トーアンセクト1
荒野の旅は考えていた以上に厳しく、かつ暇だった。
日中は衰えを知らない灼熱の太陽の下で吹き荒れる熱風に耐え続けなくてはいけないし、舞い上がる砂埃のせいで体も口の中もいつもざらざらしていた。
夜は夜で陽が沈むとともに急激に冷え込み、まるで夏と冬が交互にやってくるようだった。
何より私を苛むのは永遠に続くかのような変わらない景色。巨大な迷路のような岩場の間を潜り抜けた時は感動もしたけど、たいていはひたすらだだっ広い平地を駆け続ける毎日なのだ。
それにまばらに存在する補給地点である村やこじんまりとした街はどこも貧しくて活気もないし、これといった名産品の一つもない。
それにあんまり人の出入りがないらしく、誰もが不躾な好奇の視線を向けてくるのだ。
それでもたまには馬車の床以外で眠りたいとわがままを言って、嫌がるヨアニスを引っ張って一度だけ興味本位で街に一軒しかない宿に行ってみたけど、本当にひどかった。
ヨアニス曰く、「野営の方がマシ」。昼寝中のだらしない感じのおやじに断って2階に上がると、いつ掃除したかもわからないような不潔で狭い部屋が並んでいた。部屋には隅っこの方に湿った藁の山があるだけ。たぶん、あの藁がベッドがわりなんだろう。身震いして慌てて逃げ出した。
それからは街に入ってもただ物資を補給して馬を休ませるだけになった。
村の近くで野営をするとよくわかるのだけど、夜になると村を囲む塀の近くに点々と松明が燃えているだけで、夕方以降はほとんど真っ暗になる。
一応夕方には家々にもぼんやりとした弱々しい明かりが灯るのだけど、住民はお日様の出入りに合わせて暮らしているらしく、暗くなる時間には完全に就寝してしまうみたい。
燃料が高価なのかもしれない。この世界の人々は自然に寄り添った本当に慎ましい生活を送っているのだ。
大都市であるダーナスはお金持ちも住んでいるから夜でもまだ照明が灯っているところもあったし、入ったことはないけれど中心街の酒場などはかなり遅くまで賑わっているという。
街はそれ自体が生き物のようだった。大きな個体は比較的豊かに暮らせるけど、小さな個体はぞっとするほど貧しい。
いつか落ち着いて暮らす日が来た時には都会一択になりそう。しかしその都会だって治安は最悪だし、恐ろしく不潔でものすごく臭い。
ヨアニスは「街によるよ」と言うけれど、この世界の文明の進み具合をみればあんまり期待できそうになかった。
不安と不満ばかりが積もる旅を続けるうちに、次第に赤っぽい茶色ばかりだった地面に濃い緑が混じるようになってきた。なんとなく空気にも湿り気が含まれてきたような気もする。
ヨアニスが食料として獲ってくる蛇やネズミの種類が変わり、まばらだった木がだんだん繁ってきて、やがて小さな林が現れた。
雨が降った時には感動して思わず泣いてしまった。ギョッとして私を見るヨアニスによれば、砂漠にも雨季があるから雨ぐらい降るんだそうだけど、それとは違う。
街道にも劇的な変化が起きた。砂漠にも道はあったけれど、あれは整地されているというより大勢が踏み固めた結果、道らしきものができているという程度だった。それが明確な意思のもとで人の手を加わえたのだと言えるような確かな『道』になった。
あんまり大きな石が転がっていない綺麗な『道』を見て感動していたら、やがて日干しレンガの『舗装路』に変わった。
その頃にはすでに魔物除けの聖石も効力を失っていたから、夜になると魔物に出くわす機会も増えたけれど、生粋のハンターであるヨアニスは初めて会う種類の魔物に興奮気味で、仕留めた魔物の巨大な牙や鋭い爪を見せては怖がる私相手に嬉しそうに戦いの様子を聞かせるのだった。
そんな魔物も大きな街に近づくにつれて減っていって、私たちと同じように旅をしている人々を毎日のように見かけるようになった。大抵は旅商人の団体だけど、中には馬に乗った集団や武装したハンターグループもいた。
そんな時のヨアニスは決まって厳しい表情をする。決して私を御者台には座らせず、「絶対に顔を出すな」と命じて幌馬車の中に閉じ込めるのだった。
大きな街が近くにあるんだわ。空気はまだちょっと乾燥してるけど、もうここは砂漠とはいえない。
馬を休ませるために立ち寄った街道脇の休憩所では物凄くたくさんの人が集まっていた。
閉め切った馬車の中にいても商売をしている人の張り声が聞こえる。中には女性の声も混じっていた。
幌をわずかにめくってヨアニスが顔を出した。そして小さな声で警告する。
「ユリ、だめだぞ。絶対に出るなよ。絶対だ!」
「ねぇ、そんなに警戒することないと思うの。こんなことされてるの私だけなんじゃない?どう?」
彼は口を一文字に引き結んで私を睨みつけると幌を閉じてしまった。
まったく、なんなのよ。彼は誤解してるみたいだけど、私は別にいいところのお嬢様じゃない。百合子の若い頃はかなり治安の悪い外国の街だって訪れたこともあった。警戒を欠かすつもりはないし、何かあってもうまく立ち回る術だって身につけているのに。
つまらなくなった私はスカートの中の小さなポケットから一本の水晶を取り出した。布ごしの光を受けてほのかに輝いている。気のせいだろうけど、こうして目にするたびに温かみが増すような気がする。
実はアーティファクトは高価だけれども、市場で流通している。
遺跡ダンジョンに潜るようなハンターがたまに手に入れてくるらしく、大きな街には専門店が存在していて、ダーナスにもあるそうだ。ただ近くに大きなダンジョンがないせいでヨアニスは関わったことがないという。
ヨアニスが立ち寄った街のハンター協会で仕入れた情報によると、売るにはいくつかの工程を経る必要があって、それぞれにかなりの金額かかかるらしい。
大抵はコレクターが買い取ることになるから鑑定書が必須になる。どこで手にいれたものかが重要になってくるため、出所のわからないアーティファクトはそれだけで大幅に金額が下がるんだそうな。宝石の鑑定書みたい。
そういうわけでトラブルに関わりたくない私たちは早々に売却を諦めた。彼は「人には見せるなよ」と優しく微笑んで私にくれた。グッと近づいて見ないとなんの変哲もないただの小さな水晶に見えるし、万が一人に見られたとしてもそれほど危険はないと判断したみたい。
私は慰めるように優しげな光を放つ宝物の水晶を丁寧に布の切れ端に包んでポケットにしまった。
最近の幌馬車にこもる日中の暑さには参る。息苦しくて喘ぎながら息を吐いた。せめて入り口の幌をめくって風を通せたらそれだけでだいぶ違うのに。荷物にぐったり背を預けてひたすらヨアニスの合図待つ。
今日は特に暑い。だんだん湿気が増えてきたせいか昼間の馬車の中は耐え難い温度になっていた。これじゃサウナだわ。
意識が朦朧としてきた時、天の救いか幌の隙間から少しだけ涼しい風が入ってきた。私はたまらずほんのちょっとだけ布を開いて新鮮な空気を招きいれた。
休憩所は思った以上の賑わいだった。まだ街には入っていないはずだけど、今まで訪れた小さな街よりよほど活気がある。
馬車の近くにやけに目立つカラフルな集団がいて目を引いた。
布を染める技術が微妙なせいで大抵の人が茶色っぽい服を着ているというのに、彼らは何枚もの色違いの服を着込んでいた。だけどお金持ちって雰囲気じゃない。まさかこれが噂に聞く『旅芸人』ってやつかしら。
じっと見つめていると一人の若い女性と目が合ってしまった。
「しまった」と思った時には遅く、その女性は軽い足どりで近づいてきて、太陽のように眩しい笑顔を見せた。なんとなく商売用の笑顔だと感じた。
彼女は腰を屈めて私の目を覗き込んだ。「こんにちわ。どなたかしら?」
私はおずおずと布を開いて顔を出した。彼女は一瞬息を呑んだように硬直して、それからまた魅惑的な笑顔に戻った。
「あらまぁ。これはこれは」なんだか含むような言い方。「ねぇあんた、あのハンサムな子の連れなんでしょ?」
「ああ、そうよ、多分」首を傾げた。ハンサムですって?ヨアニスのことよね?あの美貌を見てその感想なの?失礼しちゃうわ。だけど悪気はなさそうだった。そもそも悪口じゃないか。
私は気を取り直して「もしかして旅芸人の方ですか?と聞いてみた」
彼女はニンマリ笑ってくるりと一回転して見せた。ヒラヒラした布の塊がふわりと揺れる。
「そうよう。変わった服でしょ!あたし歌を歌うの。あんたもトーアンセクトに行くんならまた会えるかもね。広場かどっかで公演するからさ、見かけたら声をかけてよ。あんたなら……」
私ならなんなのかは聞けなかった。ヨアニスがすごい形相で駆けつけてきたからだ。
「おいあんた!何してる?そいつに話しかけるな!」
今まで見たこともないほど険しい表情をしていた。氷のように冷え切った目を女性にねじ込む。はっきりと怒気を孕んでいた。
彼女はたじろいで一歩後退りすると身を翻して逃げていった。
「ヨアニスったら!」
彼は私の抗議を無視して私を押し退けながら馬車に乗り込んできた。怒られるかと思ったけど、ただ心配そうに眉を下げている。
「なぁユリ、頼むよ。俺の言うことを聞くって約束しただろ?」
「だって最近ほとんど外に出てないわ。息が詰まって死んじゃう!」
「しー!声をひそめてくれよ、わかったから」これみよがしにため息をつく。「次の街は治安がいいらしいから、俺と一緒なら出歩いてもいい」
私は目を丸くした。「本当?」
「ああ、約束するよ」ヨアニスは優しく微笑むと素早く私の頬にキスをした。ほんの一瞬の出来事だった。瞬きをする間に馬車から出ていってしまったから。
頬が燃えるように熱い。心臓が暴走をはじめて煮えたぎった血液が身体中を駆け巡った。
何今の?あの人、私のこと好きなの?友達としてじゃなくて、異性として?いや、もしかしたら女の子みんなにするのかも。ものすごくモテるだろうし。でも遊んでる風じゃないわ。それに彼は私以外の誰に対してもひどく冷たい態度をとるし、孤児院のマノだって私にだけ特別に優しいみたいなこと言ってた。
私は目をぎゅっとつむった。冷静さを取り戻すべく頭の中でゆっくりと息を吐きながら1から10まで数える。それでも足りなくて87まで数え上げた頃にようやく馬車は動き出した。
その後しばらくして御者席から顔を出したヨアニスはいつも通りの平然とした顔をしていたから拍子抜けしてしまった。
自分を殴りつけたい。あんなに意識することだった?子供じゃあるまいし。本当にバカなんだから。でも、とりあえず真っ赤になった顔を見られずにすんでよかったわ。
私は両手で顔を覆って隙間から息を吐き出した。私、どうしちゃったんだろう。
思えば百合子は割とモテる女だった。顔の造形云々というより自分をどう作ればよく見せられるのかを知っていて、時と場合によって巧みに使い分けることができた。いつも冷静で計算高い一面があった。
しかし今の自分はどうだろう?心の中まで子供になっちゃったみたいじゃない?
そしてふと思う。その通りなのかも。心は思う以上に体に左右されるもの。私の肉体が思春期に入っているなら、過剰に分泌された成長ホルモンが暴走気味に作用していたとしてもなんらおかしくはない。ようするに、そういうことなのよ、うん。
私は無理やり納得すると、百合子時代の記憶、遠い過去の出来事のようでまるで鮮明な夢を見ていたように感じられるけど、確かに私の心の中にまだいてくれる百合子を引っ張り出した。
彼女なら、男の子を適当にあしらうのもお手のもの。気があるようなそぶりを見せて純真なヨアニスを期待させるような真似はしたくない。きっと傷つくわ。
私はいそいそと涼しい御者席に移った。
「ほら、放牧してるよ。あれは羊かな」ヨアニスが指差した方向の丘の上では牧歌的な光景が広がっていた。黒い毛の羊が群れていて草をはんでいる。子供と犬がその間を縫って移動しているが見えた。
「わぁ。素敵ね!美味しそう」
「おい、なんだって?」彼は隣で大笑いした。「しょうがないな。今夜は肉を食わせてやるよ」
「本当に?嬉しい!」
「おっと、巡回の警備兵だ。ユリ、中に入れ」
休憩時間は一瞬だった。彼に睨まれてすごすごと馬車の中に引っ込む。ちょっと警戒しすぎじゃないの?もしかして束縛するタイプなのかしら。
付き合うとかちょっと無理だななんて考えていたら、外からヨアニスの声がした。
いつの間にか馬車が停まっていて、賑わいの中で誰かとやりとりをしている。およそ感情というものを感じさせない低い声。それでも私の心を揺さぶるには十分すぎた。彼の声には息を潜めるような静寂が、うちに秘めた情熱が隠されている。彼の本音がどこにあるのか知りたくてたまらなくなる。
私は自分を叱りつけた。いい加減にしなさいよ!
カーテンを開く音がして振り向くと、御者席にいるヨアニスが顔を出した。いつにも増して険しい表情だった。
「ユリ、街の検問所だ。兵士が中を確認したいらしい。大丈夫だから、じっとしていろ」
「あ、うん」
兵士と聞いて危険な状態なのかと不安になったけれど、現れた二人の男は穏やかで人が良さそうな、いかにも田舎の気のいいおじさんって感じだった。
荷物を調べるでもなく私を馬車から出すでもない。ただそのうちの一人が何度も天を仰ぐような仕草をしては「お会い出来て感激しております」とか「天の導きだ」とか言っては私を困惑させた。
魔物から人々を守っている高い防護壁をくぐって街に入ってから、カーテン越しにヨアニスに疑問をぶつけたみた。すると「お前はヘンレンスの娘ってことになってる。たまたま信心深かかったんだろ」と言った。
「え?どういうこと?」
「大司教の養子になったんだろ。……聞いてなかったのか?」
「ぜんぜん」驚きのあまり声が掠れていた。養子って、本人の意思はお構いなしでできるものなの?だけどヘンレンスさんに悪意があるはずがない。私は目尻にシワの寄った優しい微笑みを思い出した。口数が極端に少ないってことも。
「そっか。私のためにしてくれたのね」
「ふんっ。それだけとは思えないね。神人だったから養子にしたんだよ。ヘンレンスはいまだに諦めていないらしいな。自分は無理でも息子たちに野心を託したってところだろうよ」
「もう。なんでそんなに悪くいうのよ」
「あのジジィはお前の前でだけ猫をかぶっていたんだよ」
「あのね、過去に何があろうと、今のあの人は聖人そのものよ。知らないくせに」
「はいはい」呆れたような声。彼はカーテンの隙間から手を入れて白い布の包みを渡してきた。
包みの中央には金糸でミドラ神を表すマークが刺繍してあった。高級そうな房飾りのついた組紐を解くと、中には分厚い植物紙の束があった。一つを開いてみる。大小様々なハンコやサインや『許可』の文字でびっしり覆われていた。
「そいつはユリの身分証と通行手形だよ。正教会発行の特別なやつ。俺の任務も記されているから、よほどのことがない限り不当に拘束されることはない。誰もが教会を敵に回したくないからだ」ヨアニスは最後を特に強調して言った。
「つまり私たちは安全ってことね。ヘンレンスさんのおかげで」私も負けじと強調した。
再度カーテンの隙間から伸びてきた美しい手のひらに包みをのせる。
ヘンレンスさんを語る時のヨアニスの言い方にはいちいち棘がある。彼のようなヒューマン以外の人々、特に『魔族』に分類された種族にとっては教会は敵そのものなんだろう。
だけどヨアニスはその教会に助けられて育ったし、今だって優遇されてるじゃない?本人も複雑な心境なんだろうか。だとするとあんまり触れない方がいい話題なのかも。彼は私の命綱だし、できる限り仲違いは避けたい。
ヨアニスは大通り沿いに馬車を走らせて何かを探しているようだった。
私は彼にお伺いを立てずに四つん這いになって御者席に移動するとすとんと彼の隣に座った。ヨアニスはちょっとだけ顔を顰めたけれど今回は何も言わなかった。約束だものね。
トーアンセクトは今まで入ったことのある街の中で一番綺麗な街だった。
奥へ入ればここにもバラックぐらいあるんだろうけど、大通りだけで他の街と比較すれば文明レベルが違うんじゃないかと思うぐらいの差があった。
家々は赤い屋根と漆喰の壁で統一されていて、道にもきちんと石畳が敷かれている。
この大陸には現在国がない。いやあるんだけど、そのほとんどが街を単位とする都市国家になっていて、小さな小競り合いを繰り返しては頻繁に国境線が変わるもんだから、地元から一生出ないような人なんかは今自分がどの国に属しているか、すぐに答えられない人もいるんだとか。
大昔には大陸統一を目指した帝国が存在していたらしいけど、結局は大戦の果てに分裂してしまった。それだけではなく、何度も繰り返し大きな災害や疫病が流行ったせいでヒューマンの社会はだいぶ衰退してしまったみたい。
しばらく繁華街をぐるぐる回ってから、ようやく決心したのかどこかの敷地内に入っていく。
賑やかな表通りとは違って静かな場所だった。美しくあつらえられた花壇には色とりどりの花が咲いている。
どこか洗練されたこの場所にはちょっぴりそぐわない幌馬車が赤い屋根のかわいらしい建物の前の馬車留めに停車すると、玄関の脇でパイプをふかしていたお爺さんがのんびりと立ち上がってアプリとコットの立髪を一撫でし、ヨアニスから手綱を受け取った。
ヨアニスは驚く私に思いがけないほど優しい表情で言った。「今日の宿はここにしよう」
「ここ?すごく素敵なお宿ね!」
彼はちょっぴり居心地が悪そうだった。たぶん彼自身こうした高級な宿に泊まることはほとんどないんだろう。
「今まで節約してきたからさ。たまには休みたいだろ」と照れくさそうに言う。ほとんど野宿の生活だったものね。それともオートキャンプと言うべき?
「嬉しいわ。まともな宿って存在しないんじゃないかって思ってたところなの」
「金さえ払えばいくらでもあるんだよ。今回は特別。ほら、降りるぞ」
玄関を潜ってすぐに小じんまりとしたエントランスがあった。右側が食堂みたい。美味しそうな匂いが漂ってくる。
宿の娘さんらしき女の子が奥からやってきて、あんぐり口を開けてヨアニスに見入っていたけれど、彼に舌打ちされて我に返った。ひどい。
彼女は真っ赤になりながらもモゴモゴと挨拶してから、丁寧な言葉遣いで私たちを二階へ案内してくれた。
客室は明るくて清潔だった。
チェック柄に編み込まれた質の良いリネン類、ツヤツヤに磨き込まれた書き物机。窓辺には洒落た花瓶があって花が活けてある。
私はきちんと並んでいる二つのベッドに慄いた。同室なんだ。まぁそうよね。節約しないと。だけどせめて間にカーテンか何かあればよかったのに。
ヨアニスが寝ているところなんてちょっと想像できないんですけど。さぞ美しい寝顔なんだろうな。つい不埒なことを考えてしまって慌ててベッドから目を逸らした。
部屋には出入り口とは別にもう一つドアがあった。女の子の説明によればそちらはバスルームみたい。だけどトイレは庭にある。汲み取り式なんだろうな。
女の子はヨアニスに冷たくあしらわれるのが耐えられないようで、早口で一気に喋ってしまうと逃げるように部屋を出ていってしまった。
相部屋とはいえ清潔な部屋のちゃんとしたベッド。嬉しくて早速寝転がった。想像より柔らかくて驚いた。
この世界ではまだ分厚いマットレスが発明されていないので、代わりに干し草を使うのが一般的なのだ。余裕のあるお家では古くなった布を大量に詰め込んだ敷布団を使うんだけど、そもそも布自体が高価なので、孤児院の子供たちなんかはただの藁がそのまま入っているだけのベッドを使用するか、床に直接毛布を敷いて眠っていた。
この宿は贅沢にも布が詰められているタイプらしい。硬い馬車の床と比べれるとまさに天国だった。あまりに気持ちよくてちょっとだけのつもりで目をつむったら、そのまま寝入ってしまったらしい。目覚めた時には暗くなっていた。
体に厚手のケルトが掛けられていた。覚えがないからヨアニスがかけてくれたみたい。サイドテーブには水差しとコップも置かれている。彼は結構まめな性格なのだ。彼女ができたらその時はきっと大切に扱うんだろうな、とちょっぴり切ない気持ちになる。
部屋を出てランプの灯りに照らされた廊下を歩き、中庭に出た。涼やかな虫の声と草の匂い。広場の端にあるトイレで用を足す。戻る途中に宿の息子だという男に声をかけられた。食堂に食事が用意されていると言う。
途端にお腹がグゥと鳴った。いそいそと食堂に向かうと、何かつまみながらお酒らしき飲み物を飲んでいる比較的身なりの良い客が何人かいて、少し目で探すと柱の影の目立たないテーブルに座る美貌の少年を発見した。
テーブルには湯気を立てている美味しそうなシチューが置いてある。カゴの中には滅多にお目にかかれない白いパン。ここって相当高い宿みたい。
彼は目をあげてはにかんだ可愛い笑顔を見せた。
「よく寝てたから、後で夜食を作ってもらおうと思ってたんだよ」
「いいのよ、ありがとう」テーブルに座るとすぐにさっきの男性がテーブルにあるのと同じシチューとパンを持ってきた。飲み物を聞かれて戸惑う。ヨアニスは「赤ワイン」とだけ言った。
ヨアニスはすでに金属のゴブレットに入ったお酒らしき飲み物(ビール?)を飲んでいるし、ワインを注文されても男性は当然のように頷いただけで、忙しそうに厨房の奥へと消えていった。いいんだろうか。私、子供に見えると思うんですけど。
この世界の料理は基本的に煮込み料理がほとんどみたい。
それと言うのも、肉は硬いし野菜の皮は厚いし、衛生的にもしっかり火を通さないと食べられないから。必然と煮込み料理が中心となる。美味しいけどね。
このサノリテ大陸ではハーブはよく使われるものの、胡椒や唐辛子などのスパイス類は高価で、ほとんどが魔大陸からの輸入に頼っている。このシチューにもたくさんの香草が香りづけで使われていた。
木のスプーンを使ってかき回すと、なんとお肉が入っていた。ヨアニスをチラリと見ると彼は口の端を曲げてニヤリと笑った。
砂漠地帯のために牧畜が難しいダーナスではものすごく高かったお肉。ふーふー息を吹きかけていそいそと口に入れると、なんと牛肉だった。長時間煮込まれてとろけるほどやわらかくなった牛の肉。涙がこぼれた。もう地球のような恵まれた生活はできないんだと覚悟していたから。
「おいおい、泣くほどじゃないだろ」とヨアニスが焦って言った。
「ごめん。牛肉なんて久しぶりだから。……もちろんネズミも美味しかったけど!」
「そうかよ。まぁ、ユリみたいなお嬢さんに旅はきついよな。砂漠は貧しいんだよ。俺も出るのは初めてだけど、たぶんこれからはもう少しマシな旅になるんじゃないか?」
「そう願うわ」
肉の旨みが溶け出した野菜たっぷりのシチュー。貪るように食べた。おかわりしたかったけど、どこにいっても肉が高価な食材であることは変わらない。パンで綺麗に拭って残さず綺麗に平らげた。
牛肉の衝撃で忘れていたワインを飲む。成長途中の体にアルコールは悪い気もするけど、少しぐらいならかまわないだろう。
ヨアニスの黒い瞳が私をまっすぐに見つめていた。心臓が止まるかと思った。
「宿には俺たちが夫婦だって言ってあるんだ」
ワインを吹き出しそうになって軽く咽せた。「ふ、ふーふ?」
「嫌か?」
「いやって、そんな、ええ!?」
私は錯乱しかけた脳みそをなんとか宥めようと彼の執拗な視線から目を逸らした。真っ赤になった顔を見られたくない。限界まで俯いていたら視界の向こうで彼が肩を震わせていた。笑ってる。もしかしてからかってるんだろうか。
「説明がめんどくさくてさ。聞かれる前に言っておこうと思ったんだ」
「な、なんだ。そう言うこと。わかった。私は構わないから」口の中がカラカラになっていた。ワインをがぶりと飲み込む。動揺しすぎよ、まったく。
それにしても夫婦で通るのか。まぁ日本だって少し前までは15歳ぐらいでも結婚してたわけだから、別に不思議はないんだけども。
食事を終えて部屋に帰ると、入ってすぐのドアの上部に取り付けてあるランプが点灯してびっくりした。火の揺らぎが一切ないなんとなく青白いような光。見上げるとヨアニスが手を掲げていた。
彼は平然と言った。「魔導具だよ」
私はまじまじとランプをみつめた。洒落てはいるけど、一見して蝋燭を入れて使う普通のランプに見える。しかし目を凝らせば火が灯るはずの中央部分には炎口の代わりに丸いガラスらしきものが嵌っているのが見てとれた。
私は感心して言った。「これが魔導具なの」
「ああ。もしかして見るの初めてか?」訝しげに訊くヨアニス。「ええ、たぶん。私が『来訪者』だって知ってるんでしょ?ずっとヘンレンスさんと砂漠にいたし、私ってこの世界のことあんまり知らないの」
だけど彼は曖昧に頷いただけだった。首の後ろの辺りをポリポリ掻いて誤魔化すところを見ると『来訪者』がなんなのかよくわかってなさそう。ビターナはどう説明したんだろう。
「ああ、そうだったな。一般的に普及してるもんじゃないが、裕福な家には必ずあるもんなんだ。大抵は魔力で動かすから使えないやつも多いけどさ。あとな、魔導具ってのはものすごく高価なんだよ。頼むから壊すなよ」ヨアニスは心配そうに私をみた。
「私そんなに乱暴じゃないわ」
「いや、しょっちゅうつまづいてるみたいだから。まぁいいや。バスルームは使えるよな?」
「え?たぶん」
心配そうな視線に見送られてバスルームに入った。
シャワーがついてるものと思っていたのに、小さなタイル張りの部屋には金属(たぶん鋳鉄製)のバスタブがデンと置かれているだけだった。シンクさえない。脇の小物机に衣類を置けそうな大きなカゴがあって、中に大判のタオルが入っているだけ。タオルといってもふわふわなあれじゃなくて、ただのリネン素材の布。
バスタブを覗き込むと縁に水栓と思われるホースのついた金属の塊が外付けされていた。中央に以前ヨアニスに見せてもらった『魔石』に似た石が嵌め込まれている。
なるほど、ここに手をかざすのね。部屋へ案内してくれた女の子もそんなようなこと言ってた気がする。
しかし温度調節ができそうなレバーとかつまみはない。首を傾げつつ翳してみると、確かになんとなく体の中のエネルギーが吸われたような、ちょっと不快な感覚があった。同時に大量の水が吹き出す。ちょっと激しすぎない?滝のように迸ってる。これでいいのかな?それにしても冷たいんですけど!
慌ててどこかにあるはずの調節機能を探したけど、この機械、いや魔導具はつるんとした表面が鈍く光っているだけでやっぱりそれらしきものが見当たらない。そうしている間もバスタブの水はどんどん排水口から流れていくし、何かを間違えているのは確実だった。
とにかく水の出を止めなきゃと手をかざしても水流はさらに激しさを増すばかり。思わず「もうやだ!」と叫んだ。
このままじゃ溢れちゃう。降参してヨアニスを呼びに行った。
出自からいっても裕福層しか持ってないという魔導具に詳しいとは思えないんだけど、何せ彼は見た目に反して50歳を超えている。お金持ちに雇われることもあるみたいだし、こういう宿にも泊まる機会があるんだろうと思う。
彼はベッドに横になって目を閉じていたけれど、私が部屋に戻るとこうなるってわかってたみたいに片目を開けてニヤリと笑った。
説明をちゃんと聞いてなかった私が悪いんだけど、何も笑うことないんじゃない?
「もうだめ。水しか出ないし、止まらないの!意地悪しないで教えてちょうだい」
ヨアニスは起き上がりながらやれやれと首を振った。「意地悪なんかしないよ。魔導具は使い慣れないとコントロールが難しいんだ」
ヨアニスは私を連れてバスルームに入るとどう見ても暴走している蛇口の魔導具を唖然と見つめた。「おいおい、何したんだよ」と呟く。
「何もしてないわ。ただ手をかざしただけ。その石のところでいいんでしょ?」
「ああ、まぁな。魔力を吸いすぎたのかなぁ」彼は首を捻りながら私と同じように蛇口に手をかざした。すると水はぴたりと止まった。なんかずるい。
彼はバスタオルが置いてあるカゴからコルク栓を取り出して私に見せた。
「排水の穴が空いてるバスタブはこいつで栓をするんだよ」
「なんだ、そんなのあったなんて知らなかったわ。実を言うとバスタブがあるのも知らなかった。こっちにきてからタライに水を汲んで使ってたから」
彼は肩をすくめた。「まぁな。そっちが一般的だよ」そして訝しげに眉を顰める。「……石鹸は使ったことあるよな?」
「当たり前でしょ!」
「ならいいんだけど」彼はカゴの中から木のケースを取り出した。蓋を開けると石鹸と小さなナイフが入っていた。「こいつを削って湯に溶かすんだ」
「知ってるってば。バスタブのアレをお湯にするにはどうすればいいの?」
「口では説明しづらいな。見てろ」
いつの間にか溜まっていた水がすべて流れてほとんど空になっていたバスタブにコルクを詰めたヨアニスは、先ほどと同じように手をかざした。すると微かに湯気がたちのぼるお湯がそれほど激しくない水量で流れ出した。
「ええ?ねぇ、何したの?」
「魔力を流しただけだよ。ただし自身の魔力をある程度コントロールする必要がある。だから使用者は限られるんだ。こういう宿を使うような裕福層は大抵子供の時にその辺の訓練をしてるもんなんだよ。ユリはヘンレンスから教わってなかったみたいだけど」
「瞑想の仕方は習った」
「そうか。魔力が多すぎるのが問題なんだな。わかった。今後魔導具を使う機会があったら俺がやるから、ユリは触らないでくれ。壊れると弁償できないからさ」
私はがっかりして肩を落とした。「……わかったわ」
彼は軽く笑って私の頬に手を伸ばした。指先が微かに触れる。「そのために学校に行くんだろ」
「う、うん」
ヨアニスは半分ほどバスタブに湯がたまったのを見て魔導具に手をかざした。そしてもう一度私に微笑みかけてからバスルームから出ていった。
頬に残った淡い熱が私の中の何かに引火してたちまち全身に広がった。彼はさっき私との関係を『夫婦』と説明したと言ってた。
ばか、何考えてんのよ。いい加減にしなさいってば。
首を振って手早く服を脱ぎ、バスタブに体を沈める。ああ、信じられないほど気持ちいい。
湯船に浸かるなんて何年ぶりだろう。どちらかと言えばシャワー派の私だけど、入らないのと入れないのとではまったく違う。この世界に来てからの垢を全て落とし切るつもりで入念に体を擦った。
お金って素晴らしい。便利な導具に美味しいお肉。この世界でも金さえあればこんな生活ができるんだ。人生に希望が見えた。
ビターナは魔術師は高級取りだっていってたし、将来はうんと稼いで楽をしよう。
たっぷり1時間かけてバスルームでくつろいでいたらくたくたになってしまった。
心地よい疲労を感じながら部屋へ戻るとヨアニスはもう寝ていた。微かな寝息が聞こえる。私の側のサイドテーブルにだけ光量を抑えたテーブルランプが点灯しているせいで、せっかくの寝顔がよく見えない。誘惑に駆られたけれど、近くに行って覗き込むのも失礼だし、チラ見するだけで我慢した。
あれほど意識していたはずなのに、ちょっとだけ横になろうと思ったらそのまま爆睡してしまった。
この世界にきてから初めてかもしれない、安全な環境でまともなベッドを一人で使える至福の中、夢も見ないほど深い眠りに落ちていった。