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妻は身勝手な女だった。
次の日も、彼女はやってきて「海に行きたい」と言った。彼女は海が好きで、よく連れて行ったものだ。僕の目を盗んで、声をかけてきた男たちと消えていったこともあった。その度に、僕は胃に穴が開きそうなくらいストレスだったが、咎めて彼女を失ってしまう方が怖かった。
「海が見たいの。ここに来てから、海をまだ見てないもの」
「ここの海は綺麗だよ。多分、赤道近くの東南アジアあたりだろうと思うんだけど……」
「そういう講釈はいらないの」
妻は僕の唇に人差し指を当てた。思わず口をつぐむと、彼女はニッと笑った。
村人が漁に出ない小さい入江の方へ行くと、人気がなくて波が静かに砂浜に寄せていた。ぽつりぽつりと恋人同士らしい村人がおり、ここがデートスポットなのだということがわかる。
妻は歓喜の声を上げながら砂浜の方へ走り出した。白いワンピースが、陽の光に透けて体のシルエットが陰になって見えた。裸足になってちょっと高くなっている岩場の方へ昇ってゆくと、彼女は手を目の上にかざして、眩しそうに遠くの海を眺めた。
なんだか、何か忘れているような気がしたが、彼女に夢中で、それ以外のことはどうでもよかった。
「きれーい」
少女のようにはしゃぐ彼女は可愛らしかった。
妻は砂浜に飛び降りると、一歩々々踏みしめるように歩いた。耳をすませば、ザクザクと小気味の良い音が聞こえてくる。
「水が冷たくて気持ちいい」
足に水が触れる。初めてそれを体験したとき、僕も気持ちよさに震えたものだ。
「あれ、天気が悪くなってきたね」
先程まで晴天だったのに、黒い雲が少しずつこちらへ近付いてくるのが見えた。
「珍しいね。たまに雨が降るとき以外は、いつも天気が良いのに」
僕はまだ呑気なことを言っていた。このとき、僕が犯した過ちに気づいていれば、まだなんとかなったかもしれないのに。
妻は気にせず水を蹴って遊んでいた。水に慣れてくると、少しずつ海の方へ近付いて行き、ワンピースを来たまま海に飛び込んだ。ワンピースが肌に張り付いて、彼女の体のラインが浮かび上がる。裸を見るよりも恥ずかしかった。
彼女は僕に向かって水をかけた。僕も負けじと水をすくって彼女に放った。
その瞬間、雷が落ちた。海水の表面を伝って、雷撃が彼女を襲う。不思議なことに、僕は平気だった。
「ヒッポカンポスだ」
背後で誰かが言った。
そのとき唐突に思い出した。
そうだ。忘れていた。海に入れるのは儀式をした人だけだということを。彼女に訊くのを忘れていたのだ。もう儀式は済ませたかということを。
浅瀬だと言うのに、海面の下から巨大な馬がぬぅっと出現した。スピノザが描いたヒッポカンポスそのままだった。まるで海の中から、馬が生えてきたみたいに感じた。
このままでは妻が連れ去られてしまう。やっと再会できたというのに、もう離れ離れになるなんて嫌だ。もし、彼女が殺されでもしたら、僕は生きている意味がなくなってしまう。
「わ、悪かった、ヒッポカンポス。すぐに海を出るから妻を返してくれ」
ヒッポカンポスは前足が馬だったが、下半身は魚の様だった。僕の嘆願を一瞥すらせずに棄却した。雷撃で気を失っている彼女を咥えると、海の中に潜っていった。追いかけようと思って一歩足を踏み出す頃には、すでに豆粒ほどの大きさになってしまうほど遠くに行ってしまっていた。
「待ってくれ」
僕が海に飛び込もうとすると、背後から強い力で引き止められた。
「おい、何してんだ」
プラトンの声だった。必死にもがいたが、彼の力強い腕からは逃れられなかった。
「何があったんだ」
「妻が……天海がヒッポカンポスに連れ去られたんだ」
「何だと?」
一瞬、プラトンの力が緩んだ。その隙に僕は彼の腕からすり抜けて海に飛び込んだ。
「おい、馬鹿」
水中なので、プラトンの声が遅れて聞こえる。あんまり興奮してたものだから、上手く泳げない。それどころか、泳ぎ方すらわからなくなってしまった。
あ、まずい――思ったときには、もう溺れていた。いつだったか、こんな夢を見た気がした。
「馬鹿が……」
溺れた僕を、プラトンがすくい上げる。
ヒッポカンポスが海中に姿を消すと、空は再び雲を追いやり、快晴になった。あとには、何事もなかったように凪いだ海が僕を憐れむかのように波の声を上げていた。




