ディストピアの花嫁たち
「あいたっ」
製造番号RA0076789は小さな悲鳴を上げた。針を刺してしまった指さきから、ぷくっと真っ赤なビーズのように血が盛り上がる。
「89、大丈夫?」
隣に座る88がちらりと彼女を見て、心配気に眉根を寄せた。
「ああぁ…布に血が染みちゃったぁ」
しゅんとして刺繍布を見つめる89に向かって、88は微笑んだ。
「じゃ、私のととりかえましょう。ほら」
彼女はさっと自分の刺繍布と89の刺繍布を取り換えた。
「で、でも私のは血が…」
そう言った時、教室の前から声が飛んできた。
「そこ!88と89!私語はやめて手元に集中なさい。残り10分よ」
家政担当のシスター・ベルは規則に厳しい。89は首をすくめた。88は聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「刺繍で隠すから大丈夫よ」
そういって微笑む88の目は、すでに手元の布に落とされている。そつない指さばきで、絵を描くように鮮やかに刺繍が縫い込まれていく。黄緑のグラデーションのつる草に、真っ赤な薔薇の図案。88はなんでも器用にこなす。非の打ちどころない、この花嫁養成所の生徒の鑑。
それを見て、89は慌てて自分の作業にかかった。88の同郷の「妹分」なのに、自分の出来は悪い。残り時間になんとか仕上げて及第点をもらわないと、また居残りだ。
「ふぅぅ…なんとか提出できた…ありがとう」
教室を出て、89と88はエレベーターに乗って食堂へ向かった。
「いいのよ」
彼女は眦を下げて微笑む。いつも真面目な88が自分だけに向ける、この甘やかすような笑顔が89はとても好きだった。
「えへへ、ヨル、大好き!」
私はぎゅっと彼女の腕にしがみついた。昔はよくこうやって名前を呼んで、抱き着いたり手をつないだりした。けど彼女は89の腕をそっと押し返した。
「見つかったら怒られちゃうわよ」
「エレベーターの中だからいいでしょ。ぎゅってしてよ」
彼女は少し困ったように微笑んだ。その表情から「仕方ないな」と思っているのがわかる。彼女の腕が、そっと私を抱きしめて、耳元でささやいた。
「…アンジェ、わかってる?外で名前を呼んじゃダメよ」
私は唇を尖らせた。
「わかってるよう。そんなうっかりしないって」
「どうかしらね」
「…でもなんで、名前で呼んだら怒られちゃうのかな」
「私たちは卒業して、『旦那様』に名前をつけてもらうのだから、それまでは名前があっちゃいけないのよ。知ってるでしょ」
「知ってるけど…仮の呼び名ってことじゃだめなのかな」
「それが製造番号なのよ」
「そんなの味気ない」
「そうね…だから私たち、名前をつけあったじゃない。二人だけの秘密よ」
89は手の甲に刻印されてる番号を見た。自分の手にはRA0076789。88の手にはRA0076788。自分たちブライドレディ(人工花嫁)の個体識別番号兼、製造番号だ。レーザーによって生まれる前に刻まれたそれは、卒業と同時に消される予定だ。
88と89は、同じプラントの隣り合った人工子宮から生み出された。そしてこの花嫁養成学院に送られ、ずっと一緒に成長をしてきた。
卒業と同時に、私たちは学院の決めた旦那様の元へ向かう。そこで私たちは旦那様の生涯の伴侶となり、良き妻良き母としての人生をスタートさせるのだ。もうすぐ私たちの嫁ぐ日がやってくる。
「…私、ちゃんと花嫁としてやっていけるかな」
自信なくそうつぶやく89に、また88は微笑んだ。
「大丈夫よ、アンジェには私なんかよりもいい所がたくさんあるもの」
とたんに89の不安は消え、わくわくとした瞳で彼女を見上げた。
「本当?どんなところっ?」
「アンジェは優しいわ。きっと愛情深い良いお母さんになると思う」
89は再び口を尖らせた。そんなの何も褒めることがない人用の誉め言葉じゃないか…。
「優しいって…うわぁっ」
エレベーターががくんと方向転換して、右方向へ向かった。この学院は、輪の形をした中規模宇宙コロニーで、学校から寮へ移動する際には輪の内側を走るエレベーターに乗らねばならない。
「大丈夫?」
揺れによろめいた89を、さっと88が支えた。89は彼女を見上げた。自分より少し高い背、漆黒のまっすぐな髪は、無機質なライトに照らされて美しい艶を帯びている。夜空のような色だからヨル。私がつけた呼び名。生まれた時から、いつも私の心配をして、面倒を見てくれるヨル。
「ヨルの方が優しいよ」
私がそういうと、彼女は少し肩をすくめた。そしてエレベーターのドアが開いた。
「行きましょう、89」
**
放課後、シスター・ベルに呼び出された88は寮を出て教室へ向かった。同室のアンジェがちょうど留守にしている時間だった。
シスターはいつもの椅子に座って88の刺繍を眺めていた。後ろで編み上げられた白銀の髪に、鋭いブルーの瞳。88はこのシスターが苦手だった。彼女が厳しいからではない。時折その目に浮かぶ、探るような視線が怖かった。何もかも見透かされているようで。
「88、これは途中で89ものと交換しましたね」
人工花嫁が嘘をつくのは、絶対にしてはならないこと。幼少時からそれは叩き込まれている。88は素直に不正を認めて頭を下げた。
「…はい。申し訳ありませんでした」
「89のミスを庇うために?」
「はい」
素直に認めた88に、ふうとシスターはため息をついた。
「そんな事をしていては、89のためにもなりませんよ。彼女も花嫁としてあなたなしでやっていかなければならないのですから」
「…おっしゃる通りです」
そうだ。自分たちはあと少しで離れ離れになる。旦那様の元へ行けば、一切の心身の自由はない。嫁ぎ先もお互い知らされない。花嫁同士で連絡を取る事もできない。つまり、永遠の別れだ。
しかし、それが当たり前なのだ。自分たちは妻となり母となるために存在している。その他の事に気持ちを割く事などあってはならない。シスターに叱責されても仕方がない。88は罰を覚悟した。
だが彼女は、じっとこちらを上目遣いに見上げて、いつも厳しく真一文字に結んでいるその唇をニヤリとゆがめた。いつもの彼女とは別人のような表情に、88は思わず後ずさった。
ところが彼女は、それ以上に驚く一言をその唇から放った。
「『花嫁として』ですって。バカバカしい」
彼女は椅子から立ち上がって、88の前に立った。
「考えた事はない?何であなたがた『花嫁』が人工子宮から産まれて、『旦那様』たちがあなたがたの腹から産まれるのか」
「え…?」
「本当なら、花嫁も旦那様も…いいえ、男も女も、どちらも女の腹から産まれるものなのよ」
88は耳を疑った。
「それは…それは、間違っています。私たちと『旦那様』は違う生き物なのですから…!」
「いいえ。それはこの国でだけ。たとえ人工子宮から産まれようと、あなたがたも旦那様と同じ人間。だって心があるでしょう?嬉しかったり、悲しかったりするでしょう。それが人間なのよ」
88は床を見て考えを巡らせた。いつもの市松模様が、ぐるぐるうねって見える。私も、旦那様たちも同じ人間?どういうこと?頭が混乱した。
「私たちも人間…?それは、つまり」
「賢いあなたなら、今の情報を得て思わない?何かがおかしいって」
おかしい。たしかにそうだ。だけどそれを口に出すことができなかった。長年叩き込まれた価値観を覆すような言葉だったからだ。88は何も言わずうつむいた。
「信じる、信じないはあなたに任せるわ。でも、あなたが89に寄せる気持ちは、決してまちがったものじゃないわ」
その言葉に、88ははっとした後、目をそらした。89に罰が及びでもしたら大変だ。88は言い訳をした。
「89は、良き友人です。それ以上の存在ではありません」
「ほらほら…ふふ、そうやって苦しい顔で嘘をつくのが何よりの証拠。女だって嘘をついていいのよ。時と場合によってはね。でも今は正直に認めなさい。あなたは未来の旦那様ではなくて…」
88ははじかれたように顔を上げた。シスターは誘惑するように88の肩を抱いて、耳元で言った。
「89のことが、好きなのでしょう」
決して大きな声ではないのに、その言葉ははっきりと88の耳に響いた。
「な、なにを…おっしゃって」
「習ったでしょう、子どもの作り方を。…あなたはそれを、見も知らぬ『旦那様』としたいと思った?」
「と…当然です、私たちは、子を成すために…」
「嘘よ…」
彼女は吐息とともにそう呟くと、88の首筋に唇を寄せた。
「っ…!」
熱い感触に、88はびくっと体を縮こまらせた。
「こういう事を、好きな子としたい…そう思うのは、普通の事よ」
そういって彼女は、両手で88の身体を抱きしめた。彼女の腕は優しく、花のような甘い匂いがした。その手が、ゆっくりと動き出す。
「綺麗な体だわ。ずっと…あなたの事を見ていたのよ。ねぇ、私に身をまかせて。一緒に楽しい事をしましょう」
彼女の指が、88の制服のスカートのすそに触れた。危険を感じた88は、逃れようととっさに身をよじった。
「逃げちゃダメ。命令よ」
その言葉に、88はぴたっと動きを止めた。旦那様、および目上のシスターや教官からの命令は絶対。生まれた時からそう躾けられてきたのだ。簡単に破ることなどできない。
「ふふっ、可哀想に。命令されれば逆らえないものね。あなたはずっと優等生で来ているし。…本当はいいのよ。嫌なものは嫌って言って」
シスターは88の頬を手ではさんで目と目を合わせた。精神的優位が、その目に現われていた。彼女の顔がゆっくりと近づいてくる。
「でも…そうね、このまま命令にしたがって、じっとしていなさい。89の代わりと思って。うんと甘やかしてあげるわ…」
彼女の唇が、88の唇に触れそうになった。88はその瞬間シスターの腕を振りほどいて、走り出した。
**
「逃げられちゃった…残念」
シスターは肩をすくめて、再び机に戻った。88は思った通り、表向きは従順だが、中身はそうではないようだ。
「期待できるわね」
シスターは教師用の端末を取り出して、パスワードを入力した。その先には、生徒たちには明かされない情報ファイルがある。いくつかの生徒のファイルが青く点滅していた。授業のあいだに更新があったようだ。
(89…きまったのかしら、彼女の嫁ぎ先)
彼女の名簿をタップして、卒業後の欄を見ると、見知らぬ男の名前とその職業が表示されていた。
(地方コロニーの作業員の男ね…ふぅん)
劣等生の彼女ならば、そんなものだろう。きっとこのまま嫁いで、心から彼に愛し愛され、生涯幸せに妻として暮らしていくのだろう。
この国では、女はすべて『花嫁』だ。生産から養育まで徹底して政府の管理下にあり、DNAからこの国に都合の良いように設計されている。彼女らは全員従順で健康な、男児のみを産む体で産まれてくる。花嫁養成学院ではいずれ嫁ぐただひとりの男性を生涯愛し支えるよう、洗脳にも近い教育が施されている。嫁いだ後は平均して5,6人の男児を産み、生涯出産と育児にいそしみ家庭を守る。
『旦那様』たちはその間安心して仕事に精を出す。星々の間を飛び回り財を成し、管理し、それを息子たちに受け継いでいく。
そして息子たちは年頃になれば完璧な『花嫁』を迎え、また同じことを繰り返す。愛に満ちた素晴らしい、お国繁栄のためのシステムだ。
(…まぁ、私はそんなの御免だけど)
シスターは89の一つ上、88のファイルをタップした。この学年一番の優秀な『花嫁候補』である彼女の嫁ぎ先は、ずっと前から決まっていた。
(…ウィル・アルスト。アルスト財閥の総帥の…4番目の後妻になるというわけね、88は)
彼はこの国になくてはならない存在だ。彼の財力のおかげで、この国は急成長した。この花嫁システムの根幹を担うDNA操作や人工子宮を開発、提供したのも彼の傘下の企業だ。彼自身、その技術を活用して100を超えても健康に生き続け、何度も花嫁をもらっている。その計り知れない財と、技術を狙うものは国外に多い。そう、私の雇い主のように。
シスターは端末の電源を切った。ここにいつまでも潜入していられるわけではない。
(早いとこあの88をたらしこんで、私の手ごまにしなくちゃね)
今日は失敗してしまったが、次はかならず。自分の手管に掛かれば、初心な娘などひとたまりもないだろう。シスターはつい癖でぺろりと唇をなめた。
**
清掃当番から帰ってくると、88はいなかった。89は余分な糸と布を取り出し、刺繍を始めた。
(もうすぐ卒業だもの…これくらい、できるようにならなくっちゃ)
ハウスキーピングに料理全般、そして育児の知識。ここでみっちり教え込まれたそれらを、生かす時が来るのだ。卒業の事を思うと、89はわくわくした。
(どんな人なんだろう、私の旦那様…!)
会うときまでそれはわからない。でもいい人に決まっている。自分が一生をかけて愛する旦那様なのだから。
彼のために住居を綺麗に保ち、美味しい食事を用意する。きっと喜んでくれるはずだ。そしてそれは自分の喜びでもある。だって旦那様の役に立って、喜んでもらうために、自分たちは存在しているのだから。そして『旦那様』はもっと素敵なものを花嫁にもたらしてくれる。可愛い赤ん坊だ。二人の愛の結晶。丸くて柔らかくて温かい、ぷくぷくした天使。くりかえし映像資料でみた赤ん坊を思い出しながら、89は思わず微笑んだ。
(ああ、楽しみだなぁ…早く私の赤ちゃんを、抱っこしてみたいなぁ)
花嫁の内側には愛情が詰まっている。それを旦那様にあげるために、卒業と同時に旅立つ。花嫁たちはそう教えられていた。だから刺繍も、もっと完璧にできるようにならなくては。未来の旦那様のために。89は黙々を手を動かした。その時、ドアがバタンと開いて88が帰ってきた。
「…88?どうしたの!」
寮の部屋に戻ってきた彼女を見て、89は布を置いて立ち上がった。彼女の髪が、まるで走ってきたかのように乱れている。バタンと扉を閉めるその背中には、いつもの冷静沈着さがない。
「…なんでもないのよ」
88は笑って言った。だけどその笑顔はこわばっていた。
「嘘。何かあったんでしょ?」
89は彼女に詰め寄った。
「もしかして…刺繍を交換したのが、ばれちゃった?」
彼女はあいまいに笑ったが、それは肯定と同じだった。89はしゅんとうつむいた。
「…ごめんなさい。いつも迷惑かけてばかりで。私…もっとちゃんとしなくちゃ」
「いいのよ。迷惑なんかじゃないわ」
88はそう言ったが、89は首を振った。
「悪いのは不器用な私だって、シスターに謝ってくる」
そういって外へ行こうとした89の手を、88がつかんだ。彼女らしくない、慌てた動作だった。
「…ダメよ」
「え…なんで?」
彼女は真剣な顔で首を振った。
「シスターは…もう教室を出て行ったわ。今日行っても無駄足よ」
「そう…?」
何かあったんだ。彼女は何かを隠している。89はそう気が付いた。けれどあんまりにも88が真剣なので、引き下がらざるをえなかった。
その日から、88は前とは様子が変わってしまった。劇的に変わったわけではない。ただ時折、唇をかみしめてどこかここではない場所を見ている。その目に浮かぶ光は、焦りと苦しみがないまぜになっているようだった。どうしても解けない問題を解いている時のような。あまりにも辛そうなので、ある日の夜89はとうとう見かねて彼女に言った。
「ねぇヨル…私じゃ頼りにならないかもしれないけれど…何かあったら、言って。力になりたいの」
88は目を見開いて私を見た。89はその頬に手を添えた。白いお皿のように、いつも少し冷えていて綺麗なその頬。
「ヨルが何か悩んでいるの、知ってるんだからね。いつもヨルはそうよ。気持ちを口に出すのが苦手なのよね。けれど私にはわかっちゃうのよ、ずっとそばにいたから」
「そ…んなこと」
彼女は圧されたように一歩下がった。まだ隠そうとしている。そう思った89は前のようにぎゅっと彼女を抱きしめた。
「…!」
88の身体がぎゅっとこわばったのがわかった。けれど89は安心させるように彼女の背中を撫でた。
「ほら、力抜いて。昔はよく、こうしていたじゃない。話してよ。何を悩んでいるの…?」
すると彼女は、聞き取れないくらい小さい声で言った。
「…笑わない?」
「笑わないわ」
「…卒業して、あなたと離れ離れになるのが怖いのよ」
予想外の答えに、89は驚いた。彼女がそんな事を悩んでいたなんて?
当たり前すぎて考えた事もなかったが、卒業すれば、もう88とは会う事はないのだ。そのことに初めて気が付いた私は、腕に力を込めた。
「…私たち、もう二度と会えないのかしら」
「卒業すればね」
「そんなの寂しい。なんで会っちゃダメなのかしら」
「花嫁の仕事には、必要ないからよ」
「私…花嫁になっても、ヨルに会いたいよ」
89がそういうと、88は沈黙した後、冷静に言った。
「…ダメよ、そんな事言っちゃ」
その声はすっかりいつもの彼女だった。
「ごめんなさい。私どうかしてたわ。今のは忘れて」
そういって彼女は89に背を向けた。その表情はよくわからなかった。
**
こんな事、言うべきじゃなかった。だけどいったん口から出た言葉は元には戻らない。こぼれたミルクと一緒だ。88はその事を、数日たってもぐずぐずと後悔していた。
(ダメよ、私も彼女も卒業して、花嫁として幸せになる。それは決まっている事)
88は内心、シスターを恨んだ。彼女があんなことを私に言わなければ、悩む事もなかったのに。
『89が、好きなのでしょう』
違う。そんな事ない。たしかに自分と89は仲がいい。けれどそれは、単にずっと一緒に居たからだ。シスターが言うような恋情を抱いているわけではない。彼女と離れる事に違和感を感じるのは、今まで離れた事がなかったから、それだけだ。
(きっと、離れればお互いの事なんて忘れる…)
自分だって、自分自身の仕事を全うしなければならない。旦那様に仕え、子を成すという仕事を。その仕事は自分にもきっと幸せを与えてくれるはずだ。だって花嫁はそのようにできているのだから。しかし、88の頭の一角で小さな声が響いた。
(本当に、そうかしら?)
シスターが素肌をなぞる感触を88は思い出した。じれったいような熱い指先に、優しい抱擁…あの柔らかい体は、アンジェの体と良く似ていた。けれど89はあんな事は絶対にしない。彼女が自分を抱きしめるのは、たとえばぬいぐるみにするように、親愛の情を示すためだ。
だけど自分はいつしか、その行為にとまどうようになって、避けるようになった。嫌だったからではない。89に抱きしめられると、ただただ動揺してしまうのだ。冷静さを取り戻すのに、しばらくかかる。だからしたくなかった。
好きな子とする行為―…。シスターはそう言った。しかし88は首を振った。そんな事、求めているわけがない。だって自分たちはいずれ旦那様のものになるのだから。
(妙な考えを、起こすべきじゃない。忘れよう、シスターの言ったことは…)
88は密かにそう誓った。
その翌日、呼び出しの通信を受けた88は、長々とエレベータにのって輪の中心部分へと向かっていた。この中心部、通称シャフトには、宇宙船の発着ゲートや学院理事たちの居住区など、重要な施設があつまっていた。
「失礼いたします」
礼をして理事室へ入った88を見て、壮年の男性はデスクの向こうから言った。
「今すぐ出発しなさい、88。お前は今日、卒業だ」
88は一瞬面食らったが、うなずいた。
「はい、わかりました」
無表情の88に、彼は目を細めて言った。
「嬉しくないのか?卒業して、旦那様のもとへ行けるというのに」
本人に会うまで、どこの誰なのかは花嫁たちには知らされない。
今日でアンジェと離れ離れだ。だけど88はそんな気持ちに蓋をして微笑んだ。
「もちろん、嬉しいです。」
「そうか」
彼は実験動物でもみるように、じっと88を見ていた。まるでそれが本心でない事に気が付いているようだった。怖くなった88は一礼して部屋を出た。簡単な健康チェックにクリアすれば、もう舟に乗って出発だ。医務室で医師は88の手首に黒い装置を付けて座らせた。
「ではこれが最終テストだ。君の名前は?」
「RA0076788です、先生」
「君の仕事は」
「旦那様のお役に立ち、子どもを産み育てる事です」
「では…君の望みは」
「旦那様と、子どもを愛する事です」
88はよどみなく言い切った。頭に沁み込んだそれらの語句は、目を閉じていても出てくる。
だが医師は、ちらりと装置を見て顔をしかめた。
「君が愛するのは誰だ?」
「旦那様です」
考える前に88は言った。しかし医師は重々しく言った。
「…君は、嘘をついているね」
88は椅子の上で固まった。
「そんな…そんな事は、ありません」
医師はため息をついた。
「嘘をつくなど、花嫁失格だ…残念だよ。だが時々こういう子がいるものだ。」
「嘘では、ありません…!私はきっと、花嫁としてお役に…」
「役に立つだけでは、花嫁は務まらない。たしかに君は優秀だろう。けれど旦那様たちは、それを求めているわけではない。そのためにこの学院があるというのに」
窮地に立たされているというのに、88は好奇心が抑えられなかった。
「そのために?どういうことですか」
医師の目が不快気に細められた。
「そう、その賢さだ。それは花嫁には不必要なものだよ…とはいえ、早く総帥に君を届けなければならない。彼は君の到着を楽しみにしているのだからね」
医師は流れるような動作で88の腕に注射器の針を刺した後、手元の端末に向かって言った。
「博士、今すぐ準備を。RA0076788を再洗脳する」
その物々しい言葉に、88の背中は冷たくなった。だが数秒もしないうちに意識は混濁し、瞼が閉じそうになる。扉から職員が大きなヘルメットのようなものを持って入ってくるのがみえた。しかし、目を開けていられたのはそこまでだった。
**
まずい、ミスった。エレベーターでシャフトへ向かいながら、シスターは乱れた髪を撫でつけた。まさか今日、88が嫁ぐとは。ひょっとしたら自分の存在を嗅ぎつかれたのかもしれない。
(しかも再洗脳ですって!?)
おおかた、最後のポリグラフ検査にでもひっかかったのだろう。あんなものも騙せないとは、88番も案外どんくさい。
(学年一番に優秀なら、嘘発見器くらいだましてみせなさいよ…!)
だが、それが難しい事だとは自分が一番わかっていた。嘘は厳禁。花嫁は生まれながらにそう洗脳されているのだから。
(このままじゃ、何もかも忘れさせられちゃうわよ)
そうなれば、彼女を手ごまにしたいシスターにとっても都合が悪い。何とか再洗脳を阻止したかった。しかし、すでに88は博士に引き渡された後だった。間に合わなかったのだ。シスターは苛立ちを押し込めながら医務室に入った。ちょうど88番は装置を付けられて調整されている最中だった。脳に直接送り込まれる電気信号によって、彼女の今までの記憶は薄れて、花嫁心得が新たに上書きされているはずだ。ヘルメットに頭を覆われて、その体がだらりと弛緩している。機械音がなり、博士が無表情に彼女をチェックする。
「お前の名前は?」
同じように無機質な声で、彼女がこたえた。
「RA0076788です」
「お前の目的は」
「旦那様の、お役に立つことです」
「おまえは誰のものだ?」
「私は…旦那様のものです」
ヘルメットの信号が緑から黄色に変わる。職員達の間に緊張した空気が流れた。だがチェックは続く。
「では、お前の愛する人間は」
「旦那様、です」
ライトが、黄色から赤に変わった。職員がぼそりとつぶやいた。
「もう一段階、電気信号を強めよう」
「これ以上強めれば、知能に影響が出るのでは?総帥の元へ出荷できなくなってしまいます」
シスターは思わず口をはさんだ。彼女の頭がイカれて使い物にならなくなってしまったら困る。しかし職員は首を振った。
「総帥にふさわしい優秀なスペアは他にもある。これはランクを下げて出荷すればいいだけのことだ。」
博士はそこで顔を上げてシスターを見た。その目は不快気に細められている。
「お前はなぜここにいる。出ていけ、仕事の邪魔だ」
そう言って彼は88に向き直って、シスターに向かってしっしっと手を振った。ここでは男性に意見をするのは異常なことなのだ。
「かしこまりました、博士」
シスターは頭を下げてきびすをかえした。頭の中で次の行動を考えながら。
(もう88はダメだ。新しく総帥にあてがわれるのは誰かしら…ああ、面倒なことになったわ)
ドアの前で、シスターはちらりと振り返った。88は花嫁から「目覚め」かけていた、こちらにとって都合のいい生徒だったのに。最後の足掻きで、シスターはポケットの中の端末を起動させ、指先で操作した。これでこの場の電波は多少乱れるはずだ。88が格下げされるのは確定だろうが、少しでも保険は多い方がいい。念の為だ。
(可哀想にね88、あの娘への気持ちを覚えていられるかは、あなたの根性次第よ)
花嫁が愛するのは生涯ただ一人、国が決めた「旦那様」だけ。だから花嫁が自由に誰かを好きになる事は、国に対する重大な裏切りだ。自分を一途に愛し、子を成してくれるからこそ、『旦那様』は命がけで花嫁を養い守っていくことができるのだ。旦那様たちはせっせと外貨を稼ぎ、子孫は増える。終わる事のないサイクルで、この国はこれからも栄えていく予定だ。
製造された時点で、その花嫁の設定は遺伝子に組み込まれている。だがまれに、その生まれ持った枷から外れてしまう個体もいる。
シスターの口元に苦い笑みが浮かんだ。
(枷から外れるのは、なぜか優秀な個体が多いのよね。あなたや…わたしのように)
だがシスター・ベルは、生まれつき人を欺く才にたけていた。だから廃棄されずに花嫁としての生活を送り、計略により夫を亡き者にしたあとは、今の「ボス」に拾われ、花嫁ながら本心のままに行動できる人生を手に入れた。
(88は、私ほどは賢くはなかったということね)
けれど、純粋な思いを手放さない彼女の生きざまに、少しの羨望を抱いてしまうのも確かだった。もっと正確に言えば、88に89が居るという事に。
(私には…そんな存在は、いなかったわ)
この身の内の「自由になりたい」という渇望に従って、突き進んできた人生だった。だけどそれが満たされた後も、どこか空しい思いをシスターはかかえていた。今まで誰かを本心から求めた事などない。今となってはボスの求めにしがたい、命がけの仕事をこなしている時が一番の生きがいを感じられるのだった。だけどもしも、自分にも89のような存在がいれば。そう思うと、シスターの内側から怒りが沸き起こった。
(…無理よ。自由に愛する事を禁じられて、どうやって自分から人を好きになれるというの)
もしもを数えても仕方がない。シスターは端末を取り出した。ちょうど理事長補佐からの呼び出しがかかっている。
シスターはさっと脳内を切り替えて、彼の部屋に向かった。狙い通り、彼の要件は総帥の花嫁に関する事だった。彼は顔をしかめながら私に命じた。
「…という事で、88は廃棄することとなった。変わりにこの75を向かわせようと思うが、これは88に比べれば能力がだいぶ偏っている。特に家政面での不安が大きい。しかし総帥の花嫁に失敗は許されない。そこで最初のうち、君が75に一緒について補佐を行うこととしたい。すぐに出発の準備を」
88は、格下げではなく廃棄か。…再洗脳を凌駕するほど、彼女の思いが強かったという事だ。シスターは驚きながらも、それを顔に出さないようにして一礼した。
「かしこまりました。理事長補佐様」
この決定は、スパイとしては願ってもない展開だ。シスターは部屋に戻って準備を始めた。だが、手を動かしながらも、88の事が気にかかる。
(廃棄、か…)
旦那様を愛さない花嫁には生かしておく価値もない。88はまもなく、冷たい死骸となって、ごみ同然に捨てられる。私はトランクをバタンと乱暴に閉じた。
88のように闇に葬られた花嫁は、いったいどのくらいいたのだろう。今はこうして生きていられるが、ひとつ間違えば自分も確実にそうなっていたのだ。
(つくづく、胸糞が悪い)
しかし、自分の今の立場ではどうすることもできない。ただ黙ってスパイとして仕事をし、成果を上げるだけだ。それが最終的には、この国への復讐にもつながる…。
シスターはさっとカバンを持ち上げて自室を出た。75と共に総帥の元へ向かわなければならないのだ。余計な事をしている時間などない。今後の段取りを考えながらつかつかと廊下を歩いていると、生徒がじっとこちらを見ているのに気が付いた。89だった。シスターは無視して通り過ぎようとした。
「あ…あの!RA0076788は、ここを出ていったのでしょうか」
89が必死の顔でそうたずねた。シスターはいつものように厳しく言った。
「あなたには関係のないことです、自分の事に集中なさい」
すると89はきっと唇をかんだ。そしてぎゅっとしかめられたその目から、大粒の涙が落ちた。
「なぜ泣くのです。ここを旅立つことは、喜ばしい事なのですよ」
89は涙を拭きもせず、シスターをばっと見上げた。
「やっぱり、旦那様のもとに行ってしまったんですね」
放射線状に伸びる金色の睫毛の先で、涙の粒が重たげに震えている。彼女は本心から悲しんでいるようだった。むき出しの表情が痛々しい。それを見たシスターの脳内で、黒い悪魔がささやいた。
(89。あなたは私や88と違って、旦那様を愛する本当の『優等生』…だけど、真実を告げたらどうなるかしら?)
この子は、花嫁としての幸せと引き換えにしても、88を救おうとするのだろうか?それとも、彼女を見殺しにして旦那様の元へ旅立つのだろうか。シスターはさっとかがんで89の耳元でささやいた。
「いいえ。88はもうすぐ死ぬ。助けられるのはあなただけ」
「…っ?!」
困惑と驚きの混ざった表情で、89はシスターを見上げたがかまわず続けた。
「けれど助ければ、あなたは花嫁の資格をなくすわ。どうする?」
「…なにを、言って…?」
「88はね。旦那様よりもあなたを愛している事がばれて、廃棄場へ送られたのよ」
89が硬直した。シスターは元通り背筋をのばして、いつも通りの冷たい表情で告げた。
「彼女を生かすも殺すも、あなた次第。どちらを選んでも、かまわない」
立ち尽くす彼女を残して、シスターは廊下を歩きだした。誰にも気取られないよう、右手で端末を操作しながら。もう、ゲートに向かわなくてはならない。だけど『先輩』からのささやかなプレゼントとして、89には88を助け出す「手段」を与えてあげることにした。このくらいの内部操作は、自分には朝飯前だった。
…89は、どっちを選ぶだろうか?
(今までの自分を捨てるか、消えない後悔を背負って生き続けるか)
どちらにしても、幸せにはなれない。明るく無邪気な『花嫁』である彼女の心に、一生ものの傷を負わせる事となるだろう。つかつかと歩きながら、シスターは思わず唇に笑みを浮かべた。皆少しは苦しめばいいのだ。自分も、88も、苦しんできたのだから。
**
暗い空間で、88は目覚めた。饐えたような嫌な臭いがいする。ここは、どこだろう。体を起こすと、全身が軽く痺れたようになって88を襲った。息がうまく吸えない。空気が薄いのだ。
「っー…!」
痛みと共に、88は職員たちの言葉を思い出した。
『この個体は、もう花嫁ではない。廃棄だ』
頭をかき回されるようなあのヘルメットを外したあと、白衣の男がそう言ったのだ。その後の事は、よく覚えていない。だが…。
(私は、廃棄されたのか。ここは…つまり、ごみ捨て場?)
湾曲した広い床には、ごみ袋や廃棄物が散在していた。この場所はおそらく、シャフトの最下層にある、ダストシュートの終着地だ。決まった時間に床のハッチが全開になり、ごみを宇宙へと捨てる。
88は上手く動かない体でまわりを見回した。脱出はできそうもない。もし出来たところで、花嫁としての資格を失った自分が、この国で生きていけるはずもない。
(私、死ぬのか)
そう思うと、ぞっとして手足の先が冷たくなった。こんな事になるとは、予想していなかった。
(嘘をつくのは、重大な罪…)
それは繰り返し言われてきたことだった。そのはずだったのに、自分は最後の問答で嘘をつき、それを見破られてここにいる。
(わたしは嘘を口にした…私が愛しているのは、顔も知らない旦那様なんかじゃ、ない)
RA0076788。アンジェ。彼女だ。もう自分を偽っても仕方がない。88は暗闇のなか、自分の気持ちを素直に認めた。
いつからだろう。けれどたぶん、最初からだ。生まれ出たその時から、二人は隣り合ったベッドに寝かされていた。アンジェはよく泣いて笑う子だった。自分と違って手のかかる子。けれどそういう子ほど、人の心をひきつけるものだ。88は旦那様よりなにより一番最初に、彼女にひきつけられたのだ。大きな口をあけて笑う彼女の声は光のように温かかった。大粒の涙は真珠のように綺麗だった。嬉しければ笑って抱きつき、悲しければ怒って泣く。彼女の中には、産まれながらに感情と愛情が詰まっていた。一番近くにいた自分に惜しみなく、アンジェはそれをくれた。彼女のそばにいてそれらを感じる事ができて幸せだった。
(彼女はきっと、幸せな花嫁になる…)
きっと88にそうしたように、アンジェは旦那様を愛するのだろう。だから彼女の旦那様は幸せだ。自分のように。彼女は関わる人間をすべて幸せにする天使なのだから。
(私は…アンジェとはちがう)
アンジェ以外に愛情を感じることができない。この体の内側に、無尽蔵の愛情などない。赤ん坊を見ても、可愛いとも思えない。気づいたときにはそうだった。自分はきっと花嫁として欠陥品なのだ。けれど、望まれる行動をなぞる事はできる。本当に愛情を抱くことはできなくても、愛情を持っているようにふるまう事はできるし、役に立つこともできるはずだ。そう思っていた。だが、それは許されない事だったようだ。
本心から旦那様を愛せない花嫁は、きっと花嫁にはなれないのだ。旦那様の立場に立ってみれば、こんな自分よりもアンジェの方が良いに決まっている。自分は誰にも嫁がないまま、この気持ちを抱いて一人死ぬ。
88は一人微笑んだ。それはむしろ、幸せなことかもしれない。もう、旦那様に嫁ぐ必要もない。嘘をつかなくてもいい。彼女を好きだという事を、もう誰にも邪魔されない。
アンジェのあの腕に抱かれる感触を、頭の中で反芻する。抱きしめられると動揺してしまうのは、自分の身体がかっと熱くなってしまうからだった。アンジェの体を抱きしめ返して、その素肌を指でたどりたいという気持ちを抑えきれないからだった。
(そうだ…シスターの言う通り)
旦那様とではない。私は彼女と抱き合いたかった。彼女を深く知りたかった。いつも無邪気な天使を、自分だけのものにしたかった。だけど、花嫁になることを夢見る彼女に、そんな事をするわけにはいかない。そんな気持ちを抱くことすら、罪だ。
(だから…これでいいんだ)
アンジェを愛してしまった自分は、この国では生きていけない。使命を全うできないことは心苦しいが、今更アンジェへの気持ちを消すことなどできないのだ。運よく花嫁となれたとしても、偽りの中で生きていくより今この生を終わりにするほうが、きっと楽だ。
88は頭上のランプ信号を見た。あとしばらくすればハッチが開くだろう。防護服も酸素もなしに宇宙空間に放り出されれば、すぐに死ぬ。苦しいだろうか?だが、きっとあっという間だ。88は目を閉じた。
(…アンジェに出会えてよかった。この気持ちだけは、後悔がない)
彼女への想いは、熱く輝く太陽のようだった。心にそれを抱きしめていれば、暗い宇宙で一人死ぬ恐怖もうすれるような気がした。
彼女がこれからも幸せに生きていけますように。まだ息ができるうちに、88はそっとつぶやいた。
**
床と天井がひっくりかえるような衝撃だった。どのくらい、廊下に立ち尽くしていたかわからない。はっと我にかえって周りを見回すと、あたりは先ほどとは何も変わっていなくて、89は驚いた。
…変わってしまったのは、89の心の中のほうだった。
(…ヨルが、廃棄処分?)
噂はきいたことがあった。あまりに花嫁として出来が悪いと、廃棄処分されることもあると。しかしシスターや職員たちはそんな事を言ったことなどなかったし、あくまで、生徒間でささやかれる無責任な嘘でしかないと思っていた。なのに。
(私を好きになったせいで、ヨルが)
さきほど、シスターはそう言っていた。そんなこと、あっていいはずがない。完璧なヨル。この学年で一番の優等生の88が、自分のせいで廃棄なんて。
(どうしよう…そんなこと、嫌!)
その時、89は自分のポケットの端末が光っていることに気が付いた。逸る気持ちを抑えながら通信欄を開くと、メッセージが来ていた。
『ゲート67/キャッスル・ユッセ/コード776341』
89は首をひねった。意味の分からない単語が並んでいる。間違いか、悪戯だろうか。だが一つだけ意味のわかる言葉があった。
(ゲートって、宇宙船の発着ゲート…のこと?)
そう気が付いた瞬間、点と点をつなぐように、89の中で物事が繋がった。89はきっと顔を上げて、一心に廊下を走りはじめた。
(これは…宇宙船の名前と、そのキー・コード…!たぶん、シスターが送ったんだ)
これがあればヨルを助けられるかもしれない。89はその一念だけを胸に、身一つでシャフトへ向かった。
発着場はシャフトの一番上の部分にある。だだっ広い空間に、オレンジ色のゲートが延々と並んでいた。ちょうど誰かが出発するようで、手前のゲートの大きな宇宙船のまわりに、職員たちの人だかりがあった。ここがゲート1番。早く67までたどり着かなければ。皆大きな宇宙船に気を取られているようで、誰も89に気が付かない。それをいいことに、89は全速力で駆けた。走れば走るほど、立ち並ぶゲートのサイズは小さくなっていった。
(67、67…!ここだッ)
停まっていたのは、雪だるまのような形の、ごく小さな船だった。よくある緊急脱出ギグの一種だろう。キーコードさえあれば、誰でも簡単に操縦ができる。89は船体のドアに飛びつくようにしてコードを入力し、中に入って叫んだ。
「シャフト最下層、廃棄所の開閉口につけてッ!」
音声入力が認められ、宇宙船は音もなく発進した。備え付けの宇宙服を着こんでいる間に、船は車輪の中心の真下に到着し、モニターに開閉口が映っていた。89がカパッとヘルメットをかぶると同時に、そのハッチが開いた。あそこからヨルが捨てられるはずだ。89はモニターに向かって無我夢中で叫んだ。
「生体反応に向けてバブルを撃て!それから救出する!」
モニターにぱっぱっと赤い照準マークが浮かんでは消えて、やがて一点が派手に点滅した。89はモニターにかじりついてその部分を見た。撃たれた半透明のバブルの中に、黒髪の少女が力なく浮かんでいた。まるでシャボン玉の中に閉じ込められた妖精のように。
「ヨル!今行くからね…!」
聞こえるはずもないが、89はそう叫んでエアロックから宇宙へ飛び出した。虚空を浮かぶ半透明の球体へ向かって、89は夢中で両手を伸ばした。粘性のある膜が、べたりと手袋越しに張り付く。そのまま表面をぎゅっと握って、89は宇宙船へと戻った。宇宙空間では、悲しいほどその感触は軽かった。この中にヨルが、私の大事なヨルが入っているのに。無事だろうか。そう思うと涙がじわりと沸いた。
「ヨル、ヨル、大丈夫…!?」
エアロックが空気で満ちたあと、89は膜を割ってヨルの心臓の音を確認した。
「ああ…よかった」
確かな心音。89はほっとして、体中の力が抜けた。ヨルの頬を撫でると、その目がゆっくりと開いた。
「あれ…アンジェ…?」
ヨルは信じられないという目で89を見たあと、幼子のように破顔一笑した。
「よかった…私、ちゃんと死ねたんだ」
ヨルがそんな顔で笑うのはいつぶりだろう。その無防備さに一瞬目を奪われたけど、89はぶんぶんと首を振った。
「ううん、生きてるよヨルは。私が今、助けたんだよ」
「…え?」
「ひどい事するよね!ほんと、あったま来ちゃう。ヨルを捨てようとするなんて」
ヨルは体を起こして、眉根を寄せて89をじっと見た。その口はあんぐり開いている。
「助け…?なんで、どういうこと!?」
89は正直にシスター・ベルとの事を話した。それを聞いたヨルの口はだんだんと閉じて、への字口になった。
「…助けなくて、よかったのに。なんでこんなこと…!」
ヨルがぼそりとそう言った。89はその言葉が信じられなくて声を荒げた。
「どうして!!助けるに決まってるじゃない!」
「…ごめん。でも…アンジェ、早く学院に戻って。こんな事をしたのがばれたら…」
ヨルは困った目で89をじっと見つめた。ヨルを助けるという事だけしか考えていなかった89は、学院に対して重大な裏切り行為をしてしまった事に今気が付いた。
「…居残りじゃ、すまないかな」
へらっと笑っ89私の肩を、ヨルはぎゅっとつかんだ。
「何言ってるの、あなたも廃棄されてしまうわよ!早く…!端末の証拠を消して、ゲートに戻るの。この宇宙船の信号も切らなきゃ…!」
ヨルはバタバタとコックピットのモニターの元へ向かい、素早く操作し始めた。
「よし…記録も位置探査も消去…、早く」
こちらを振り返ったヨルは、切羽詰まった表情をしていた。だけど89は動けなかった。
「…私が行ったあと、ヨルはどうするの?」
「私は、なんとかするから」
そう言い切ったヨルを見て、89は彼女がどうするつもりなのか悟った。
「…行かないよ。行ったらヨル、死ぬ気でしょう」
ヨルはうつむき、きゅっと唇をかみしめたあと、冷静に言った。
「そんなつもりはないわ。だから、大丈夫よ」
「嘘!嘘だよそんなの。わかるんだからね。ヨルはいつも嘘つく前、下むくもん」
ヨルがぐっと言葉に詰まったのがわかった。
「私も戻らないでここにいる。他の国に一緒に行こう?きっとなんとかなるよ」
しかし、ヨルは首を振った。
「密入国者として生きていくのは、私たちには無理だわ。私たちは、他の国の『女性』とはきっと違う。すぐに見つかって、強制送還のあと廃棄される」
「違うって…どう違うの」
「外の国では…私たちも旦那様と同じように、人間のお腹から産まれるんですって。『男』も『女』も同じ人間で、嫌な事は嫌と言っていいんですって」
それを聞いて、89は頭が混乱した。嫌な事は嫌と言っていい?そんな事、聞いた事がなかった。
「そうなの?外では同じなの?私たちは旦那様のために造られた『花嫁』じゃないの…?!」
「そうよ。私たちは、そのために生かされている。だから外の女の人とは違う。逃げ場所なんてないの」
89は驚いた。そんな事は全く知らなかったし、考えた事もなかった。だが、ヨルは知っていたのだ。89は自分の見通しが甘かった事を認めざるをえなかった。だけど。
「でも…でも、一人で戻るなんてできない。だったら私もここで一緒にいる」
「駄目よ、アンジェは花嫁になるのよ。赤ちゃんを産んでママになりたいって、言ってたじゃない」
たしかにそれは、自分の夢だ。愛おしい子どもに愛情を注ぐママになる。その希望を捨てるのは覚悟がいった。けれど、このまま何食わぬ顔で帰って、もとの生活に戻るなんてでない。89はぎゅっと拳を握ったあと、強く言った。
「ヨルを見殺しにするくらいなら、ママになんてならなくていい…っ!」
その言葉に、ヨルははっとしたような顔をして立ち尽くした。二人はしばし見つめあった。その沈黙を破ったのは、モニターからの電子音だった。
「なにっ?」
88はびくっとしてモニターを見たが、次の瞬間はぁとため息をついた。
「指示を入力しなきゃ…ええと、しばらく停泊」
そう言ったあと、ヨルはモニターを操作しはじめた。
「この宇宙船…ユッセタイプなのね。これもシスターの計らいかしら…」
そう呟いた後、ヨルは唇をゆがませた。その顔は泣きそうなようにも、笑っているようにも見えた。そして、モニターから顔を上げて89を見た。
「アンジェ、私は死なないよ。だから戻って」
「えっ、どういうこと?」
89が聞き返したのと、88がエアロックのドアを開けたのが同時だった。
「わっ…!」
ドンと突き飛ばされて、89はドアの外に放りだされた。驚く89を、ヨルはじっと見ていた。優しいのに、燃えるように熱いまなざし。その夜空のような漆黒の目に浮かぶ光は、強く89の心を捉えた。だがその刹那、宇宙服の背中のフライヤーが起動して、89の身体は船から遠ざかった。
「アンジェ、ありがとう」
船のハッチが閉まる前、ヨルの声が聞こえた気がした。あっという間に宇宙船はちっぽけな点になって、宇宙の闇に消えた。
**
アンジェは行った。位置探査システムも切った。だから88はためらいなく宇宙船を最速で発進させた。コロニーの軌道からずっと離れた場所へ。88はぼんやりとモニターを眺めていた。時々宇宙ゴミが画面を横切る。やがてそれらもなくなり、ただ遠くに星々の輝く空間に、全くの一人で漂っていた。その小さな光たちを見つめながら思った。
(あそこには…私たちと違う、人間の『女』たちがいるんだろうか)
嫌な事は嫌といっていい世界。それはつまり、自分の事を自分で決められる世界という事だ。88は目を閉じた。
(もしもそんなところに生まれていれば、私とアンジェは…)
そんな無意味な空想に88はふけった。最後にやるべきことが残っているのだが、その空想は甘美で、なかなか中断することができない。
…どのくらいそうしていただろう。端末がけたたましく鳴り、88はびくっと身を震わせた。画面をみると、89からだった。
「アンジェ?無事、戻れた?」
「ヨル!いまどこにいるの?」
すでにだいぶ離れた場所から届くアンジェの声は、少しくぐもって、かすれていた。その距離を感じて、88の胸は鈍く痛んだ。けど。
「学院からは、もうずいぶん離れたわ。あなたは平気?」
「私より、ヨルの事だよ…!これからどうするつもりなの」
その声は切羽詰まって必死だった。88はアンジェを落ち着かせるために穏やかに言った。
「私は、これから冷凍装置に入るわ」
「えっ」
「この緊急ギグ、コールドスリープ機能がついてる高級品よ。だから使わせてもらうことにするわ」
「そ…そんなの駄目よ、待って、私が助けにいくわ」
「駄目よ。あなたはあなたの使命をまっとうするの。アンジェはそう生まれてついているんだから…私とはちがって」
「なんで!ヨル、あなたの方が私なんかよりずっと…」
「ううん、私は駄目なの。だって旦那様より、あなたの方が好きなんだもの」
今までずっと言えなかった事を、88はなんのためらいもなく口にした。
「きっと旦那様に尽くすことも、子どもを産むこともできる。けれど、あなた以外の人を好きになることはできないわ。私は旦那様に真心をあげることができない。だから花嫁失格なの。でもあなたは違う。きっと旦那様を愛して、幸せな家庭を作れる。だから、アンジェにはそうなってほしい。赤ちゃんを腕に抱いてほしいわ」
その姿を想像して、88は微笑んだ。そうだ、彼女にはそんな幸せな未来が似合う。
「それで…赤ちゃんが立派な大人になって、旦那様と一緒に年を取って、最後一人になった時…私を思い出したら、探しに来て」
アンジェは沈黙していたが、88はつづけた。
「私、眠って待っているわ。でも、思い出したらでいい。ずっと眠り続けていてもかまわないの。夢の中で、私はきっと幸せだもの」
「よ、ヨル、私…」
「ゆっくり考えて。時間はたくさんあるから。…あなたの幸せを願ってるわ。じゃあね」
88は通信を切ろうとした。
「待ってヨル!切らないで!」
「愛してる」
88はそう言って、無理やり通話を切った。室内の電灯をすべて暗くし、必要な入力を済ませたあと、最後に熱いシャワーを浴びた。次目覚める時は、アンジェに会うとき。だから綺麗にしておかなければ。
◇◇◇
「…葬式お疲れさま、かあさん。」
肩を落とす私に、息子が優しく声をかけた。
「おばあちゃん、泣いてるの?おじいちゃんが死んだから?」
その息子の腕の中から、孫が無邪気にそう言った。私は顔を上げて二人を見た。愛おしい私の家族たち。
「大丈夫よ。あなたたちも疲れたでしょう。私、とりあえず今日はここに残るわ」
「でも、母さんもここを出て俺たちの家にこないと…」
「ええ、明日いくわ。でも今日は、ね」
私はあいまいに笑ったあと、息子夫婦を帰した。そして、その夜宇宙へと出発した。未練は一切ない。孫も息子も愛おしい。旦那様のことも愛していた。けれど死ぬ前に一目会いたいのは、やはりヨルだ。
花嫁として嫁ぎ、さまざまな愛情を知った。男女の、夫婦の、親子の、孫の…。どれも温かく大事なものとして自分の中にある。
しかし、こんなに時間がたってもなお、心の中で熱く輝き続けているのは、最後ヨルが私を見た時の、あの燃えるようなまなざしだった。
私のために命を捨てることさえした彼女の愛情とやさしさ。…ここまで掛値なしに自分という人間を愛してくれたのは、彼女だけだった。
死ぬ前に、もう一度その愛に、会いに行く。
そして伝えるのだ。私もあなたを愛していると。
(待っていてね、ヨル…!)
花嫁でも、母でも、妻でもない。すべての役割を終えてアンジェに戻った私は、一人宇宙へと漕ぎ出した。