第934話 葛藤
『ソラ、あなた……逃げられるとでも思ったの?』
『いや、やめてっ……はなして……もうっ、らくにして……!』
午前何時かわからない時間に魘されて起きると、声を殺すように鼻を啜る音が聞こえた。
「うぅっ、ぐすっ、ソラ様ぁ……」
「……」
向かい合わせで横に寝ていたのに、いつの間にか僕が背中を向いており、エルーちゃんがこちらを向いて泣いていたらしい。
時々声が漏れてくる声に、僕ははっとさせられる。
「永遠の命を共にすることになった今、私は……すんっ、ソラ様がゆっくりと思い出してくだされば、それでもいいと……思っておりました。ですが……それでは私以外の奥様方がソラ様の記憶を思い出さずに生涯を終えてしまわれます」
そうだ、僕は思い出せるまでえっちなことは衝動的にするものじゃないと思っていたけれど、でもそれが百年続いたら?
僕がずっと思い出さなければ、妻たちのことを知らないまま死んでしまう。
「でも……ぐすっ、ソラ様が思い出すには、ソラ様のお心を沢山傷付けなければなりません。あれだけ沢山傷付いたソラ様に……そんなことするなんて、とても……」
エルーちゃんは中間管理職のごとく葛藤していた。
「……ぐすっ、でも私、寂しいです……」
それは明らかに僕が聞いてはいけない、本心だった。
エルーちゃん本人としては、本当はいますぐ僕の記憶を取り戻したかったのだ。
パートナーという価値観の人物がいたことはなかったけれど、大切な存在の記憶が急になくなって、平静でいられるはずがなかったのだ。
僕だってお祖母ちゃんと再会できて、そのお祖母ちゃんが僕のことを全く覚えていなかったとしたら、とっても辛いと思う。
まだ寝たりなくて眠かったけれど、この状況を見て何もしないなんてイヤだった。
きっと僕は、僕のことを一生懸命お世話して、それでいて僕の見ていないところでは泣くような健気で誠実なこの子をまた好きになりかけているのだと、そう気付いたから。
「んぅ、えるーちゃん、ぼくも、らいすき……」
「ぐすっ、ソラ様、起きて……!?」
目を瞑って寝返りを打ち、「らいすき」と繰り返しながら、抱きしめる。
でもきっとエルーちゃんが本当に好きなのは今の僕ではなく、記憶が戻った過去の僕だから。
「んーっ……すぅ」
たとえその優しさが偽りであろうとも、僕は悲しませたくなかった。
罪悪感に駆られつつも眠気には勝てず、そのまま寝惚けたことにして眠りについた。
翌日、後宮に残った妻たちは目元の化粧が少し濃くなっていた。
エルーちゃんだけじゃない。
今の僕は誰も幸せにしない存在だった。
自分の記憶にないことを周りの人が知っている、この違和感。
そして何より記憶を亡くし、妻たちを泣かせてしまうような、甲斐性のない今の僕。
それに僕は段々と耐えきれなくなっていた。
「ねぇ、エルーちゃん」
「はい」
「離婚、しようと思うんだけど」
結局今の僕が彼女のことを好きになったとしても、彼女が本当に会いたいのは過去の僕だから。
見るだけで悲しい想いをさせるような、つまらない今の僕を殺して、過去の僕を呼び戻す。
でもそれには妻たちの見ていないところで、僕を殺さなければならない。
だから一度、距離を取るしかない。
どうせ今のへっぽこ男は妻たちに相応しくないのだから、過去の僕も納得することだろう。
「ソラ様、それはできません」
でも妻から返ってきた言葉は、否だった。




