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「彼女は何も思い出さなかったって」
それを伝えてくれたのはルネだった。それを聞いたとき、彼女が何を言っているのかわからなかった。
「なんだって? それはシモーヌが言ったのか?」
ルネは首を振る。
「おばちゃんが言ってた」
横からスピノザが口を挟んだ。
「おばちゃんって?」
「天海」
天海――妻の名前だ。彼女は子供たちと打ち解けていたのか。以前はあんなに子供嫌いだったのに。この島に来てすっかり変わってしまったようだ。まるで、僕の知らない人みたいだ。
「おばちゃんは、いつも私の髪の毛を三つ編みにしてくれるのよ」
ルネがわらじみたいにギチギチに編んだ三つ編みを、うっとりとした顔で見る。妻にそんな特技があったなんて知らなかったが、不器用なのは変わっていないようでホッとした。
「じゃあ、デカルトのパイナップル頭も、妻がやったのか」
妻、という言い方が気に喰わなかったのか、ルネが不機嫌そうな顔をした。デカルトは髪の毛を撫でて「えへへ」と笑った。
「俺はね、髪の毛を切ってもらった」
スピノザはウニみたいに硬い髪質で、寝癖なのか四方八方に攻撃的に針を伸ばしていた。それだけ言うと、スピノザはまた僕の家の地面に指で絵を描き始める。子供というのは興味が移るのが早くて追いつけない。そこが苦手なところでもある。
期待していたヘルヴィムの薬がだめだったとなると、どうしたら妻が僕のもとに戻ってきてくれるのか、再び悩まなくてはならない。釣り針に糸でもつけて、彼女の目の前で揺らしたら催眠術にかからないだろうか。 そんな馬鹿げたことすら真剣に考えた。
この島に残るにしろ出るにしろ、妻と一緒でなければ意味がない。どうにかして、彼女を取り戻したい。
子供たちが何か声を上げて遊んでいる。許した覚えもないのに、僕の家は子供たちの遊び場になってしまった。
「子供嫌いじゃなかった?」
玄関から聞き覚えのある声が聞こえた。
「天海」
妻が顔をのぞかせていた。この島に来る前と変わらない、少女のような無邪気な笑顔だった。
「記憶が戻ったのか」
思わず興奮して立ち上がっていた。
彼女は首を振った。
「ううん、思い出せないんだけどね、知らない声で、貴方のところへ行けって声が聞こえたの。だから、なんとなく、そんな気がしてきた」
舌っ足らずな喋り方も、ひどく懐かしい感じがした。へんてこな言い訳も、彼女らしい。彼女の声を聞いているだけで、体が熱くなる。
「子供が嫌いだったのは、僕じゃなくて君の方だよ」
「えー、そうだっけ」
そう言いながら、家に入ってくる。綺麗な布のワンピースを着ていた。この村で作られた服だろう。僕は見たことがないし、僕たちの荷物は船と一緒に何処かへ行ってしまった。
「本当に大丈夫?」
妻に続いて、シモーヌも入ってきた。少し困惑した顔で、妻と僕とを交互に見る。妻はシモーヌの腕に絡みつくと、彼女の耳元でなにか囁いた。シモーヌの顔が赤くなった。
「あなたが良いならそれで良いのだけれど」
シモーヌは子供たちを連れて家から出ていった。ようやく、彼女と二人きりになれた。
「やっと会えた」
近づくと、彼女は手を後ろに組んで一歩後ろに下がった。髪の毛が、サラリと揺れた。彼女は僕よりも年下だが、永遠の少女のようだ。
「ねえ、私達って本当に夫婦だったの?」
まん丸の目玉で、上目遣いに僕を見る。
「ああ、そうだよ」
若い頃に戻ったみたいだった。
「ふうん」
彼女はあまり納得していない様子で、木の椅子に座った。
「ねえ、私ってどんなだった?」
「どんなって?」
「どんな奥さんだった? 私、自分が結婚したなんて信じられないんだよね」
「君は……自由な人だったよ」
妻はケラケラ笑った。
「そんな気がする」




