出ると、空は満天の星が輝いていた。遠くに見える山は、やはりモノリスには見えない。あれは夢だったのだろうか。
夜になっても、村の広場では火を焚いて人が集まっていたり、酒場に人がいる。それが、今日に限って人気がない。どうしたのだろうかと、村の中を歩き回ってみたが、シンと静まり返っていた。もしかしたら、ソクラテスのところで何か祭事のようなものがあるのかもしれないと思って言ってみたが、その様子もない。ログハウスの中にもソクラテスはいなかった。部屋の奥には、この間と同じ様に、箱が置かれていた。それをポケットに入れた。
静かすぎる。波の音が聞こえてくるほど、静まり返っていた。虫の声も聞こえない。
僕は村を出た。バリケードは開いていた。
特に何処か当てはなかったが、海を目指した。
空には月が出ていて、海面に月の光が道を作っていた。ここを渡ったら、何処へ行けるだろうかと考えた。この光の道を歩いて、本土に帰り、自分の家の扉を開けたら、妻がいて、外には天使の姿はなくて、あれはすべて夢だったのだと思えたらどれだけ幸せだろうか。
しかし、失った時は、もう戻らないのだ。
しばらく海を眺めていたが、飽きたので歩き始めた。なんとなく、足が何処へ向かっているのかわかっていた。
洞窟につくと、ポセイドンの居室への扉を開いた。
「やあ、遅かったじゃないか」
ポセイドンが、部屋の真ん中の椅子に座っていた。
「行く気になったかい?」
ポセイドンがジッと僕の目を見つめた。
「僕は行かないよ。ここにいたいんだ」
「真実を見たのに?」
「真実だって?」
ポセイドンがニヤリと笑う。何故か、とても不穏な気持ちにさせる笑顔だった。
「そうやって、真実から目を背け続けるのか」
「一体何を言っている。真実ってなんだ」
「君は、疑問に思わなかったかい。君が願うことが、この島では現実になる」
確かに、覚えはあった。天使の村では天使なんていなく慣れば良いと願ったから、殺し合いが起こった。ソクラテスの家から海へワープした。妻に帰ってきてほしいと願ったら帰ってきた。その他にも様々なことが、不自然に叶った。




