56
「久しぶりじゃないか」
久しぶりに訪ねたが、ヘルヴィムは全く変わっていなかった。あの猫面も。しかし、一つだけ変わったことがあった。
ヘルヴィムの横に、背の高い老人が背筋をシャンと伸ばして立っていた。キチッとしたスーツを着て、紳士という言葉がしっくりくるロマンスグレーである。手足が長く、袖から飛び出した手には深い皺が刻まれている。顔も手と同様に、皮がたれたようにシワシワである。相当年をとっている。80,いや100歳近いのではないだろうか。預言者よりもよほど年上に見える。
紳士は僕に向かって深々と頭を下げた。
「二人とも、そんなにかしこまらなくて良い。おい、プロテウス。客人にお茶を入れて差し上げろ」
ヘルヴィムが紳士に向かって命令すると、機敏な動きでプロテウスと呼ばれた老人は紅茶を入れた。
プロテウスという名前を、どこかで聞いたような気がしたが、どこで聞いたかわからなかった。ヘルヴィムは僕に対してもそうだが、特にプロテウスに対して、ずいぶん横柄な態度をとっていた。それほどまでに親密な仲と言うことだろうか。
ヘルヴィムと一緒に行った天使の町を思い出す。どことなく、プロテウスからもあの町の臭いがした。
「それで、暫く振りだがどうした」
プロテウスが淹れた紅茶は良い香りがした。そういえば、天使がやってくる前は僕も良く紅茶を飲んだことを思い出した。天使が地球を襲って以来、そんな嗜好品をたしなむ余裕もなかった。
「いや、しばらく会っていないからどうしているかなと思って……ほら、船を作ってるっていたし、どうなってるか知りたかったし」
歯切れの悪い僕の様子を見透かしたように、ヘルヴィムは「ふふ」と笑った。
「島を出たくなったか?」
この男は遠慮なく、気持ちのど真ん中を打ち抜いてくる。
「そんなことはないさ。ここは楽園だもの」
「楽園ね」
ヘルヴィムはつまらなそうにため息をついた。
「どう思う、プロテウス」
ティーカップをおいた音が、大きく響いたように感じた。
「私には返答しかねます」
「お前はつまらない奴だな」
ヘルヴィムが吐き捨てるように言う。一体、この二人はどのような関係なのだろうか。
「子供の方がよほど面白い」
子供、というのはデカルトのことだろう。
「最近どうしてる?」
「静かに暮らしてるよ」
「君じゃない、あの子供だ」
ヘルヴィムは笑った。僕は恥ずかしさに顔を赤くした。
「ここに来てるんじゃないのか」
「いや、ここ最近は顔を見ていないな」
確かに、村の中でもデカルトを見ることは減った。ルネとスピノザは相変わらずつるんでいるようだったが。
「次期村長としての修行でもしてるんじゃないかな」
無責任なことを言いながら、ソクラテスのことを思い出す。あんな彼も、立派に預言者を継いでいた。やはり村社会というのはそういった意味で人間的成長の強制が促されやすいのだろう。
ヘルヴィムはつまらなそうに顔をする。
「そうか。見込みのある子供だと思ったんだが」
「どうして、そんなにここから出て行きたいんだ」
「この問答は二度目だな」
ヘルヴィムが足を組み直す。
「君がおかしいと思わないなら、ここに残れば良い。俺は君に真実を見せた。それがすべてだ」
「真実ってなんだ。僕は何も納得していないぞ。あの町だって、何だったんだ」
興奮を止められずに、早口でまくし立てた。ヘルヴィムは僕の様子を、いつもと変わらない表情でジッと聞いていた。
「少しも納得できない……一体、なんなんだここは……」
興奮しすぎたのか、どういうわけか涙がこぼれた。ヘルヴィムが「プロテウス」と声をかけると、老紳士が優しく僕の背中をなでた。
「もう一度言うが、ここに残りたいならば残れば良い。それは君の選択なんだ」
ヘルヴィムの声が先程よりも柔らかくなる。
「誰も、何も強制することはない。そういう場所なんだ、ここは」
そう言われて、思い出した。ここに来てから、僕は何も強制されたことがない。好きなだけ、好きなように生活して、家畜の世話だって、自分が何かの役に立ちたいと思ってやり始めたことだ。
「居心地が良いだろう。君にとってはまさに楽園のはずだ」
「でも、あんたは最初、こんな島からは出ろと行った」
「そうだ。こんな島は不自然だ。だが、君が不自然だと思わないのならば、俺には強制する権利はない」
静かに答えるヘルヴィムに、僕は段々腹が立ってきた。
「あんたは一体何者なんだ」
「俺は神だ」
何でも無いことのように、ヘルヴィムが言う。頭がおかしいのか、この男は。
「何だって?」
「君は頭だけでなく、耳まで悪くなったのか? 俺は神だと言っている。海の神、ポセイドンだ」
彼の言うことに、理解が追いつかなかった。
「君がポセイドン? あの、ヒッポカンポスの飼い主の?」
「ああ、そうだ。君たちには随分な目に合わされたようだね。なあ、プロテウス」
ヘルヴィムがプロテウスに問いかける。プロテウスは、返答の代わりにペコリと頭を下げた。
思い出した。プロテウスというのは海神ポセイドンの従者だ。神話の通りだ。
「じゃあ、ヘルヴィムという名は?」
「君がつけてくれた名前じゃあないか」
いよいよ話がわからない。
「僕を馬鹿にしているのか?」
「いいや、全然」
ヘルヴィムが真顔で首を振る。
「君は天使の仲間じゃないのか」
「違うね。あんなものと一緒にされては困る。奴らは出来損ないのエイリアンさ。俺こそが、唯一にして絶対の神」
ヘルヴィム……いや、ポセイドンは胸を張る。
「だから、こんな不自然な場所から抜け出すのだ」
「どうして隠してた?」
「隠すだって? 訊かれなかったから言わなかっただけだ。最初に君が、神か?と訊いていたら、俺はそうだと答えたろう」
気分が悪くなってきた。客席がひとつだけの、趣味の悪い舞台を見せられているようだ。
「君は文句を言うが、君だってあのモノリスを上手く使っていたじゃないか」
「モノリスを? そんなことはない。あれの使い方なんて知らない」
「君は何度も空間を超えて移動したり、向こうの村で村人を殺し合わせたりしたろう?」
預言者の家から砂浜に移動したことか。それとも、天使の村から哲学者の村に帰ったときのことか。天使の村で村人が殺し合ったのも、僕が願ったからなのか。
「あの山に見えるのはモノリスだ。あれに向かって願うだけで良い。君はモノリスと波長が合うようだからな。そうすれば、君は何だって願いを叶えることが出来る。四次元を、まあ何次元でもよいが、君が体験したのは四次元ユークリッド空間の往来だったな。つまり三次元ユークリッド空間における君の認識が、四次元的に展開されて預言者の家と砂浜をつなげたのだ。ちょうど折り畳まれた紙を開くように、君は4つ目の座標軸を通って隣の三次元座標に到達したのだ。ただそれだけのことだ。モノリスにとっては簡単なことだ。村人を殺しあわせたのは愉快だったな。あれは、奴らの脳内にアッパードラッグを流し込んで、ちょいと精神操作をするだけで実現したのだ。まさに、天使と四次元空間が脳を食らうドラッグだ」
彼の話は少しもわからなかったが、心当たりが多すぎて、もはやそうとしか考えられなくなった。
「僕は何者なんだ」
「人間さ。ただの人間だ」
ポセイドンは鼻で笑いながら言う。
「安心して良い。君は紛うことなき人間さ」
ポセイドンが立ち上がる。
「さあ、そろそろ良いかな。今日は船の試乗をするんだ。君は運が良い。乗っていくかい。なあに、お代はいらないよ」
ポセイドンが部屋を出て行くのについて行くと、まだ見ぬ洞窟の奥へ足を進めた。
それまで、狭い洞窟だったのが、急に開けて、船を止めるのにちょうど良い入り江になっていた。そこに、人が二人ほど乗れる程度の船が係留されていた。
「すごいな、こんなものを一人で作ったのか」
小型とはいえ、ずいぶん立派な船だった。マホガニーの艶めいた色に、コーティングが光を反射して、神々しいとさえ思える。船と言われて想像するものよりも、リムジンの上半分をスパッと切り取ったようなフォルムに見えたが、正面から見たらやはり船だった。
「俺の手にかかれば簡単さ」
褒められて喜んでいるのか、ポセイドンはヒヒヒ、と笑った。これが海の神とは、言われても実感がわかない。
ふと、預言者がポセイドンに気をつけろと言っていたことを思いだした。
この島に来てから、何を信じれば良いのかわからない。絶対的な指針のようなものが、僕の心の中から失われているのだ。
「どうだ、乗りたくなっただろう?」
ポセイドンが船の縁を跨いだ。船の中に足をつけると、不自然に傾いた。見た目から、もっと重いと考えていたのだが、思ったよりも軽く絶妙なバランスで浮いているようだった。
海は荒れているようだった。断続的に波が寄せてきて、時折大きく船が傾いた。
「波が高い。やめておいた方がいいんじゃないか」
船で難破したことを思い出す。あの恐怖は、筆舌に尽くしがたい。喩えるなら、永遠に終わりの来ないジェットコースターに乗っているようなものだ。
「なあに。言ったろう。俺は海の神ポセイドンだ」
そう言うと、ポセイドンは手を掲げた。それに呼応するように、波がピタリと止まる。まるで静止したように、規律正しく水がそこにあるだけだ。
「どんなに高い波が来ようと、俺にとっては凪と変わらない。それが神の力だ」
ポセイドンが高らかに笑う。
「本当に行かないのか?」
急に、真面目なトーンでポセイドンが言う。
僕は迷っていた。ここに来るまでの僕だったら、一笑に付していたかもしれない。モノリスのことや村のことなど、聞いてしまった今は得体のしれない不安があった。しかし、これ以上考えたくなかった。
「まあ、まだいくばくかは時間がある。せいぜい悩み給え」
ポセイドンの船は動き出した。まるで氷の上を滑っているみたいに、スーッと進んでゆく。いつの間にかプロテウスも船に乗っていた。あれを見れば、いやでも彼が神なのだということを納得させられてしまう。
「確かめに行き給え」
遠くからポセイドンの声がした。




