港町ダーナス1
船旅は最悪だった。
海はさぞ美しかったのだろうけど、船室には窓がないし、部屋からでられないし、昼も夜も絶え間なく揺れ続けた。おかげで船室に入れられた1時間後には猛烈な船酔いに襲われていた。
海岸から見るぶんには優雅な帆船も実際に経験してみれば、控えめにいって地獄そのものだった。
時々差し入れられる食事もほとんど食べられずにただひたすら寝転んで、たまに胃液を吐くためだけに起き上がるという日々。
しかも、船室にあると言うトイレはただのツボだった。蒸し風呂のような暑さの中、ありとあらゆる悪臭を放っている。
もう何もかも最悪で、このまま死ぬんじゃないかと思いながら朦朧とした意識の中を漂っていたら、誰かが部屋に入ってきた(たぶん副船長)。
乱暴に頬を叩かれた後、半ば抱えられるようにして部屋から引きずり出されたのはわかったけど、何の抵抗もできずなすがままにされて、眩しい陽の光を浴びたところでようやく目的地に到着したのだと知った。
思考回路がショートしたまま這いずるように船から逃げ出す。足を地上につけた時には心の底から安堵した。地上を歩く安心感は半端ない。もう二度と船には乗るまいと心に誓った。
絶え間ない波音からできるだけ遠ざかりたくて、可能な限りの早足で歩いた。もうとっくに足は地面についているはずなのに、体はまだ波に揺られていて、幽霊のようにふらふらしていた。
すれ違った船員の一人が心配そうな声で何か話しかけてきたけれど、もうそれどころじゃない。船長か誰かに一言お礼ぐらい言うべきだったかも知れない。だけど早く船から逃げ出したいという思いで頭がいっぱいだった。
港町ダーナスは思っていたよりずっと大きな街だった。ヘンレンスさんの口ぶりから辺境だと思っていたのに意外。
港には船乗りや商人風の人たちでごった返していて、絶え間なく船から降ろしたばかりの積荷を運ぶ荷馬車が大声を上げながら突進してくる。それらをなんとか避けながら彼らが向かう方向に急いだ。きっと出口があるはず。
進行方向斜め手前に、軽く2メートルを超す二足歩行のトカゲの集団がいた。思わず小さく悲鳴をあげてしまった。トカゲたちは筋肉の塊と言っていい体に腰巻きとブーツを履いていた。ぶっとい尻尾を器用に動かして歩いている。
これが亜人なのね。すごい。話をしてる。喋れるんだ、あのトカゲ。
目を離せずにガン見していると、突き出た大きな口をがばっと開けてギャーギャー叫んだ。笑ったんだと思う。鋭い牙がずらりと並んでいる。どう見ても肉食の歯並び。怖すぎる。主食は人間だって言われても信じちゃうぐらい凶暴そうな顔つきをしていた。
ほとんどが船員の様だけど、中には武装したトカゲもいた。幅の広い大きな刀剣を腰に下げている。なんなの?海賊ってこと?
幸い彼らは私にはなんの興味も湧かないみたいで、すぐ横を通り過ぎた時も振り返りもしなかった。
その時、視界の端っこにさっきの船員が追いかけてきているのが見えた。急に恐怖に襲われて、私は急いで荷車をいくつも引き連れている商隊の影に隠れると、こっそり出口に急いだ。
なんとか無事に港を出ることができた。
商人風の集団は屋台が立ち並ぶ区域に入っていく。肉の焼けるスパイシーな香りが暴力的に私の鼻腔を襲った。立ち込める熱気に圧倒される。こんなに人がいるなんて。
歩いているのはヒューマンだけじゃない。動物の尻尾や耳が生えている人、いくつもの角が頭や肩から突き出ている人、真っ赤な肌をしている人、そもそも人間には見えないのに服を着て歩いている人。多種多様な人種の洪水にめまいを覚えた。
交わされている言葉はサノリテ語以外にもいくつかあるようで、この街が魔大陸との重要な交易地点である事が伺える。
頭にターバンを巻いた商人の一人がこそこそとついてくる私を不審げに眺めていた。今にも声をかけてきそう。慌てて離れた。
人混みで埋もれた道の両側には屋台が並んでいて、本当に様々な物が売られていた。
ガラクタにしか見えない古びた日用品から、高級そうな嗜好品まで、ありとあらゆる品物が集められている。
美しいガラスの香水瓶にエスニックな柄の色鮮やかなストール、不思議な模様の色石のアクセサリー。次々と現れる魅惑的な品々にすっかり心を奪われてしまった。一日中ここにいたって飽きないだろう。
今まであまりにも質素な生活をしていたせいか、夢の世界に紛れ込んだような錯覚を覚えた。
それにこの香り、たまらない。肉。脂の焼ける濃厚な匂いにごくりと唾を飲み込んだ。なんて美味しそうなの。しかし遠目から見ても肉類の値段が馬鹿高いことは明らかだった。
ヘンレンスさんからもらったお小遣い、じゃなかった当面の生活費はたぶんそう多くない。慎重にならなきゃ。でも何か一つでいいから食べたい。
ヘンレンスさんの声が頭の片隅で響く。「寄り道をしないで、真っ直ぐ向かいなさい」香辛料がふんだんに使われた大きなエビの串焼きを発見して飛びついた。愚かにも貴重な忠告は完全に頭から吹っ飛んでいた。
ものすごく体格のいいおばさんがにっこり笑って「あらまぁ!」と言った。それがどう言う意味かわからないけど、おばさんは「一串大銅貨一枚だよ」と私に向かって叫んだ。
あれ?ヘンレンスさんは確か、日常の買い物はたいていが小銅貨でやり取りされるって言ってなかった?
それにここは海だもの。海産物は肉よりはずっと安いはずよね?首を傾げながらも海老欲しさにスカートの腰部分に空いている隙間に手を突っ込んで、隠しポケットの巾着袋を取り出して支払いを済ませた。
船酔いなどどこかに飛んでいた。
久しぶりに食べる、美味しさを考慮したちゃんとした食べ物に涙と涎が溢れた。
こんがり焼かれた特大の海老に夢中でかぶりつく。香ばしい。凝縮された旨みが口の中に染み渡り、生きている実感を与えてくれた。海老はあっという間になくなった。
もっと色々見て回りたいけど、当面の生活費には限りがある。これ以上の衝動買いは身の破滅を呼ぶ。理性を総動員してにぎやかな市場を後にした。
言われた通り街の中央に行けば必ずあるという教会を探したけど、公的な建物はどれも似たような厳しい石造りで、ぜんぜん区別がつかなかった。
入り口に掲げられた旗が目印になっているみたいだけど、マークの意味がわからないから無意味だし。
それに市場ではしゃぎすぎたせいかもうへとへと。こんな時は現地の住民を頼るのが一番よね。
私は人の良さそうなおばさんに狙いを定めて声をかけてみた。すると案の定、素敵な笑顔を見せて快諾してくれた。
若いってすばらしい。誰もが無条件で助けてくれようとするんだもの。もう永遠に子供のままでいいかも。
街の建物のほとんどは粗末な木製で、どれもひどく歪んでいた。たまに泥を固めたのでは?と疑いたくなるような家もあったりする。大通り以外の道は舗装されておらず砂埃まみれだし、隅には汚物やゴミが散乱していてハエなどの害虫が盛大に沸いていた。
そんな不潔な脇道をおばさんは大股でどんどん歩いていく。
だんだん市街地から離れて人気がなくなってきた。軒を連ねる家々もちょっとバラックっぽくなってるし、もしかしてまずい事態なんじゃ……..。なんて考えていた時、突如として視界がはれ、コバルトブルーのパノラマが目に飛び込んできた。キラキラ輝く真っ青な海が地平線の果てに溶けて、同じ色の空と溶け合っていた。
思わず立ち止まった。すごく綺麗。だけど私の探しているのは海じゃない。おばさんを見上げると彼女は指を何もない空き地の方へ向けた。
原っぱの中に古い教会が佇んでいた。高い屋根と石造りの塀、壁に刻みこまれた見事な彫刻。かつては輝いていただろうその建物は、いまでは崩れ落ちる寸前といったところ。全体的に暗い雰囲気を漂わせている。花壇に花が咲いているから手入れをしている人はいるんだろうけど。
私は目をしばたたかせた。これが『ニムオン大陸』全土を宗教的な面で支配しているというミドラ神の教会なの?もしかしてヘンレンスさん、大袈裟に言ってた?
おばさんはぼんやり佇む私の肩を軽く叩くと、にっこり笑って去っていった。
仕方ない。あのおばさんを信じよう。私は教会に向かって歩き出した。
うーん、もしかして教会って流行ってないのかな。
目の前の頑健な石の建物は近くで見てもどことなく荒れていて、ますます見捨てられた感が漂っている。
しかしこの世界には本当に神がいる、ということになっているはず。
教会と人々の生活には密接な関わりがあって、たとえば畜産や農耕の神ヤクロイは頻繁に姿を現しては助言を与えるというし、法改正や契約のやり取りには契約神マルシュアンノスの司祭が神を通じて契約を結び、普段は固く閉じられている戦いの神マーヒスの教会は戦争が起こると扉が開く。
世界を動かしているのは神々だという印象を持っていたけれど、目の前にある光の長であるはずのミドラ神の教会は、誰がどう見ても落ちぶれていた。
本当にここだよね。人、いる??
恐る恐るがたつく木の扉を開けて中に入ってみると、誰も座っていない長椅子が寂しげに並んでいるだけだった。ひどく薄暗くて人の気配がまるでない。ひんやりとした感触は心地いいけど、本当に誰もいなかったらこの後どうすればいいのかわからない。
私は意を決して声を張り上げた。「ごめんくださーい!」
……返事がない。私の声は虚しく薄闇に溶けて消えた。
もう一度息を吸い込む。「すみませーん!」
やっぱり返事はなかった。
帰ろうかな。おばさんは何か勘違いしてたのかも。きっとここじゃないんだわ。諦めかけた時、奥から「はいはい」と女性の声がした。
奥の小さな扉から現れたのは白い聖服に身を包んだ妙齢の女性だった。ヘンレンスさんにどことなく面影が似ている。この人絶対に娘さんだ。いや、お孫さんかな。
「あの、初めまして。私、ユリと申します。ヘンレンスさんにお世話になっていた者です。ビターナさんはいらっしゃいますか」
緊張でちょっと吃りながらも、何とか言い切った。
彼女はちょっと驚いた顔をして私をじっと見つめた後、「あなた一人?」と聞いてきた。
「え?そうです、けど」
「困ったものねぇ!一人で来させるなんて。とにかく無事でよかったわ。さぁ、中に入ってちょうだい」
彼女はそういうと強引に私の背中を押して教会の奥へと進ませた。廊下は暗くて狭くて、埃っぼかった。彼女はそのまま私を部屋のひとつに押し込んだ。
大きめの机と椅子が置かれている。ここは応接間みたい。明かり取りの窓から光が差し込んでいた。両側の壁には木箱や麻袋が積み重なって置かれている。どうやら物置を兼ねているみたい。斬新な間取りだわ。
勧められるまま硬い木の椅子に座ると、彼女は曖昧に笑っていまさらの挨拶を返した。
「ええ、ええ。ユリさんよね。父から手紙を貰っていますよ。私がビターナです」
ちょっとびっくり。娘さんだった。ヘンレンスさんったら、一体何歳の時の子供なのよ。
ビターナは戸棚から木のカップを取り出すと、すでにテーブルに置いてあるポットから薬っぽい匂いのするお茶を注いで私の方に差し出した。
悪気はないみたい。完全に冷え切っているけど、砂漠の教会で飲んでいた香りに似ていた。
礼儀として一口口をつけ、お茶のカップをテーブルに戻すと、なるべく背筋を伸ばして賢そうに見えるといいなと願いながらビターナに向き直った。
カバンを探ってヘンレンスさんから渡された手紙を2通とも渡す。
手紙に素早く目を通した彼女は、「ふむふむ。そうね、私もそれがいいと思うわ」と言った。
私は目をぱちくりさせた。「あの?」
「……父はあなたに学校に通って欲しいと思ってるようだけど、話、聞いてない?」
「そうなんですか?でも学校って、その」
彼女は首を傾げて眉も顰めた。「魔術学校のことよ。手紙によると『ガーレン魔術学院』に行かせたいみたい。以前にも手紙をもらっていたけど、本気なのね」
何も言えずただ見つめていると、彼女は笑って顔の前で手を振った。
「ああ、心配しないで。もう手配は済んでるの。護衛には教会を通じて前金を払っているし、彼についていけば大丈夫よ。ただねぇ、遠いわよぉ、ガーレンは!」
「遠いって、どのくらい?」
ビターナはため息をついた。「父はあなたをなんとしてでも最高峰の魔術学校に行かせたいようね。学校のあるガーレンは、大陸の反対側にあるの」
「……それって何日ぐらいかかるんですか?」
「どうかしらねぇ!一年ぐらいかかるんじゃない?」
「え!!」
「冗談よ。でもそれだけ遠いってこと。私には想像もつかないわ。待って。私の実家がちょうど大陸の真ん中にあるから、そうね、何事もなければ3ヶ月か半年ってとこじゃない?」
あんぐりあいた口が塞がらない。想像の10倍ぐらい遠い。それにすごく曖昧じゃない?
ビターナは呆れたように苦笑した。
「本当に聞いてなかったのね。まぁ、あの父が決めたことですから、従うしかないわよ。お金のことは心配しないで。それよりも問題はあなた自身のことよ。『来訪者』ですって?」
「え、はい」
「それはいいんだけど、あなた自分のこと、どれぐらいわかってる?『神人』のことだけど」
「少しは聞いています」
「そう。ならよかった。十分に気をつけなさい。簡単に人を信用しないこと。あなたを利用しようとする人たちはあなたでなく、『神人』という存在に価値を見出しているのよ」
「……..まぁ、わかりますけど」言いながらも本当は何もわかってなかった。
「よし!ならこの話はこれでおしまい。私はあなたを同じ人間として扱いますけど、いいわね?」
「?はい。あの、学校には私も行こうと思ってました。でも、学費とか旅費がかかるでしょう?できればこの街で仕事をしてお金を貯めようと思ってるんです」
彼女は目を見開いた。呆れたみたい。
「魔術学校の学費は高いわよ。とても稼げる額じゃないわ。奨学金もあるようだけど、あれはもっと小さい子向けだし。お金の事は大丈夫。父の財産から出すから」
「ええ!?でも、そこまでしていただくわけにはいきません」
「いいのよ。父の気持ちを汲んで受け取ってちょうだい。あの人ねぇ、色々あったのよ。母が死んでからはそりゃ落ち込んでね。砂漠に閉じこもって、もう死を待つだけって感じだった」彼女は悲しげに微笑んだ。
「手紙をもらって驚いたわ。あなたのことが可愛くてしょうがないみたい。感謝の気持ちなのよ。だからあなたは何も気負う必要はないし、素直に受け取っていいものなのよ」
私は俯いた。お礼をしなきゃならないのは私の方なのに。
「それにね、魔術師になれたら高給取りよ。気になるなら出世払いでいいから。その方が孤児院の為になるしね」
優しいビターナさん。それなら頑張って勉強して、倍にしてお返ししよう。私の決意を読み取った彼女はにっこりと笑った。パシリと膝を叩く。
「さて、この話はおしまい!それと、雇った護衛が戻るまで数日かかりますから、その間はここで孤児たちと同じ生活をしてもらいます。部屋は私と一緒。文句は言わせません」
私は急いで言った。「もちろん言わないわ」
「よろしい。その護衛なんだけど、今砂漠にいるのよ」
「ニムオンに?」
するとビターナは気の利いた冗談でも聞いたみたいに遠慮なく笑った。
「まさか!街の外にいるってこと」
「この街も砂漠なのね」がっかりして思わず本音がもれた。砂漠なんてもう懲り懲りだったのに。別の大陸に渡っても砂漠が続いているなんて、この世界はどうなってるの?
彼女は言った。「あそことは違うわよ。少しはましかしらね。単に荒野がずっと続いてるだけなの。貧しいところなのよ、ここは。大丈夫、北に向かって進んでいればすぐに森にお目にかかれるから」
「本当?よかった!」
ビターナは優しげな眼差しで微笑んだ。笑うと目尻に皺がよる。ヘンレンスさんによく似た笑顔だった。恋しい気持ちが迫り上がってきて、ごくりと唾と一緒に悲しみを飲み込んだ。
重要な話がすんだ後は彼女について教会を出た。教会の背後に隠れるようにしてその孤児院はあった。
物置かと思うような掘立て小屋が3つ並んでいる。原っぱで遊びまわっていた子供たちが物珍しそうな視線を私に向けた。みんな痩せていて、着ている服もつぎはぎだらけ。最悪の経済状態であることが一目でわかる。
躊躇する私を連れてビターナは遠慮なく扉を開けて入って行く。
中は思ったより広かった。玩具や絵本といった子供のアイテムは一つもない。孤児院というより集会場みたい。
ここにも大勢の子供がいた。私ぐらいの年齢の子も二人いるけど、大抵はもっと小さくて、ほとんど赤ん坊に近い子までいる。全部で30人ぐらいだろうか。こんなボロボロの粗末な家にこれだけの数の子供たちが詰め込まれているなんてゾッとする。
子供たちは新顔の顔を穴が開くほど見つめた後、一斉に群がってきて、遠慮なく私の着ている服をベタベタ触ってきた。ギョッとして固まる。最年長らしい女の子が声を張り上げて怒り出すまでその群れが私から離れることはなかった。
苦笑いのビターナが「私の妹よ」と皆に紹介した。はっきりと嘘をついたわけだけど、彼らはそれで納得したみたい。
「少しの間一緒に暮らします。この子はずっとニムオン砂漠の父の所にいて、あんまり世間のことを知らないの。不便な思いをするでしょうから、みんなで助けてあげるのよ?」
どうやらビターナは養い親でもあるみたい。子供たちはまばらな返事をして顔を見合わせた後は、他所を向いたり俯いたりしてただもじもじしている。だけどすぐに年長の女の子に叱られて散り散りになった。彼女がここのボスか。
ビターナは一度私の肩をポンと叩くと、それ以上の説明は何もせずに私を置き去りにしてさっさと出ていってしまった。
女の子は颯爽と歩いてくると、必要以上に胸を張って私と対峙した。「フゥン!」気の強そうな目でほとんど威嚇するように睨みつけてくる。
「初めまして」自分でも蚊の鳴くような声だと思う。気が弱そうだと思ったのか、彼女は満足そうに頷くと「私はマノ。あんたは?」と横柄な調子で言った。
「ユリよ」
マノはため息をついた。「あんたキレイねぇ。ヨアニスさんみたい。ねぇ、まさかヴァンパイアじゃないよね?」
「え?なんですって?」
「別に構わないけど。あ、そっか。司祭様の妹なんだっけ」そして笑った。「似てないねぇ!」
「ええ、まぁ」そりゃ血が繋がってないもの。
話してみると、マノは初対面の印象と違って思いやりのある気さくな子だった。歳の近い女の子は私だけだから仲良くしようと言ってくれた。あっという間に距離が縮まって、施設内を案内してもらう間中しゃべりまくった。
マノは私が港から一人でここへ来たことを無謀と取ったらしく、「信じられない!」を連発して、「あんたみたいな子、すぐ攫われちゃうよ」と叱りつけた。
もしかしたら私の後を追いかけてきたあの船員はビターナ司祭から私を教会まで送り届けるよう頼まれていたのかもしれない。何をあんなに怖がっていたんだろう。なんだか恥ずかしくなってきて、自分のかわりに床のシミを睨みつけた。
海老の串焼きに大銅貨を支払った件について告白すると、彼女は開いた口が塞がらないって感じで「嘘でしょ!」と叫び、ギョロリと目を回した上でさらに侮蔑のこもった視線をなげつけた。それから「そんな真っ白な服着てんだもん。そりゃふっかけたくもなるよ」と顔を顰めた。
私は自分の着ている『一般女性の服セット』を見下ろした。そんなに白くない。せいぜい薄いベージュってとこ。ニムオンの砂漠の方がよっぽど白い。
マノは不貞腐れたまま先に行ってしまった。多感なお年頃だもの。自分の着ているつぎはぎだらけの大きすぎる服を恥じているんだろう。なんとなく申し訳なく思いながら彼女の後を小走りに追いかけた。
案内された部屋はどこもボロボロではあるけれど、割と清潔だった。
子供達は教会の戒律で常に身を清潔に保つ事が義務付けられているのだそう。そう言えば私も身嗜みについてだけは厳しく言われていたっけ。
この孤児院の年長さんは今年15歳になるマノだった。
口達者で愛想のいい彼女は、自力で商家の下働きの仕事をゲットしてきたと胸を張り、いつか商家の息子にも気に入られてみせると息巻いた。
とっても逞しい彼女の下についてあれこれ教えてもらいながら、年下の子供たちの面倒を見ているうちに孤児院での生活は嵐のように過ぎ去っていった。
粗末な掘立て小屋の印象が強くて不安だったけど、意外にも(砂漠のそれに比べれば)食事もましだった。
孤児院の隣には芋や瓜科の野菜を育てている畑もあるし、子供たちは遊びを兼ねて海岸まで行っては貝や小魚をとってきて、自ら不足しているタンパク質を補っているのだ。
そんな生活にも慣れた頃、ようやく私の護衛をしてくれるという人が砂漠から戻ってきた。
知らせを受けて孤児院から私を連れ出したビターナは、教会の応接間の椅子に私を座らせると自分も向かいに座って、なぜか神妙な面持ちでこちらをじっと見つめてきた。
「これから話すことは他の人には内緒にしていてほしいの。あなたの護衛として選ばれた人はここの孤児院出身のハンターで、私もよく知っている人よ」
「はい。あの、ハンターって?」猟師ってことかしら。山に入って兎や猪を獲ってくる人のこと?
「ああ、知らないのね。ハンターっていうのは、魔物狩りをしてお金を稼ぐ人たちのことよ。仕事はそれだけじゃないけど、まぁ、あんまり人がやりたがらないような危険な仕事全般を引き受ける人たち。彼は大丈夫よ。私が知る限りもっとも信頼できるハンターですから」
何が大丈夫なんだろう。よくわからないけど、あんまり社会的地位の高い職業ではなさそう。私は黙って頷いた。
「それでね、その人なんだけど、実は『ヒューマン』じゃないの」
「はぁ。港でトカゲの人を見たわ」
「あらそう?」彼女は言いにくそうにしている。「見た目は『ヒューマン』と変わらないわ。あなたと同じように。……『ハーフヴァンパイア』なの」
「え?」
「安心して。ハーフだから」
「ハーフというのは……?」
彼女は頷いて説明してくれた。
種族名につく『ハーフ』とは、片親が別種族なのではなく、『ヒューマン』の両親から突如として生まれてくる別種族の子供の事を言うそうだ。
もちろん別種族同士の子供である場合もあるけど、ものすごく稀なことなので一般的には前者の話になる。
変わり種では精霊が母親の体内に入り込んだせいで赤ん坊の魂と同化してしまったと信じられているハーフフェアリーなんていうのもいるそうだけど、要するに、過去に別種族の先祖がいた場合に先祖返りすることがあるってこと。
「それって私のことよね」呟くと、ビターナはキョトンした顔をした。
「ああ、そう言えばそうね。でもね、あなたは『神人』でしょう。彼は『ハーフヴァンパイア』なの。悪名高いのよ。彼が、じゃないわよ。種族がね。過去に犯罪を犯した人が何人かいるってだけで、彼らは言われなき差別を受けるの。だから内緒にしてる」
「ああ、そいういうことですか」
「彼自身は信頼のおける人物よ。私も昔からよく知っているし、ずっと孤児院に寄付をしてくれているの。それに、今回の仕事をこなせば教会は彼を『敵対者リスト』から外すと言ってる」
「なんですか、そのリスト」
ビターナは苦々しい顔で吐き捨てるように言った。「馬鹿げてるでしょ?私も立場上あんまり言えないんだけどね、今の正教会はヒューマン至上主義者の巣窟になってしまっているのよ」
「私はかまいません。でも今、ヴァンパイアって言いませんでした?」
聞き違いだったかも。それにこの世界の『ヴァンパイア』がどんなものか知らないからなんとも言えない。だけどビターナは先に私の不安を払拭してくれた。
「あなたは完全に安全よ。無理をして血を飲む必要はないの。それに日の光も大丈夫。魔大陸にいるアレとは違うから」
「へぇ。それってもうヴァンパイアじゃないですよね?」
「普通に暮らしていればね」そしてキッパリと言った。「彼があなたに血を求めることはないわ。それは約束します」
ビターナは他に質問はないかと目だけで問うと、頷いて声を張り上げた。
「ヨアニス!入ってきてちょだい!」
彼は廊下で待っていたみたい。すぐにドアが開いて、スラリと背の高い少年が入ってきた。入り口で足を止めて、気だるげにドアの木枠にもたれかかる。
一目見て、息が止まりかけた。美しかった。棘のある野薔薇のよう。際立っているのは整った顔立ちだけじゃない。この世ならぬ雰囲気を持っていた。
漆黒の黒髪は絹のようだし、私を見つめる好奇心でいっぱいの黒い瞳は星々を散りばめたように輝いている。
彼は私を見つめたままゆっくりと瞬きをした。ありえないほど長いまつ毛が滑らかな頬に影となって落ちた。
私ははっと気付いて、急激に火照り出した頬のことは無視してグッと背を伸ばした。初対面の人をこんなふうにジロジロ見ちゃいけない。失礼だわ。
だけど相手もじっと見てくる場合にはどうしたら良いの?
伸び始めた前髪を気怠げに掻き上げながら私を見下ろしている彼は、青年になりかかったぐらいの年齢で、浅黒い肌は砂漠の地方の血筋を感じさせる。
ちょっと冷静になってみれば、外見はものすごく綺麗だしすでに危険な色気をかもし出しているけれど、それでもやはり年相応の男の子には違いなかった。
たぶん可愛い女の子に見える私に対して、あからさまにカッコつけてる。そうなると護衛としての腕前の方が心配になってきた。
大体、彼は『護衛』としてはちょっと若すぎる。体格も細いし何より美しすぎだ。私が人攫いなら私よりもむしろ彼を狙う。
「若いのね」ポツリと本音が漏れた。
ムッとしたのか、彼はドアにもたれかかるのをやめて姿勢をただし、わずかに眉を顰めて「君、ヒューマンじゃないな」と言った。
「あなたもね」
ビターナが咳払いをした。「ヨアニス、この子がユリよ。以前話した通り、大事な教会のお客様です。あなたにとってもチャンスになるってことを忘れないで」
彼は私から目を逸らさずに頷いた。「わかってるよ」