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「でもなあ。わからないんだよなあ。私、船に乗ったことは覚えてるんだけど、一人だったと思うんだよね」
「まだ、記憶が混乱しているんだね。すぐに思い出すさ」
「そうかあ。ま、そうだよね」
こうやって深く悩まないのが彼女の良いところだ。宴のとき、僕に警戒していた彼女は、彼女らしくなかった。きっと、徐々に彼女自身を取り戻してくれるだろう。
彼女の方へ手を伸ばした。肩を抱こうとすると、彼女はスルリと僕の腕から逃げた。猫のようにしなやかな身のこなしだった。
「だーめ。まだ本当に貴方が旦那様だったって思い出してないもの。今日はここまで」
そう言うと、彼女は玄関の方へ歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。君が良いと言うまで触れないから、ここにいてくれ」
僕が慌てて言うと、彼女は振り返っていたずらっぽく笑い、玄関から素早く出ていった。
走り去ってゆく彼女の後ろ姿を見て、いつも僕は彼女の背中ばかりみていたな、ということを思い出した。
子供のことを聞くのを忘れた。まあ、僕たちに子供がいなかったことは確かなのだから、訊くまでもないことだが。
そういえば、猫はどうしただろう。家に置いてきたのだろうか。それとも、もう死んでしまったのだろうか。
思い出せない。




