1話 コミュ障の死
「峰谷寛人さん、第一診察室にどうぞ」
待合室に流れる初老の男性の声。その声に反応したのは白いマスクをつけた若い一人の男。待合室の隅の椅子に座っていた彼はよろよろと立ち上がると混み合う待合室から診察室に向かう。ようやく自分の番が回ってきたかと小さくため息をつく。正月が明けて早々の病院はいつも以上に混み合い、待ち時間も余裕の2時間オーバー。これは人気テーマパークのアトラクションにも引けを取らないだろう。彼はそんなことを思考が散漫する頭で思った。
第一診察室の入り口のカーテンを開くとそこにいたのはキャスター付きの椅子に座った目算定年が近い年齢の男性医師。ずり下がった銀縁の眼鏡を指の腹で上げた医師は彼に座るよう促した。彼は小さく一礼するとゆっくりと椅子に腰かけた。
「峰谷寛人さんだね? 今日はどうなさいました?」
「――えっと……風邪をひいてしまったみたいで……」
「ん? 小さくて聞こえないからもう一度いいかな?」
「――風邪をひいてしまったみたいで」
寛人は先ほどより大きな声を出す。とはいえ、その声もさして大きくはなかったのだが、かろうじて医師には届いたようで、
「なるほど。もしかしたら今時期だとインフルエンザかもしれないね。いつ頃から具合が悪くなったんです?」
「昨日の朝起きたらこんな感じで……」
寛人は先ほどと同じように彼的には大きめの声で答える。
「症状はどんな感じで?」
「熱が38度近くあって、悪寒がします。咳やくしゃみも出て……」
「わかりました。それじゃあ、まずはインフルエンザの検査を」
医師は近くにいた看護師の女性に目を向けた。看護師はすぐに了解したらしく奥の部屋に消えて行った。
「峰谷くんは二十歳か。大学生かい?」
医師の唐突の問いに彼はうなずく。
「正月が明けて早々、いきなり医者の厄介になっちゃうとは災難だったね。もうすぐ成人式もあるだろうし、体調には気をつけなさいね」
医師としての当たり前の忠告に寛人はまた小さくうなずいた。そこに看護師の女性が銀のトレーに長い綿棒を乗せて戻ってきた。医師はそれを受け取ると
「それじゃあこれから鼻の奥の粘膜を取って検査するので、マスクを外して」
寛人は若干眉間にしわを寄せながらマスクを外した。すぐさま医師が構えた綿棒が鼻の穴に迫る。
「では入れますよ~」
グサリ。鼻腔の奥まで貫通した綿棒は鼻の奥の粘膜を削った。寛人はせき込みそうになるのを間一髪のところでこらえながら早く終わってくれと願った。
医師がゆっくりと綿棒をぬく。思わず、「おえっ」としてしまいそうになりながら寛人はそれを飲み込む。綿棒が完全に抜かれた時、抑えきれなくなった彼の喉から咳があふれ出した。同時に鼻水もたれてくるが看護師の女性がティッシュを差し出してくれたのでダラダラと垂れ流すのは回避できた。医師は検査キット?のようなものに綿棒を入れ、看護師の女性に渡した。そしていまだせき込む寛人に言うのだった。
「結果が出るまではもうしばらくかかるから待合室で待っていてくださいね」
◇
ピコピコンという音を立てながら自動ドアが開く。と同時に冬の冷たい空気が寛人を包み込む。先ほどまで暖かな空間にいた寛人は思わず身震いをする。手袋をして来ればよかったとこすり合わせる手にはビニール袋。中には今さっき処方された薬が処方箋とともに入っている。
「――まさかインフルだったとはな……」
マフラーにすっぽりとうずめた口から思わずこぼれた独り言。まだ世間は正月の残り香が漂っているというのに、新年早々このざまである。こたつで寝落ちしてしまったのが原因なのは明白であるので自分のせいではあるのだが、ため息をつかずにはいられない。
大学の授業は明後日からだったか。寛人は熱でぼおっとする頭で日付を数える。明後日までには熱は引いているだろうが、ウイルスの潜伏期間的にも行かないほうがいいかもしれない。しかし明後日には早速課題提出がある講義があったような……。寛人はやれやれと今日何度目かのため息をついた。
ふらふらと歩くこと数分。寛人は自宅のアパートにたどり着いた。築十年ほどのまだ新しい建物の二階、その角部屋が彼の住まいだ。
力がうまく入らない足を何とか動かし、階段を上る。数部屋のドアが並ぶ廊下をのろのろと歩き、寛人はコートのポケットに手を突っ込む。取り出した鍵を一番奥のドアのカギ穴に差し込み、回す。カチャンという開錠の音。鍵を引き抜き、ドアを開くと、数時間ぶりの帰宅だ。予想以上に時間がかかってしまったなと彼は後ろ手で鍵を閉めながら靴を脱いだ。
何の変哲もない男子学生の部屋は数時間人がいなくなっただけで極寒の空間になっていた。彼はいそいで暖房のスイッチを入れ、マフラーだけを取り、コートを着たままこたつに滑り込む。こたつの天板にもらった薬を無造作に置くと、彼は人心地つく。こたつの電源を入れ忘れていたことに気が付き、スイッチをいれる。しばらくすれば温かくなるだろう。
「そういや、久しぶりに人としゃべったな……」
寛人はポツリとつぶやいた。人付き合いがいいとはお世辞にも言えない寛人にとって、医師の診察でさえたくさんしゃべった内に入る。
ふと寛人は時計を見た。目覚ましにも使っている時計はすでに午後1時を指していた。朝一で病院に行ったのに数時間待たされてしまったからこんな時間になってしまったようだ。昼食をとる時間といえばそうなのだが、いかんせん食欲がない。しかし医者も言っていたが、「水分、栄養、睡眠をしっかりとれ」は守るべきだろう。彼はまだ温まり切っていないこたつからずるずると抜け出すと台所に向かう。
寛人は冷蔵庫を開いた。しかし中身は飲み物が置いてあるくらいで食べ物はほとんどなかった。しぶしぶと冷蔵庫を占めた彼の脳裏にある食材が思い出される。寛人はシンク下の扉を開いた。そこに置いてあったのは半分ほど減った切り餅。正月に食べようと買っていた余りだ。これなら消化もいいだろうと彼は切り餅をフライパンに並べた。
焼き目がついた餅に醤油をかけ、適当な皿にそれらをのせ、寛人は再びこたつに足をいれた。こたつはすでに温かくなっており、心地のよい熱がしみわたる。こたつが温かくなったのを確認し、コートを脱ぐ。冷蔵庫にあった緑茶を一口飲みほっと息をつくとスマホの電源をつけた。特に何もない通知画面。SNSにも、メールにも、電話にも一切返信や通知はない。いつも通りの通知画面。彼はスマホをこたつに置き箸を取った。餅は醤油の香ばしいにおいをまとい、見るからにおいしい一品に仕上がっている。まだ熱い餅に息を吹きかけ、寛人は餅を一口でほおばった。
「あっつ!!」
焼きたての餅は息を吹きかけたとはいえまだ熱々で、寛人の口を急激に熱した。彼はハフハフと口を動かす。口の中がやけどする前に早いこと胃に収めてしまおうと彼は一口では大きい餅をろくに噛まずに飲み込んだ。
ごぼっ。
不気味で、どこか愉快な音が寛人の頭に響いた。瞬間、彼は喉を押さえた。なにが起こったかはわからない、ただ反射としか言いようがないが彼は両手で咽頭付近をつかんだ。
何が起こったかわからない彼は声を出そうとした。しかし、出てきた声はどこかふざけたような間抜けな声。声ともいえないかもしれない。ただのうめき。彼の口からこぼれる音は言語を使う人が日常では使うことがない音。ただ、その音は間抜けさとは裏腹に危険な意味もはらんだ音だ。
ついで彼は鼻から大きく息を吸い込もうとした。ただ、吸い込もうとした空気は一片も肺に届かない。それどころか鼻腔にすら入ってこない。つまり、簡単に言えば息が吸えない、窒息状態ということだ。
「――!!!」
彼の脳はようやく自分がのどに餅を詰まらせたという事実に気が付いた。彼の脳は火花が飛んだように様々な記憶を取り出しては消していく。今この状態を打開するために解決策を記憶から掘り出しているのだ。しかし混乱でカオスとなった彼の意識では正常な判断は難しく、ただ時間が過ぎていく。
寛人は夢中で喉に力を入れせき込もうとしたが、せき込む空気が肺にないため咳すらできない。胸を強くたたいても何の効果もない。気道をふさいだ餅はびくともしない。
混乱状態の寛人はふと視界にあるものをとらえた。スマホだ。寛人は夢中でスマホをつかんだ。乱暴に電源を入れる。現れた画面は第三者にスマホの中身を見せないようにするためのパスワード認証画面。パスワードなんて設定しなければよかったと思いながら寛人は震える手で何とかパスワードを入力する。ようやくホーム画面にたどり着くと狭まる視界の中、電話のアイコンをタップする。今電話するとしたら一つしかない。
1、1、9。瞬間、電話おなじみの音が耳元で鳴り出す。
「消防です。火事ですか、救急ですか?」
寛人はその声を遠くで聞いた。薄れゆく意識の中で、彼は気づいた。今自分は声が出ないのにどうやってここに消防を、救急車を呼ぶつもりだったのだろうと。
「――もしもし。もしもし」
消防の人の声はますます遠くなり、合わせて視界も暗転し始める。先ほどあれだけ苦しかったのに、今は何も感じない。なぜだかとても穏やかだ。
峰谷寛人が動かなくなってようやく暖房が効き始め、部屋が温かくなり始めた。しかしもうこの部屋に温まる必要がある生物はいなかった。