故里
ようやく仕事にも新しい環境にも慣れてきた会社からの帰り道、なんだかふと寂しいような懐かしいような不思議な感覚に襲われた。
何故か、と問われて明言できる確実な理由はないが、例えばすれ違った人から好きだったあの子と同じ香りがしたとか、空を見上げたら部活の仲間とふざけあって帰った時に見た燃えるような夕陽は今も変わらずそこにあっただとか、近所の学校の部活の練習風景がやけに目に止まったとか。そんな些細で大切な思い出のかけらが積み重なった結果なのだろう。
帰りたい。もちろん家にでは無い。あの、なんの根拠もなく「オレ達が世界で1番最強だ」って信じていられたあのときに戻りたいと思った。
家に着くや否やリュックサックに財布とスマホと、それから卒業アルバムを詰め込んで自転車に跨る。
地元と言っても電車に乗れば数駅でつく距離だと言うのに。それに、もうここ数年ろくに運動をしていないというのに、気が付けば誰に強制されるでもなく自転車にまたがっていた。
道行く人たちが驚いた顔をしている。それもそうだろう。今のオレときたら、スーツを着たままでリュックサックを背負って、全速力で自転車を漕いでいるのだ。
だが、周りの人に驚かれようと全く構わないと思った。どんなに可笑しくても、オレはただあるべき場所に帰っているだけなのだから。
風が頬に心地の良い温度をもたらしてくれる。オレの通っていた中学まであと少しだ。
学校に着いた。まだいくつかの部活は活動中なようで、様々な掛け声や音が聞こえてくる。
しかし、懐かしさの中に違和感を感じる。
どうやら校舎が改築されているようだ。
いくつかの施設はもう改築が終わったようで、ボロくて不便でみんなで文句を言い合ったあの建物は姿を消して、よく似た全く違うものと入れ替わってしまっていた。
「そう、か」
気づけば口から言葉が零れ落ちていた。ここは、もう僕の居る場所じゃないのか。
人も建物も次々に新しい世代に引き継がれて行くんだな。過去の思い出も何もかも全て消し去って。
「あれ、もしかしてゆーちゃん?」
僕が哀愁に浸っていると、後ろから声がかけられた。
この鈴の転がるような声、それに僕をこの呼び方をするのは幼馴染の彼女しかいない。
「...美穂?」
「やっぱり!久しぶりだね、元気してた?」
「うん。そっちは?」
「見ての通り元気だよ!」
昔と変わらない花がほころんだような笑みを浮かべる彼女につられて、思わずこちらも笑顔になる。
「でも、おばさんから引っ越したって聞いたけどどうかしたの?」
「ああ、なんとなくさみしくなってな。気づいたらここまで来てたんだ。」
「ふふっ、全然あってなかったけどそういうところとか全然変わってないね。」
「そういうところ?」
「そ。昔からゆーちゃんって何かあるたびに思い出の場所に行く癖があるから」
そうだったのか、まったく自覚がなかった。自分でも気づいていない癖を知られているなんて、なんだか気恥ずかしいな。
「ところで、美穂は最近どうだ?」
「ぼちぼちって感じかな。最近やっと慣れてきたの。ただ…」
「ただ?どうかしたのか?」
「いや、やっぱり何でもない。きにしないで」
「何でもないっておまえな…」
美穂が何でもないっていうときは大抵何かある時だ。
「まあいい。とりあえず立ち話もなんだし、ファミレスにでもいかないか?」
学生時代、店員に顔を覚えられるほど通ったファミレス。しかしその店員も見当たらない。
やはりここにも自分の居場所はないのだろう。
そんな感傷に浸っていると美穂がぽつりぽつりと近況を話し出す。
要約すると、今の職場の上司からセクハラの被害に受けている。しかしせっかく就職できたのにすぐに転職をするなんて、そんなに忍耐力がないとどこでも通用しないなど、よく聞くような常套句で脅されているとのこと。
なるほど、と呟くと俺は彼女に向けて話す。
「まず、お前がされている事はセクハラ以外の何物でもない。忍耐力も何も人としての尊厳を冒されているだけだ。
そんな上司がいる会社は確実にやめるなり異動願を出すなりしたほうがいい。っていうかしろ」
「うん、そうだね。ありがと」
しばらく話してから翌日もそれぞれ仕事があるということで、場はお開きになった。
数日後、俺たちは彼女が無事退職届を受理されたというお祝いで少しお洒落なレストランに来ていた。
「セクハラ野郎のいる会社からの脱出及び転職を祝して」
「「乾杯」」
おいしい食事に、きれいな夜景、さらにアルコールが回ってきた頃合いということもあり、つい胸の内に秘めていた想いが口をついて出てしまった。
「すきだ。」
彼女は驚きのあまり声も出ないようで、きょとんとしている
「その惚けたような顔も好きだ。美穂が、美穂さえよければ…」
一言目が呼び水となって、あふれてしまう思いを押し止め一呼吸置く。そしてめいっぱいの気持ちを込めて言った。
_________俺と、付き合ってくれませんか。
は、と息を呑む音が聞こえた。次いで、彼女は頬を赤らめながらゆっくりと口を開く。
「私で、よければ…」
「まま、えほんよんで!」
子供が母親に読み聞かせをねだる声が響く。
「ママは今忙しいからパパに読んでもらいなさい」
「えっ、俺かよ。美穂が後で読んでやればいいだろ?」
「やーっいまがいいの!」
「ということで、よろしくね?優斗パパ」
「へいへい。ほら、拓海はなにを読んでほしいんだ?」
新築の木の香りが漂う家の中、幸せな家族の笑顔の花が咲いた。
元気いっぱいの遊びたい盛りを体現した子供に、少し面倒くさがりながらもその子供にたくさんの愛情を注ぐ父親、いたずらっぽい笑顔が魅力的な母親のおなかには新たな生命が宿っている。
今はただの「住処」だが、いずれこの場所はかけがえのない心のふるさとになってゆくことだろう。