無花果・その席の影は
朝、住宅街の塀の上に、一匹の猫を見つけた。撫でてみようと手を出すも、その手は猫の身体を貫通する。感覚があるわけでもなく、僕の手は猫の残像をそのまま通り過ぎ、僕はいつものように思うのだった。ああ、この眼が。僕はほんとうに、嫌いだ──
§ § §
早速ではあるが、一般的に九 憐と呼ばれる人間(つまり僕のことだが)は、ある点において異常である。何が異常かというと、それは僕の「眼」だ。僕の眼は、どうやら過去を見ることができるようで、そしてその眼が映すのは、見た場所のきっかり二十四時間前の光景。
そんな奇妙な体質もあり、僕は毎日規則正しい生活を送らざるを得ないことになった。信号、電車、バスなど、この世界には時間に縛られているものが多すぎるためではあるのだが。そんなこともあり、僕は一応視覚障害者という扱いになっている。
何はともあれ今日も、僕は学校へと向かう。僕の通う高校には特別支援学級があり、当たり前ではあるが僕のクラスはそこである。
いつもと同じように席に座り、一人しかいないクラスメイトを待つ。
ドアが開く音もせずに、彼女の姿が教室の中に入ってきた。それは話すような素振りを見せるが、音が聞こえない辺りから昨日の彼女の残像が僕の視界に映っているのだろう。
それにしても暇だ。一限まではまだまだ時間があるだろうし、することがない。まあ、ない訳ではないのだが。彼女が来たら確実にやばいってだけで。
結局僕はそのことを実行することにした。やることは簡単、昨日の彼女の残像の下に、僕の体を滑り込ませるだけである。何が目的かはあえて言わないでおこう。
そうして僕が絶景を堪能しているとすぐに、教室のドアが開く音がした。
「……なにやってんの、憐」
ドアの音に続いて、彼女の声が聞こえた。彼女は古茂田 昴という。僕の唯一のクラスメイトであり、軽い色覚障害を患っている。軽いものであるのにここにいるのは、なんでも彼女の母親が念のためということでこのクラスに入れてほしいと希望したかららしい。ちなみに彼女の障害について特筆すべき点はないが、しいて言うとすればたまに視認できないものがある点だろうか。
「もう一度聞くわよ。なにやってんの、憐」
さすがにそろそろ怒られそうだったので、僕はゆっくりと立ち上がって、昴がいるであろうドアの方を向いて正直に述べることにした。
「いやまあ、ただちょっと横になってパンt──」
言葉が終わる前に、彼女の拳が僕の鳩尾を正確に打ち抜いた。その痛みに立っていられるわけもなく、僕はそのまま床へと倒れ込む。そして足音からして僕の横へと歩いてきたのだろう昴は怒り出す。まあ、当然の結果であるが。
「たまたま朝早く来てると思ったら何してんのよ憐! そのちょっと便利な眼とかをもうちょっと有効活用しなさいよ!」
パンツを覗くことが有効活用でないというのなら、昴もまだまだ男子の性質というものをわかっていないな。
そんな台詞を脳内で思い浮かべながら、僕は何とか立ち上がる。そして、彼女に向かって堂々と言った。
「後悔も反省もしていないッ! むしろ清々しい──」
「もう一発、次は本気でいくわよ?」
「ごめんなさい僕が全面的に悪かったです」
声を低くして脅すように告げた彼女に、両手を軽く挙げて降伏の意思を表明した僕であった。だってやばいだろう、どう考えても。さっき悶絶したのに、アレで本気ではないというのだから。もし本気で打ち込まれたらと想像すると本当に恐ろしい。ちなみに僕は、そんな彼女に一度告白している。その昔(とは言っても一年ほど前の話だが)の勇気が、僕としてはなんとも信じがたいのだった。
そうして僕はなんとか席に着き、二人で駄べりはじめる。先ほどとは一転、彼女は大人しくなり、授業の準備を進める。
「今日の一限って、化学だっけ? それなら私教科書忘れたんだけど、貸してくれない?」
先程のことは流して、彼女は僕に聞いてきた。確かに今日は化学が授業であるのだが、それを僕に対して訊いてもあまり意味の無いような気もする。
「残念だけど、僕教科書持ってきてないんだよね。前日に開いてなきゃ読めないから、今は明日のものを持ってきてる」
そもそも、いつもこうしているから知っているはずなのだが。なぜ彼女はこんなことを訊いてきたのだろうか。
「えー、こういうのって、持ってくるのが普通じゃない? 隣の席の美少女が困ってるようなこととかを予想してさ」
昴は僕の肩にぽんと手を置いて、そんなことを言った。その言葉に、僕は思わず返す。
「誰が何と言おうと突っ込ませてもらおうか、昴。僕は断じて、お前の顔に惚れたわけじゃねえんだよ!」
いや、確かにかわいいなとは思うけども!
どうせ、満面の笑みで言っているんだろう、まったく。そんな昴の顔が見たいということもあり、僕は毎日学校に来ているのだが。
だいたい、こんな不自由な身で学校に来るなど、本当のことを言えば不便でしょうがないのだ。
「おら、お前らー。イチャイチャしてるのは別にいいんだが、さっさとホームルーム始めさせろー」
気付けば担任の綿貫先生が既に教卓の前に来ていたらしく、気の抜けた声で僕らへと言った。
「あはは先生、冗談はよしてくださいよー? なんで私がこいつとそんなことしなきゃいけないんですか。あんまりそういうこと言うと、昨夜先生がコンビニでバイトしてたことばらしちゃいますよ?」
彼女がそう言った瞬間、先生が小さく「は?」と声を上げる。そしてすぐに、うろたえたような声で昴へと聞いた。
「嘘つけ。 俺は昨日、ちょっと飲んだ後にすぐ寝てたぞ」
若干慌てたが、無理やり抑えたようにそう言う先生を無視して、昴はとびきり意地悪に言う。
「いやあ、まさか深夜にコンビニに行ったら、先生がレジを打ってたんですもん。面白そうなネタになるなあと思って、写真も撮ってありますよ?」
「嘘を吐くなあああああ!! ただでさえない俺の信用がなくなるんだよ! 九、信じるなよ? こんなのこいつの冗談だからな?」
バン、と教卓を叩く音とともに先生は僕に必死に弁明した。いやまあ、そんなことを言われても昴のことだ、課題を出しに行ったのも嘘かもしれないが。少しかわいそうに思えてきたから、何か助言でもしてあげようと思い口を開く。
「大丈夫ですよ、先生」
「おお、そうだよな! お前なら俺の言うことを信じてくれるよな!」
「二人とも、僕はあまり信じていないので」
「最大の敵はここにいたか……」
先生が教卓に頭を突っ伏して落ち込んでいるのが、見えないはずの僕にもわかった。横では、昴が笑いをこらえようと悶絶しているようだ。先生を励まそうと思って言った言葉で、逆に落ち込ませてしまったらしい。はて、どうしてだろう。昴の言うことも大概は嘘ばかりである、という意味を込めて言ったのだが。
ともかくこれでは元も子もない。なんとか励ましてあげたいが、先ほどは傷つけてしまったし……
「ともかく、ホームルームの時間だが。えーと、クラス会長と副会長……って、お前ら二人ともだな。体育祭の打ち合わせがあるみたいだが、どうせ出場はしないだろうし、さっさと済まして来い。場所は生徒会室、時間は今日の放課後四時半な」
んじゃあそれで、と連絡事項を告げてホームルームを終えようとした先生を、昴が止める。
「あの、先生」
「ん?俺としては早くこの傷ついた心を癒しに行きたいんだが、どうした?」
呼び止められて面倒そうな声をあげて先生が応じると、昴は少し真剣な口振りで話し出す。
「いやぁ、私たちは体育祭に出場するわけじゃないから、その打ち合わせに行ったところで意味はあるのかな、と。それならもう、先生がを話を聞いてきてくれませんかね?」
……やけに真剣な口調のくせに、言っていることは割と酷かった。要するに、行くのが面倒だから代わりに言ってきてくれ、と。
「ええ?お前ならそういうと思ってたが、それはちょっとな……」
やはり面倒そうに、先生が答える。すると昴は意地悪そうに「へぇ~」と言い。声を若干明るめにして
「じゃあ、ご自由にどうぞ。私はさっきの話を職員室に行って広めてきましょうかねー」
と。容赦なく先生へと告げた。まさかやるまい、とは思っていたが。こいつ、とうとう先生を脅迫しだした。
「ちょっと待てお前!? その話はさっき無事に終わっただろ!」
「ええ? なあなあにしたままだったじゃないですか」
席から立ち上がったらしい昴は、教卓の方へと歩いいているのだろうか、意地悪にそう言った。こいつ、絶対ゲス顔で笑ってるんだろうな。
「流石に止めてやれよ、昴。先生はいろいろ傷ついてるんだ。それにいい加減にしないと、この間お前がやらかした話を僕も広めるぞ?」
僕の言葉にまたもや机を叩く音がして、昴が先ほどの先生のように慌てて僕へと抗議する。
「はあちょっとアンタ! 今何も不利益を被ってない人が介入してくるのは違うんじゃないの!?」
「いやそもそも一方的に生徒にいじめられてる先生を助けることに何の間違いがあると思ってんだよ! あとかわいそうだからほんとやめてやれ」
「生徒に一方的にいじめられる教師ってどんな状況に陥ってるんだ、俺」
僕が昴に対して突っ込んでいると、先生が悟ったように呟いた。そのまま先生は「とりあえず、お前らが行く必要があるかだけ聞いてきてやるから、おとなしく準備しとけよ」と言い残し、職員室へと向かった。結局昴は嘘を広めるつもりはないようで、先生が去るとおとなしく席について話し出した。
「憐はさー、運動ってできるの? かなり不自由だとは思ったんだけど、そこのところどうなの?」
僕は運動は当然ではあるがあまりせず、基本的にインドア派だ。しかし、この眼のこともあり家でゲームや読書、テレビを見ることもできないため、趣味は筋トレと昼寝という、なんとも変な組み合わせになっているなのだった。
「運動はできないけれど、筋トレはしてるよ。やっぱり、この眼が邪魔だからね。この眼さえなければ、僕はもっといろいろやってると思うな」
僕の少し真面目な返答に対し、昴は「ふむ」と小さく呟いて続けた。
「つまり、私が今憐に対して優位に立てているのはその眼のおかげだということか」
「お前はあれか、どこぞのゲームの先住民族みたいに、実力で下につくかどうかを決めるやつかよ!」
そして僕の眼が普通に見えていても勝てるんじゃないかと思ってたのかよ!
基本的に昴は活発な性格をしているが、自分が面倒と思ったことはやらないというきらいがある。そのため我が儘が多かったりもするが、やる気が出ればとことんやるのでうまく扱えれば非常に頼もしい。
「授業始めるぞー、静かにしろー」
ドアが開いて入ってきたのは、またもや綿貫先生だった。そういえば化学は綿貫先生の担当だったな、と思いながら僕が号令を言おうとすると、昴が口を開いた。
「はーい。って、また先生ですか。さっきので終わりかと思ってたんですが……お帰りいただけますか?」
「お前は辛辣だよなぁ、古茂田。せめて九みたいに、歯に衣着せるぐらい覚えろよ」
先生が持ってきたプリント類を揃える音を立てながら、先ほどのことを流したように続ける。
「ああそうだ、さっきの打ち合わせの件だがな、お前ら行かなくていいみたいだぞ。競技に出ないからな。席も当日知らされるみたいだし、今日は普通に帰っていいみたいだ」
「おお、先生にしては有能ですね。あの話はなかったことにしてあげましょう」
昴が若干喜んだような声をあげて先生へと返す。というか、さっきのことをまだ言っているとは。割と根に持つことあるからな、こいつ。
「お前その話まだ引きずってたのかよ」
「とりあえずマジで授業始めるから、ちゃんと席につけ、古茂田」
僕が突っ込んだ後すぐに授業を始めようと、先生が声をかける。
その後も僕たちはいつも通りに授業を受けて、やはり平凡な一日を過ごすことになりそうだった。
「てかさ。いつも思ってたんだけど、よく普通にご飯食べれるよね、憐」
僕としてはもう慣れっこな食事だが、やはり目が見える昴からすれば不思議なのだろう、彼女はおもむろにそんなことを訊いてきた。
「別に不便じゃないよ、これくらい。だってパンを口の所まで運ぶだけだからな」
僕はお弁当だと少々食べにくいこともあり、普段はパンをお昼ご飯として持ってきている。その方が食べやすいということもあってのことだが、
「ふーん、まあずっと生活してればそりゃ慣れるか」
そう言って、昴は食べるのを再開する。僕の視界には昨日の昴が移っていて、彼女は好物の唐揚げを黙々と食べている。なるほど、昨日昴がやけに静かだったのはこういうことか。
そうして昼食の時間も終え、僕たちは授業を受けた。時折昴が暴走することもあったが、まあいつも通りの一日だったと言えるだろう。
「そんじゃ、これで終礼も終わりだ。気を付けて帰れよー」
終礼も終わったことだし、僕がもう帰ろうとしていると、唐突に昴が声をかけてきた。
「ねえ、憐」
「どうした、学食でも食べたいと言われても僕はその期待に応えることはできないが」
僕の言葉に、昴は「いや、なんでもない」と返し、こう続けた。
「明日もちゃんと、学校に来てよね?」
「当然のことを訊かないでくれよ、昴」
僕が学校に来ている理由の一つ、それを知らない昴にこう言うのは少し変かもしれないが。僕はまだ、昴のことが好きなのだから。
§ § §
翌日も、僕はいつも通りに登校していた。時間的にはあいつが登校していてもおかしくなかったのだが、彼女はまだいないようだった。暫くして綿貫先生がホームルームにやってきたが、どうやら先生も彼女が来ていない原因を知らないようだった。
「まあ、とりあえずあいつの家に電話かけてみるから。ちょっと待ってろ」
そう言って先生は職員室に戻り、僕は教室で先生を待っていたのだけれど。どうせ風邪か何かだろうなと思って待っていると、先生は勢いよくドアを開けて息を切らしながら僕へと伝えた。
「九、古茂田だが、事故に遭ったらしい。さっき家族に確認したんだが、今日未明に亡くなったようだ」
「……?」
言葉が出ない。まさか、昨日あんな元気だった彼女が死んでしまうはずないだろう。きっと何かの間違いだろう、きっと、きっと、きっと、彼女は生きて──
「九。信じられない気持ちはわかるが、これは事実だ。落ち着いて聞け」
先生によれば、彼女は夜道を歩いていたところ、信号無視をしてきた車にはねられてしまい、打ち所が悪く亡くなってしまったようだ。
「とりあえず、これで俺の知ってることは全て話した。いつも通り授業はあるが、無理そうなら言え。欠席扱いにはなるが、お前は成績はいいし大丈夫だろう。……あんま思いつめんなよ、九」
それだけ言って、先生は去って行った。僕の目には、いまだに昨日のやり取りをしている彼女と先生が映し出され、口論をしている。その風景を見て「ああ、昨日はこんな感じだったのか」といつも通りに捉えることができるはずもなく、僕は涙を流してしまった。彼女はもういない。だから僕は彼女のことを一切感じることはできないはずなのに。僕の視界には、彼女が映っている。この眼のせいで、この、大っ嫌いな僕の眼のせいで。でも、この眼がなければ僕は今彼女のことを見れていない。それならば、今だけでもこの眼には感謝すべきなのだろうか。
結局のところ、先生に言って授業は休みにしてもらった。けれど、家に帰って休みはしない。昨日の彼女が見られるなら、後悔のないように最後まで見ておこう。もう見ることができない彼女を、僕の眼に焼き付けておこう。
そして結局僕は、彼女が車にひかれたと思われる場所まで来てしまっていた。彼女の残像を追いかけて、忘れないために、取りこぼさないために。僕の視界では彼女が信号の前にいて、携帯をいじりながら待っている。間もなく信号が青になり、彼女が横断歩道を歩きだす。もう彼女は死ぬだろう。そうなってしまうのが正しく、僕に結果を変えることなんてできないのだけれど。僕はなぜか、彼女の残像に手を伸ばしていた。
「ほんとうに、馬鹿馬鹿しいことをしているな、僕は」
いっそこのまま昴のように死に、彼女の所へと行ってしまいたい。
そう望んだ瞬間、お腹のあたりから鈍い音と強い衝撃が走り、僕の視界は黒く染まった。
この物語はまだ続きます。が、部誌の発行ペースの都合により続きの掲載は恐らく三月ごろになると思われます。もし要望などあれば早めに載せるかもしれません。