苦肉の策
◇颯
扉をくぐって戻ってきたのは、思った通り宿り木ホテルの大広間を出てすぐの場所だった。導きの神と会話することで少し落ち着くことができていたので、今は冷静に立ち止まり、後ろにいる彼女と顔を合わせることができる。
もう彼女は黒いもので覆われてはいなかった。けれど、初対面の時とは異なる印象を受ける。美しさの中に棘を隠し持っているのは明らかだった。その人間らしい雰囲気を隠さないところは、ある意味清々しい。
「里千代さん、すみません」
「もう、お逃げにならないのですか?」
それは、少し挑発めいた節回しの声だった。じゃぁ、今日は特別にその喧嘩は買ってあげよう。僕は勇気を出して里千代さんに向き直った。
「逃げません。ですが、こういったことは、ある程度段階を踏むべきだと思うのです」
「まさか、お友達からとか……」
やっぱり、読心術を持った魔王なのではなかろうか? ギクリとしながらも、ゆっくりと返事の声を絞り出す。
「いえ、婚約者からです。やはり女性にとって結婚とは一生に一度の大イベントですから、準備などもいろいろあるでしょう?」
「そうですね。私はどこぞの桃色の髪の娘のように、思い立ったが吉日とばかりにプロポーズ当日に挙式といった暴挙はしたくありません」
それって、もしかしなくても楓さんのことですよね?
「それに、まだお互い知り合ったばかり。もう少しお互いについて理解を深め合い、気持ちを高めていくことが大切だと思うのです」
「打倒、『養翠之館』!の志は十分に高ぶっておりますわ」
あ、ブレない方なんですね。ちょっと分かってきた気がした。どちらかと言えば、僕が里千代さんの実態について詳しくなって、様々な対策を考えていく時間が必要そうだ。それでは気を取り直して、苦肉の策を提案してみましょうか。
「そうですか。ではまだ婚約者の身ですので、本日のところは止まり木旅館に戻ります。正式にあそこの従業員となってから、一緒になってください。やはり、甲斐が無いとは思われたくありませんし」
お願い、里千代さん。僕にしばし作戦を練る時間を!! そう念じながら口走る僕は、止まり木旅館では給料が出ず、欲しいものは仕入係にお願いして現物支給されるシステムだということをまだ知らないのだった。
✽✽✽
「そんなわけで、正式に従業員にしてください!」
宿り木ホテルから戻った僕を出迎えてくれたのは、女将の楓さん始め、止まり木旅館従業員全員だった。
「あの、本当にいいの? あなたが里千代様と結婚してくれたら、翔が私から奪われる心配はなくなるわけだし、ほっとするけれど……」
楓さんは、自分から言い出したことにも関わらず、妙な気遣いをしてくれている。変なの。
「はい。構いません。言い方はおかしいかもしれませんが、僕なりに勝算はあるんです」
「そうなの? じゃ、彼女のことをお願いね」
「はい。あ、でも一つお伝えしておきたいことが」
「なあに?」
「翔さんは、僕のペットになりました。今後、僕の精神的平穏のめに、頻繁に借り出すこともあるかもしれませんが、ご了承願います」
「ペ、ペットぉおおお?!」
わーお。楓さんの桃色の髪が重力に逆らって爆発した。すごいな、時の狭間の人は。僕もいずれ、こういう珍芸ができるようになるのだろうか。
「はい。楓さんのお父様と名乗る変な神様からもお墨付きを得ましたので、問題ないと思います」
あらかじめ上司からの承認を得ていると、物事何でも進めやすいものだよね。
「研さーん?!!」
楓さんの頭からは、湯気が立ち上り始めた。すごいな、人間じゃないみたい。って、そうか。楓さんは少なくとも神様のハーフなんだから、こういう小技もできるんだろうな。
こうして楓さんがご乱心の末、僕が従業員になる儀式や命名は翌日まで延期されてしまったのである。
後々、潤さんに確認したところ、この後楓さんは女将部屋の文机の引き出しに隠し持っている謎の巻物を使い、父である神に長文の苦情を書いて送りつけていたらしい。その結果、翌日から毎朝楓さんの部屋の前には神からの貢物として、若い女の子が好みそうなスイーツがデリバリーされるようになったとか。でも楓さんは、「太らせる気か?!」とさらにキレて、タブレット越しに母親である千景さんから「そろそろ許してあげなさい。飼い主とイッテモ相手は男の子なんだし、浮気されたわけでもないでしょ?」と窘められるまで、機嫌が元に戻らなかったそうだ。
ん? 僕は別に悪くないよね?
✽✽✽
次に従業員全員か集まったのは翌朝のことだった。
僕の元の名前『ドンクル』は疾風という意味。それを聞いた楓さんが何となく決定したのが『颯』という名前である。竜騎士であった僕にとって、風という字が入ったこの名前は大変名誉あることに思えた。
従業員になる儀式は簡単。楓さんが僕の名前を書いた札を女将部屋に飾るだけ。他の人の名前も全部横に並べて、壁の高い所に飾ってあった。
ここまでが、表向きの儀式。つまり、裏儀式というものが存在する。
呼び出されたのは翔さんの部屋だ。翔さんは、楓さんの絶対的守護者らしい。何も悪いことをしていないのに、楓さんの敵にならないこと、楓さんを何より大切にすること、楓さんのためならば従業員一堂結束しなければならないことなど、小一時間説教された。単に翔さんは、僕のペットになることが嫌で、この場で上下関係をはっきりさせておきたいという意図があったなんて、この時はまだ知らなかったから、妙に疲れてしまった。それに、僕の元の世界には正座という習慣は無いんだよ、やれやれ。
そして、『楓さんを大切にすることを誓います!』と宣言させられた時。僕は、早速癒やしが欲しくなった。
「あの、翔さん」
「ちょっと飛びたい気分なんで、竜になってもらえません?」
導きの神からはペットにする許可は得たものの、実際に前にしてみると、そんな可愛いものじゃないことが分かってしまう。竜が好みそうな肉や薬草を貢いでも、反応はいまいちだし。本来ならば、頭や背中を撫でたり、名前も呼び捨てにしたいところだけど、そんな親しい間柄になかなかなれるはずもなく。とは言え、そこに竜がいるのに乗らないなんて選択肢はありえないのだ。
すると、翔さんはちょっと困ったように肩を竦めた。同時に集まっていた他の従業員達にはざわめきが広がる。あれ? もしかして、何かの地雷を踏み抜いた?!
「確かに俺は竜だ。人に化けられる竜。でもな、俺はもう竜に戻ることができないんだ。それが、ここ時の狭間に来てしまった理由でもある」
な・ん・だ・とー?!!!