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牛小屋の中で、家畜が飲む水を変えながら、ぼんやりと空を眺めた。
まだ、あの村人に掴まれた腕が痛む。見るとアザになっていた。
一体、森の奥には何があるのだろうか。気になるが、またあの村人が邪魔しに来るんではないかと思うと、尻込みしてしまう。
牛が鳴いた。また、あの時みたいにしゃべるのかと思って身構えたが、果たして牛が喋り始めることはなかった。
「バカバカしい」
何に対してなのか、自分でもわからないが、モヤモヤしている気持ちを吹き飛ばしたくて呟いた。尻を落っことしたみたいに豪快に座ると、干し草が舞った。思いの外大きな声になってしまって、誰かに聞こえていないかと恥ずかしくなった。
「何がバカバカしいの」
牛小屋の外からひょいと顔をのぞかせたのは、シモーヌだった。村長の家の前でのやり取りを思い出す。
「忠告でもしに来たのか」
「何の?」
トボケたような顔で、シモーヌが言う。
僕はポケットからジョイントを取り出すと、火をつけた。
「牛小屋の中でそんなもの吸うなんて、非常識じゃない」
シモーヌだけでなく、牛まで僕を非難するような目で見ていた。
「うるさい。僕がどこでなにをしようと勝手だろう」
シモーヌに向かって煙を吐き出す。彼女は嫌そうに顔を背けた。
「あそこ、行ったんだってね」
「何の話だ?」
「とぼけても無駄。この村で起こったことは、みんな知ってる」
「さっきはとぼけていたくせに」
シモーヌが「あはは」と笑った。笑った拍子に白衣から覗いた肌が健康的に焼けていた。そこに髪の毛が垂れて、艶かしく見えた。初めて会ったときはそんなコト思いもしなかったのに、どういう心境の変化だろう。
「なんだよ」
「単純なのね。カマをかけただけなのに」
僕は彼女を押し倒した。
「僕を馬鹿にするな」
「そうやって、女に暴力を振るうの?」
どこかで、この光景を見たような気がする。
僕の口から落ちたジョイントが、地面で煙を上げていた。拾おうとする前に、それは干し草に燃え移ると、あっという間に牛小屋全体に広がった。
「だから言ったじゃない。早くどいてよ。あなたと心中するつもりはないわ」
火が広がってゆく様子を呆然と見ていた僕の下で、シモーヌが言った。
火の粉が顔に飛んできて熱いと感じてから、初めて逃げなくちゃと思った。僕は慌てて小屋の外へ走り出す。
「待ってよ。私を連れて行かないの? ここに置いていくつもり?」
小屋の中で、まだ寝転がったままのシモーヌが歌うように言った。
何だこいつは。酔っ払っているのか。ラリっているのか。
「自分でどうにかしろ」
「冷たいのね」
小屋の入り口が焼け落ちた。シモーヌは最後まで出てこなかった。
あの女は何をしに来たのだろうか。




