18話 新たな英雄
鋭い牙をのぞかせ、不気味に笑う吸血鬼、ブルート。彼の手に握られた血から作り出された赤いサーベルは、たった今、目の前でハインツをわずか二振りで沈めて見せた。まさに圧倒的、人間とは次元が違う。
「――ヒロト、逃げて」
ルナが声を絞り出す。
「作戦通りに行くの。ヒロトは今すぐここから全速力で逃げて」
寛人は自分を振り返らずに言うルナの背を見る。気丈な声を出しているが、ナイフを握った手がかすかにふるえている。目の前で三人の中で最も実力があるハインツがいとも簡単に敗れたのだ。恐れるのは無理もない。そして作戦通りに行くということは、自分を見捨てて逃げろと言っているようなものだ。最悪、死ぬ、その覚悟。もしかすると、死ぬ前に目の前の吸血鬼に命尽きるまでなぶられ、凌辱され、精神を壊されるかもしれない。それでも、ルナは寛人に逃げろと言う。
「……」
「早く行きなさい!!」
ルナが叫ぶ。その言葉に寛人はきつく奥歯をかみしめる。だが、答えはここに来るまでに決まっている。
寛人は入り口のほうを振り返ると、全力で走りだす。決して止まることなく、迷うことなく、ただここから逃げて、生き残るために。たとえ仲間を見捨てたと蔑まれようと、後で自分がどれだけ後悔することになっても。寛人にできることは敵に背を向け、助けを求めて逃げることだけなのだ。
広い空間から光のない細い通路に飛び込んでいった寛人に吸血鬼はあきれたように言う。
「所詮、弱者は弱者でしかない、ということか。最期は仲間をも見捨て、敵に背を向けることもいとわず、ただ自分の命が惜しいから逃げる。なんと愚かなことだろうか」
「違うわ」
「……なに?」
ルナはナイフを構えなおす。体勢を低くし、目の間に立つ敵をにらむ。
「誰だって自分の命は惜しいに決まってる。たった一回きりの人生、奪われたくないのは誰だって同じなの。でも、それでも誰かのためにその命が惜しいって思うこと、そのために逃げることは絶対に愚かじゃない。――いや、愚かだって言わせない!」
「言いたいことはそれだけか?」
ブルートは抜血刀の切っ先をルナに向ける。最期通告、という意味を込めて。
「ならばお前も、ここで散れ」
人間の何倍もある筋力を持つその足はえぐるように地面をける。まっすぐ、弾丸のようにルナに向かって突進するブルート。赤い双眸に映るのはナイフを構えたルナ。ルナのナイフも迫りくるブルートに向かって繰り出される。
勝負は、一瞬だった。
◇
当たり前だが、全く整地されていない洞窟を寛人はただひたすらに走っていた。水たまりを踏み抜き、岩が突出した足元につまずきながらでも、そのスピードは決して緩めない。まだ走り出して数十秒。それでも寛人はもう数十分走っているかのような錯覚にとらわれそうになる。自分の背中を『死』がつかんで引きずっているのように、足が進まない。それでも、走る。置き去りにしてきた仲間のために。
そんな背に後ろから絶叫が届く。その声に寛人は足を止めそうになる。今の声は確実にルナだ。吸血鬼に敗れたのかもしれない。今の絶叫には恐怖がありありと浮かんでいた。頭に浮かぶルナの顔。それを振り払うために寛人は頭を振る。仲間と決めた通り、自分はもう心に決めたはずなのだ。仲間を犠牲にしても逃げるのが自分の役目。頭では理解している。理解しているのだ。だから必死に寛人は足を動かす。
また背後から絶叫。耳をふさぎたくなるが、そんなことをしては走る速度が遅くなるだけだ。だったら聞こえなるところまで腕を振って全速力で走ればいいだけなのだ。
前方に洞窟の出口が消えた。ここから出て、森を進みながら町へ急ぐ。頭で反復する。その脳裏にふいに浮かぶ者たち。
ルナ、ハインツ、コウちゃんをはじめとした村であった人たち。たったこれっぽっち。こちらに転生してから二日。もし自分が生き残ったらこれから出会う人たちの数からしたらほんの一握り、微々たるものだろう。いずれ忘れるかもしれない。
寛人の走る速度は確実に遅くなっている。
いわば、これらの人たちと出会ったのだってただの偶然。この二文字で片付けられる人たちだったのだ。この人たちに出会わない人生もあったのだろう。だったらいっそ忘れてしまえばいい。
寛人の足並みはもう歩くのと変わらない。
そう、記憶から消し去ればいい。そもそも人づきあいが苦手な自分。たった二日でこれだけの人と出会えて、交流できたのだって、ただ運がよかっただけ。
ついに寛人の足は止まった。洞窟から出るにはあと一歩が必要というところだった。
でも、それでも。寛人は出合ったのだ、頭の中に浮かぶ人たちに。誰もが親切にしてくれた。声を出さない自分に、人見知りな自分に。
寛人は洞窟の奥を振り返る。もう絶叫は聞こえてはこない。
目を閉じ、耳をふさぎ、新たな記憶で上書きすれば、それで済む話。まだ始まったばかりの人生、きっと、まだまだ多くの出会いがある。それをただの偶然と言える出会いをした人たちのために、使うことができるだろうか。
寛人は固く目を閉じ、逡巡する。自分はどうしたいのか、新しくもらった人生を、どう使いたいのか。この世界で、どう生きたいのか。
寛人は目を開く。その目にやどるは決意の炎。
彼は踵を返し、全力で洞窟の奥に走る。震えですくむ体に鞭うちながら。もう、迷わないと決めたのだから。
もし今までの出会いが『偶然』の一言として片づけることができるのならば、『運命』として片づけてもいいはずだ。
寛人は運命の仲間を助けるために、死地へと急ぐ。
◇
「ぐっ……」
「どうした、先ほど啖呵を切ったのはただの虚勢だったのか?」
地面に倒れたルナを見降ろしながら、ブルートは冷酷な声色を浴びせる。なんとか立ち上がろうとするルナだが、サーベルでいいように切り付けられた体では思うように力が入らない。その姿をブルートはあざ笑う。
「所詮、人間はこの程度だ。口ばかり達者で、何の力も持たん。それなのに己の力を見誤り、無駄にその命を散らせる。愚かとは貴様ら人間のことを言うのだ」
ブルートは右足を軽く振ると、それを倒れたルナの横腹に突き刺した。あまりにも小さな動作だったが、吸血鬼の持つ圧倒的な力によって小さなけりであったとしても人を転がすだけの威力を持つ。
「くっ、は……!」
固い岩の地面をルナはボールのように転がり、壁にぶつかることでようやくその動きを止めた。
ルナの血でにじむ視界に映るのは自分を痛めつけ、殺そうとする悪魔だけ。逃げ出したいのに、助けを呼びたいのに、それすら叶いそうにない。逃げた寛人がどれだけ急いでも助けが来るのは明日の昼頃だろう。その時には自分も、ハインツも、すでに助ける必要がないただの死体になってしまうだろう。
「――助けてよ、アルート兄さん……」
ルナはもうこの世にいない、いとこの名をつぶやいた。ルナがあこがれ、そしてルナに夢を教えてくれた心優しい兄のような存在だった。彼は冒険者だった。そんな彼はいつもルナの味方で、守ってくれたのだ。こうしてルナが冒険者をしているのも彼の見ていた景色を自分も見たいと思ったからだ。
そんな彼はもう自分がどれだけ泣き叫び、助けを呼んでも駆けつけてくれる存在ではない。それでも、彼女は呼んだ、自分を守ってくれた、ルナにとっての英雄の名を。
「もう抵抗しないなら面白くない。終わりにしてやる。そこに倒れた男もろとも葬って、逃げた男を追うとしよう」
ブルートはルナの首元にサーベルを当てると、それを大きく振りかぶる。
こんなところで、終わるのか……。ルナは目をつぶった。
「――?」
いつまでたっても自分の意識が無くならないことにルナは疑問を抱き、そっと目を開けた。吸血鬼がもたもたする必要はないはず。サーベルで首をはねる。吸血鬼にとって造作もないことのはずだ。
見上げた吸血鬼の顔は、ルナの顔を見つめているわけでも、ハインツのほうを見ているのでもなかった。その目はこの広い空間の入り口に向けられ、不愉快な表情をしている。
「無様に逃げたと思えば、どうしてここにいるのだ、貴様は?」
ルナは視線をブルートと同じく入り口に向けた。
「……!?」
そこに立っているのは一人の青年。ここにいてはいけない人物。いささか頼りない顔、そして寡黙な男。冒険者にしては体の線も細いし、スキルの知識すらない。そんな青年。
肩で大きく息をした青年は、キッ、と吸血鬼をにらむ。その目はかつてルナを守ってくれた、あの男と同じ目。優しくも、熱いものをはらんだ、英雄の目だ。
「ヒロト……!」
舞い戻ってきた英雄の名を、ルナは流れ出した涙とともに吐き出した。