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「お前さんの妻は……」
再び咳き込む。僕は身を乗り出した。
「妻はなんだって?」
「お前さんの妻は、姿を消したところにおるはずじゃ」
「砂浜ってことか」
立ち上がろうと腰を浮かせたが、もう一度腰を下ろした。僕のためにこんなになるまで頑張ってくれた彼を看取らずに行くのは、なんだか不義理な気がした。
「申し訳ない。ここまでしてもらったのに、何の礼もできず……」
預言者は笑った。
「よいよい。礼ならもう十分もらった」
彼が何を言っているのかわからなかった。預言者とは、まだ会って数時間しか経っていないのだ。
同じ言葉を、どこかで聞いた気がした。
「村長もあなたも、どうして僕にそこまでしてくれるんですか」
ずっと不思議だった。ただの遭難者に対して、ここまで親切にしてもらうのはいささか僕にとって都合が良すぎるように思えた。
預言者が血と唾液の混じったものを飛ばしながら笑う。その笑い方はソクラテスにそっくりだった。
「もう、村のルールを破るでないぞ」
預言者が目を閉じる。僕の質問には答えないつもりらしい。
預言者が僕の方へ手を伸ばす。その手をつかむと、もう一度目を開けて僕を見た。
「最後に役に立てて良かったわい、この間抜け」
ニカっと笑って、預言者の手から力が抜けた。
「預言者様……」
プラトンが預言者にしがみついてオンオン泣いた。ソクラテスも、顔を背けてはいたが震えていた。
しかし、僕はそれよりも、どうして預言者がその呼び方を知っているのかが気になった。
ただ口が悪いだけなのだろうか。村長の一族は、相手をそう呼ぶ癖でもあるのか。
しかし、最後に僕を見つめた目を、僕は見覚えがある。
「やっと死んだか、糞ジジイ」
ソクラテスがぽつりとつぶやいた。声が震えていた。
「おい、ソクラテス」
プラトンが人目もはばからず涙を流しながら、ソクラテスをたしなめる。
「俺は、ジジイが大嫌いだった。怖ぇし、預言者なんてなりたくなかった。だって、そうだろ。あんなわけのわかんねえ呪術なんて、怖くて怖くて、俺はいつもチビっちまいそうになるんだ。だから、嫌な奴でいたら、預言者にならなくて済むんじゃねえかなって思ってたんだけど、そんなわけねえよな」
ソクラテスが膝を抱えて鼻をすする。いつもの彼からすると、ずいぶんおとなしい。
「俺ぁよ、怖ぇんだ。さっきだって怖かったし、今も怖ぇ。でもよ、死ぬ前に俺に託してくれたんだな、ジジイはよ。ほら」
ソクラテスが指をさす。リビングの片隅に、大きな箱があった。プラトンを見ると、頷く。開けてみろと言うことだろうか。
箱を見ると、先程の赤黒い小さい箱を思い出す。この箱は普通の木箱のようだった。この中には何が入っているのかと思って、恐る恐る箱を開けてみる。
「これ……」
一番最初に目についたのは、預言者が着ていたものと同じ服だった。服以外にも、預言者が身につけていたアクセサリや杖などが納められていた。手紙も入っていた。
「読んでもいいか?」
尋ねると、ソクラテスが頷く。ずいぶん長い手紙だった。その文章の多さから、ソクラテスへの愛を感じた。とても細かいが、ソクラテスを信じて預言者としてのすべてを伝えようとしているようだった。
「そんなもん、口で言えば良かったのに。ジジイが口を開くのは、いつも俺を叱るときだけだったからよぉ。だから、俺は嫌われてんだと思ってたけどよぉ」
鼻をすすりながら、ソクラテスが続ける。
「俺のこと、才能あるって……」
確かに、手紙にはソクラテスの才能を信じていると書かれていた。
「良い人じゃないか」
「良くねえよ。クソジジイだ」
ソクラテスが声を上げて泣き出した。
「世襲って言うのも大変なんだな」
僕が呟くと、プラトンが僕の肩に手を置いた。
「あんた、はやく迎えに行ったほうがいいんじゃあないか。こいつに付き合うと、長くなるぞ」
「ああ、そうするよ」
ソクラテスとプラトンはそこに残った。
僕は玄関へ走った。
走りながら、早く妻の元へ行きたい。早く妻に会いたいと考えていた。
だから、ということはないだろう。
先程まで、玄関から見えていた山の峰は、玄関を出た瞬間に消失し、そこはすでに砂浜だった。




