閑話169 体験版
【???視点】
「さっちゃ~~ん!」
仕事場の私は掃除機。
私が求めていないのに、仕事の方からこちらにやってくる。
「はい、どうしたんですか?」
「これ、おせーて!」
これは、客先プレゼンの資料作りだろうか?
「このパッケージって、私のとこのじゃないんですけど……」
「だってぇ~!みんなもう帰っちゃったんだもん!」
もん!じゃない、もん!じゃ。
先輩の威厳はどこ行った。
「そもそも、営業は畑違いなんですけど……」
「ねぇ、おねがぁい!課長が今日までに資料欲しいって言って聞かなくて。それに明日は朝から彼氏とデートだから早く帰りたくて」
私だって早く帰って寝るかゲームしたいよ。
同じ課の人達が帰る前に言えば良かったでしょ。
それを手伝っても私には一銭も入らないのだけれど、よくそんな図太い神経でお願いできるもんだ。
「はぁ、仕方ないですね」
……でも先輩には上司のセクハラ避けになってもらってるし、それを考えれば安いもんだ。
「やったぁ、さっちゃん大好き!こんなさっちゃんに彼氏がいないなんて、うちの男共も、なさけないわねぇ」
こらこら、焚き付けるな。
本気にしたらどうすんのよ。
「はぁ~、一度でいいから、こんな胸持ってみたかったわぁ」
「ちょ、胸を揉まないで下さい、胸を!」
揉ませる相手を選べているなら、ショタにでも揉ませていたわよ。
こっちは肩凝って大変なんだよ、もっと労ってくれ。
「あれ?どうしたの?残って。早く帰りなよ」
後輩君、さっきの聞いていたのかしらんが胸にしか目がいってないぞ。
「でも、先輩を残して僕だけ先に帰るなんて……」
顔を赤くするか、心配するかどっちかにしてくれ。
脳内エッチマシーンか、おのれは。
「はいはい。そういうのは、もっと成長してから言いなさい。ほら、帰った帰った」
「お、お疲れ様です……」
はぁ、やっと自分の仕事に就ける……。
私は一度、就職に失敗している。
上司のセクハラに耐えきれずに辞めたものの、二年で辞めると転職活動に響くことを私は知らなかった。
履歴書を見た程度で他人のことを一から十まで知れる人はいない。
だから採用者から「またすぐ辞めるかもしれない人」だと思われても仕方なかった。
あまり条件のいい転職先ではなかったけれど、それでも以前の職場に比べればセクハラが少ないことだけは助かっている。
もっとも、上の方の職じゃなきゃそもそも残業が多すぎてそんな気も起きないのが現状でしょうけどね。
まあこの日も漏れずにスーパー残業デーだったわけだけれど、問題が起きたのはここからだった。
「はぁ、疲れた……」
ほぼ終電で帰ると空いていて、痴漢に逢わないのだけは助かっている。
ただ酔っ払いも多い時間帯なので、気は抜けない。
もういっそ、会社の近くに越してこようかしら……。
でもそうなったら、「家近いから」って理由ですぐ呼び出されそうなのよね……。
近道の公園を抜けようとした時、フードを被った男がこちらにやってきた。
「やっと……見つけた!」
な、何、何!?
意味の分からない言葉が聞こえてきて、ぞくりとする私。
もしかして、ストーカー……!?
「は、離してくださいっ!」
「お前のせいで……お前のせいで……!」
振り払おうとする私に、いっそうと力を強める男の声に、私は何故か聞き覚えがあったような気がした。
「姫サマがいなくなったのはきっと、多分……いや絶対に、お前のせいだ……!!」
こいつまさか、桜ちゃんの時の……!?
「っのっ!離しなさいっ!」
「へへ、よく見りゃお前……大層な胸してるじゃぁねぇか……」
そこでようやくあの時の記憶を思いだして、一瞬にして私は震え上がった。
他人だった標的が、今度は自分に向いたときのことを、全く考えていなかった。
「どれ、味見くらいは……」
「っ……!」
胸にまで手が伸びて来ようとしたその時、男の手をバチンと叩く音が聞こえてきた。
「はぁい、『体験版』は、ここまでよ」




