第909話 雑音
「ノイズキャンセリング?」
「ええ、そうよ。音は振動、つまり音の波が私たちの鼓膜を震わせることで私たちは音を聞くことができる。ここまではいい?」
サツキさんが分かりやすくホワイトボードに耳や波の概念を図示する。
「あの、サツキ様。初耳なのですが……」
「確か、古い文献で……第三代のベラ・ブランベル様の時にそのような話があったな。高い声は振動が大きいとかなんとか」
「ああ、歌姫と呼ばれるようになった聖女様か」
「む、これはそのうち義務教育に入れるべきね……」
そういえば、この世界ではイヤホンとか音響とか音楽関連の知識はほとんどなく、一般教育にも入ってなかった。
歴代でもピアノをやったり歌う聖女はいたけれど、それでも聖女がやっているからピアノも歌も流行ったというところが強いらしい。
こういった科学の知識はクラフト学や魔道具の研究者でもない限り学ぶ必要がないと言われるくらいの分野なのかもしれない。
逆にクラフト学が人気がないのって、そういった根本の「原理」が分からないから、この世界の人たちにとってはまだ「取っつきにくい」のかもしれない。
前世での快適な暮らしを支えていた家電達を知る僕たち聖女にとってはクラフト研究室こそ最も重宝し、同時に期待もしている学問なんだけど、それを熱心に教育しているのなんて聖女学園だけで、正直貴族や平民からも買い叩かれるくらいの職業だ。
以前小人族の里やクラン『奈落』を訪れた時もその片鱗が見えたけど、それくらい軽視されてしまっている現状がある。
今僕たち聖女を除けば、聖女院で一番儲けを出している部署はクラフト研究室なんだけどな……。
まぁそれも、主に僕が大量の投資をして依頼するからなんだけども。
「音を消すには、二通りあるの。一つ目は、音そのものを遮断する方法。人間で言うなら、耳栓やイヤホンをすることで耳を塞いで、聞こえなくするのが一般的ね」
「でも耳を塞いでも案外聴こえますよね。それは塞いだ耳の隙間から漏れ出てくる分があるというか……」
試しに二人にも耳を手で塞いでもらって確かめてもらう。
「概ねはソラちゃんの言った通り。あとは骨伝導みたいな概念ね。先ほども言ったように音は振動で、塞いだ耳栓自体も音によって多少振動してしまうから、その振動を耳が受け取ることで音が貫通して聞こえてしまうのよ」
イヤホンをしていても雨や雷、空調機、車の音などが聞こえるように、皮膚や耳栓も大きな振動までは消せない。
音を振動と捉えてもらう方法としてはいくつかある。
例えば金属でできた音叉を使った音の共鳴を確認したあとに、実際に音叉に触れれば音が振動していることがよくわかる。
あとは音は波であることを分かりやすくするのなら、ピンと張った黒い幕の上に満遍なく塩を振り撒いて声を出せば塩が声に合わせて模様を描いて動くのを確認できる。
中でもわかりやすいのが、紙コップと糸で作る糸電話だろう。
本来音が聞こえる距離でないのに、小声で喋ったことが相手にも聞き取れる。
「全くの無音にしたいのなら、音の振動とは逆の波系の振動を同時に発生させれば良いのよ」
いろいろ実験をしたあと、波の授業を行う。
懐かしい、理科の授業だ。
「――つまり、あなたの姉の声のサンプリングをひたすら行い、そのデータから似た声が顕れた時にその声とは逆位相の音を発生させて打ち消し合う」
「そうすれば、姉の声だけを消すことができると……」
本来ならばノイズキャンセリングは周囲の雑音や騒音を消すことで快適に音や動画を楽しむためのものだけれど、それを応用して特定の人物の声の波長パターンだけを「雑音」扱いして取り除くなんて、そんなやり方考え付きもしなかった。
「じゃ、理論でわからないことがあれば聞いて」
「サツキ様は、何を?」
「私はもうひとつ必要な、ソフトウェアを作るのよ」




