1.衛藤は激怒した。
衛藤は激怒した。必ず、かの眉目秀麗な王子を除かねばならぬと決意した。衛藤は、法学部なのだが、政治がわからぬ。法律がわからぬ。もちろん、経済がわからぬ。テニスがわからぬ。甘酸っぱい恋愛とフィフティーンラブの違いもよくわからぬ。そもそも、自分がなんのために大学に来たのかがわからぬ。
衛藤は、とあるテニスサークルに所属する大学二年生である。試験前にはモンエナを飲み散らかし、1Kのボロアパートで暮らしてきた。けれどもリア充に対しては、人一倍敏感であった。きょう未明、衛藤はサークルの飲み会で初めて五臓をアルコール洗浄し、二次会三次会を経て、衛藤は牛丼家にやって来た。
衛藤には、多くの友人も、先輩も、後輩も無い。彼女も無い。アクアリウムの、ネオンテトラと二匹、いや一人暮らしだ。このネオンテトラは、何匹も買っていた中で生存競争に勝ち残った背びれが少し大きい一匹である。衛藤は、毎晩寝る前の餌やりのことを懸念しながらも、酔いが回ったサークルの男二人で、シメだということで近くの牛丼チェーンにやって来た。先ず、そのメニュー表を広げ、それからサイドメニューに目を配り、そして注文を決め込んだ。
衛藤には竹馬の友があった。田中である。今はサークルの中心人物で、副部長をしている。その友から、色々と内輪の色恋沙汰を聞いてみるつもりなのだ。久しく、衛藤のサークル内事情のタイムラインは更新されていなかったのだから、話を聞くのが楽しみである。
注文を終え牛丼を待っている間に衛藤は、少し離れたボックス席から不穏な笑いを聞いた。誰かをバカにするような笑いだ。店内で声が響くのは、客が少ないから当たり前だが、けれども、なんだか、時間のせいばかりでは無く、声そのものがやけにこちらを向いている。アルコールで思考がまとまらない衛藤も、だんだん思慮深くなって来た。目の前に座った田中の色恋沙汰の報告を遮って、なんか怪しく無いか、あそこにいる客たちは俺らに聞こえるように笑ってないか、と質問した。田中は一瞬、答えなかった。衛藤は少し、語調を荒げて田中の話を遮った。田中は、あたりをはばかる低声で、わずかに答えた。
「……、お前がチー牛だからだよ。」
「は、チー牛?」
「ネットのスラング的なやつなんだが、あんまりイケて無い風貌をした男に対して使うんだよ。」
「それは……、つまり俺みたいなやつってことか?」
「まあ、そうかもしれ無いな。それから、メガネをかけていて顔とか精神年齢が低そうな、ああ、こんなやつ。」
田中は、スマホで検索した画像を見せた。
「おどろいた。こんな煽り方があるのか。」
「いや、それだけじゃ無いと思うぞ。お前の風貌と、あと注文がチー牛が頼むやつそのままだったから余計にだろうな。このチー牛は、どっかのゲーム会社のお偉いさんが公式な場で使って炎上したんだとか、なんとか。ってか、俺の話聞いてた? 今日の飲み会、美月ちゃんが西園寺に持ち帰られたっぽいよ。」
聞いて衛藤は激怒した。「呆れた王子だ。生かして置けぬ。」
衛藤は、チー牛な男であった。文武両道、イケメンリア充、金持ちボンボンがこの世でも特に嫌いであった。そして、その要素をすべて兼ね備え、サークル内では「王子」と呼ばれている西園寺がもっとも嫌いであった。たちまち衛藤は、メガネの真ん中を一本の指で持ち上げると、田中に今日の飲み会で西園寺と美月がどういう状況であったかの報告を続けさせた。
「お前見てなかったのかよ。」田中は静かに呟いた。その田中の顔はどこか呆れていて、そして哀れむような目をしていた。
「初めて酒を飲んだんだ。」女子を気にする暇がなかったと、間違いを正すかのように衛藤は答えた。
「だからお前は……、」田中は、憫笑した。「そんなんだったら、いつまでも変わらないぞ。」
「うるせえ!」と衛藤は、いきり立って反駁した。「俺は、もっとこう、なんかこう、俺のままで、ありのままの自分で、楽しい大学生を、キャンパスライフをしたいだけなんだよ。」
「ありのままで、愛してくれるのなんて親くらいだと、俺に教えてくれたのは、衛藤、お前だ。だから、こうやって俺はサークルでうまくやれてる。」田中は落ち着いて呟き、ほっと溜息をついた。「俺だって、本当はチー牛を頼みたいんだがな。」
「なんのためのネギ玉チョイスだ。自分の体裁を守るためか。」今度は衛藤が嘲笑した。
「うっせえ。」田中は、結構飲んでいたのかもしれない。「はっきり言って、お前みたいなヤラハタは、キモいんだよ。俺はキモく思わなくても、なんだか、もっと恐ろしく大きいものからそう思われてるんだよ。認められてねえし、普通じゃねんだよ。」
「ああ、田中はモテるよ。自惚れてろ。俺は違う。自分を曲げてまで、ネギ玉を食べようなんて思わない。ただ、ーー」と言いかけて、衛藤はテーブルに視線を落とした瞬間ためらい、「ただ、俺だってチー牛以外も知りたいと思ってる。このテニスサークルで変われると思った。大学一年の夏、お前が高菜明太を食べる姿見て俺は思った。だからお前のツテで九月からテニサー入ったんだ。」
「そして俺は、チー牛が、チー牛が好きだ。なんと思われようと、これからもチー牛を食べていきたい。」
「ばかな。」と田中は、酒焼けしたような声で低く笑った。「やばいこと言うなよ。一生チー牛のままでいるってのか。」
「そうだ。俺はチー牛を選ぶんだ。」衛藤は必死で言い張った。「俺は、約束を破ったりしない。俺が、チー牛を食べることを許して欲しい。許せないのならば、いいだろう、確か西園寺は社長の息子、それもこの牛丼チェーンの御曹司だと聞いた。お前は西園寺とも関係が深い。俺がチー牛以外の牛丼を食べる姿を見たら、お前が西園寺に頼み込んで、このチー牛を全店舗のメニューからなくすようお願いしてくれ。たのむ、そうしてくれ。」
それを聞いて田中は、残虐な気持ちで、そっと北叟笑んだ。生意気なこと言うよ。どうせいつか、ネギ玉を選ぶに決まってる。この嘘つきに騙された振りして、見守ってやるのも面白い。それで、チー牛とサークルで顔を合わせずにすむのだから気味がいい。チー牛は、これだから困ると、俺は悲しい顔をして、この世からチー牛のメニューを抹消してやるのだ。チー牛とか言う奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。また俺を誘って、この牛丼屋に来るがいい。その時には必ず、ネギ玉を頼め。頼んだら、西園寺に言いつけてやる。そして、お前は、一生、チー牛を食えなくなるぞ。」
「な、なんてこと言うんだ。」
「はは、チー牛が大事だったら、俺を牛丼屋に誘わないでくれ。お前の心はわかっているぞ。」
衛藤は口惜しくて、飲んでいたコップを強くテーブルに置いた。
「お待たせしました。ご注文のチーズ牛丼と生卵のセットと、こちらネギ玉牛丼になります。」
衛藤と田中はひどく可愛らしい店員の声を聞いた。
衛藤は、「僕が頼んだのは温玉なんですけど。」と言いそうになったが堪えた。
制服の名札には花崎とかかれている。その姿は声を裏切ることはなかった。
遠くから原動機付自転車のエンジン音が聞こえ、あたりは徐々に明るくなり始めていた。