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島は雨季になった。
朝から激しい雨が降っていた。妻は不安そうに外の様子を見ていた。いまだに記憶が戻らないことへの焦燥だろうか。
若い男と若い女が外を歩いているのが見えた。びしょ濡れだ。
傘を貸そうと思って彼らに声をかけると、彼らは笑顔でそれを断った。雨の日は雨の神にお祈りをするんだ、と言った。二人はポケットから何かの小さいピルケースを取り出した。蓋を外すと、透明な小さい結晶が入っていた。それを雨水に溶かして飲んだ。それが、彼らのお祈りらしい。
プラトンに貰ったぶどうを一つ一つもいでは妻の口に運ぶ。至高の時間だった。
最後の一粒を、名残惜しそうに食べると、妻は足りないから果物を取りに行くと言って出て行った。
そのまま、彼女は夕方になっても帰ってこなかった。
またヒッポカンポスに連れて行かれたのではないかと不安になった。
「妻が帰ってこないんだ」
漁が終わって酒を飲んでいたプラトンが、うんざりした顔をした。酒場は夕方から賑わっており、村の殆どの人間がいるのではないかと思うほどだった。
「大丈夫か?」
妻が外で何をしているのかは、わかっていた。彼女は昔から変わらない。それでも、僕は彼女のことを待っていたかった。
「お前、ひどい顔してるぞ」
プラトンが言った。何を言われているのかわからなかった。プラトンが僕を連れて酒場のデッキに出た。すぐ外は海だった。
プラトンが海面を指さす。
海をのぞき込んだ。ここの海は綺麗で、鏡のようだ。夕日を反射した海はキラキラしてたが、海面に映った僕の顔は、ゾンビのようなだった。そのときなぜか、海面の分光反射特性は、植物や地面に比べて著しく悪いという論文を思い出していた。
頬をなでる。脂が浮いていた。
「ちゃんと寝てるか?」
「もしかしたら、またヒッポカンポスにさらわれたんじゃないかな」
プラトンの言葉を遮って言う。
「このやりとり、何回目か覚えてるか?」
「初めてだけど」
プラトンはため息をついた。
「今日は帰って寝ろ。そのほうが良い」
こいつも僕をおかしいと思っているのか。
「もういい、自分で探す」
僕は酒場を飛び出した。後ろからプラトンの声が聞こえたが、聞こえないふりをした。
妻は果物を食べたいと言っていたし、農園に行ったのだろう。
農園は、綺麗に木が並んでいた。こんな亜熱帯地域はぶどうの生育には適していないように思えたが、木々に生るぶどうは立派である。
農園には人影はなかった。
妻の名前を呼んだ。
返事はない。
もう一度、呼んだ。
「天海?」
どこかから、声が聞こえた気がした。僕は転がるように、声の聞こえた方へ駆け出した。
妻の名を呼ぶ。今度は、確かに返事が聞こえた。
何度も妻の名を呼ぶ。次第に、返事は小さくなって行った。
日は落ちかけている。あたりは薄暗く、木々が陰になって足下さえよく見えない。自分の足音が不気味に聞こえる。下生えを踏みつける音が、自分以外にも誰か人がいるように聞こえた。
すっかり妻の声は聞こえなくなった。あれは幻聴だったのだろうか。諦めにも似た感情を覚え始めた頃、下生えに隠れた崖に足を取られてしまった。
情けない声を出して崖の下に転がった。思っていたほど高くなかったのは幸いだった。
「いてて」
足をくじいてしまったようだった。起き上がると、すぐ横に妻が倒れていた。
「天海」
体を揺すると、まるで昼寝でもしていたみたいに、彼女は目をこすりながら起き上がった。
「無事なのか? どこか怪我していないか?」
僕は足が痛いことも忘れて、彼女の周りを何周も回って異常がないか確かめた。彼女は僕の慌て振りとは正反対に、少しも動じていなかった。あくびを一つして立ち上がると、さっさと村の方へ歩いて行ってしまう。
「待って」
追いかけようとしたが、今更足の痛みが鮮明になってくる。
「大丈夫?」
顔を上げると、妻が心配そうに僕の顔をのぞき込んでいた。
「駄目みたい」
足が痛くて、手で押さえているところを、妻はいたずらっぽい顔で押してきた。飛び上がりそうなほど痛かった。
「探しに来てくれてありがとう」
彼女は笑顔になった。
妻の笑顔はまるで少女のようだ。僕はこの笑顔に惚れたのだ。




