父は還俗したい
◇颯
目を開けると、白い空が見えた。背中には砂地の感覚。大の字になって、僕はどこかに倒れているらしい。ん? ここはどこだ? もしかして、死後の世界。もしくは神の……
そこまで考えた時、すぐ近くにとてつもなく大きな気配を感じる。自分よりも強い者の放つ気。咄嗟に跳ね起き、重心を低くとって体術の構えを取ることができたのは、騎士見習い時代のスパルタ訓練の賜物だ。
「誰だ?!」
こう尋ねてまともな答えなんて返ってきたことはないけれど、ここまでがテンプレなので許してほしい。
「ようこそ、時の狭間の迷い子よ。私は、導きの神」
「神? つまりここは……」
目の前に立つ男性は楓さん達と少し良く似た白装束を纏っていて、光源も無いのにその存在自体が辺りを煌々と照らし出している。堂々たる佇まい。彼が神であるということは、すんなりと受け入れることができた。
「ドンクル。君は君の世界で無自覚にもあることに不満を持っていた。そして時の狭間に迷い込んでしまったけれど、我が娘のもてなしと時の狭間で知ったある物の素晴らしさに負けて、帰る術を失ってしまった」
さすが神と言おうか。僕が薄々気づいていたことにまで明言されてしまった。
僕が時の狭間から元の世界に帰れないのは、楓さん達が悪いわけではない。敢えて言うならば、僕自身が時の狭間に来てから変わってしまったのだ。ここへ来て初めて触れる感覚や知識。あっという間に虜になってしまい、元の世界へ戻ってまた騎士としてやり直すことも、または辺境に隠れて田舎暮らしするのも思い描くことができなくなっている。きっとこれがそもその原因なのだけれど、これまで力を尽くしてくれた楓さんには一生打ち明けられない気がする。
「そして、今度は無理矢理結婚させられそうになって、あろうことか、君は自分の口から彼女に『結婚しよう』と言ってしまった」
「たしかにそんな気もします?」
我ながら、楓さんの発案からかなりの急展開をさせてしまったな。結婚話ってこんな簡単に進むものだっけ?
「重要な事をあまりに簡単に決断してしまうということ。つまり、それだけ追い詰められてしまっているということだね」
神は少し意地悪く笑う。
「ここは、時の狭間の住人が何かに差し迫った時に飛ばされてくる空間なのだよ。ここから出るためには、その解決策を考えなければならない。私でよければ相談に乗ろう」
そう重々しく言われると、なんだか神がさらに神々しく見えてくる。僕は思わず頭を下げていた。
「それでは、導きの神にお願いを申し上げます」
「なんだい? 久しぶりに神扱いされると緊張してしまうよ」
つまり、日頃は天人や天女、楓さん達には神扱いされていないということか。と気づいたところで、もしかしてこの方は神としてあまり力を持っていないかもしれないという不安がよぎる。けれど、これだけは言っておこう。
「確かに僕は追い詰められているかもしれません。でも、自分の選択に後悔はしていません」
「え? そうなの?」
「僕も里千代さんも、元々時の狭間の人間ではありません。ですから、時の狭間は居心地が悪いわけではありませんが、やはり地に足がついていない不安定さがあるんです。でも、事情はどうあれ、僕たちはまだこうして生きている。だったら、与えられた環境が過酷でも、必死に足掻いて、少しでも自分らしい幸せに辿り着きたいって考えてしまうんですよ」
ちょっとカッコつけすぎたかな? でもこれは本心。僕は時の狭間に来て以来、元の世界にはなかった知識をたくさん手に入れた。これを駆使して、もっと大きなことをやってみたい。
神はじっとこちらを見つめたままだ。僕は再び口を開いた。
「里千代さんは僕よりも長く時の狭間にいて、たくさんの苦労をしてきたと思います。だから、結婚というよりかは、同じ境遇のパートナーとして支えてあげたいし、今後の人生をより良いものにしていきたいですね」
「それで?」
「ですから、神にはただ、見守っていただきたいと思っています。僕がサポートして、里千代さんの野望が叶うように。そして僕が、時の狭間の住人として楽しく生活していけるように。後は……できれば、健康だけは損なわないようにお守りください」
「それだけ?」
「これだけです。たぶん里千代さんは本物の魔王ですが、おそらく純粋な心をもった魔王のような気がするんですよね」
ここまで話した時、知らず知らずのうちに自分の頬が緩んでいることに気がついた。里千代さんのことをどうしても悪く思えないのは、あの美貌のこともあるけれど、やっぱり婚活百連敗しても次へ挑むことができる強い忍耐力や根性に敬意を表したいからだ。彼女ならば、僕がこれから時の狭間の住人、そして止まり木旅館の従業員としてやっていくだけの勇気と馬力を与えてくれそうな気がする。
けれど、待てよ? 里千代さんとこれから暮らすにしても、やっぱり癒やし要素は必要だ。常に黒い魔力と隣り合わせで過ごすのは、正直精神的にツライ。となると、交渉だな。
「あ、すみません。もう一ついいですか?」
「何だね?」
「止まり木旅館の女将である楓さんのご主人、翔さんのことなんですが。彼を正式に僕の騎竜にしてもいいですか?」
「いいぞ!」
即答?! しかも今、めっちゃ返事するの速くなかったか?!
「あいつはうちの楓にあんなことやこんなことを……!! きーっ!! やっぱり嫁になんてやるんじゃなかった!!」
「え? うちのって?」
「あぁ、まだ知らなかったんだね。楓は私の娘なんだよ」
そうだったのか。でも、似てないな。
「知りませんでした」
「そっかそっか。でも今後は私の娘として、大切にしなさい。なんてったって、楓は可愛いだろう? 可愛いよね? どう見ても時の狭間のアイドルだよね?!」
なぜだ。急に神から神々しさが消えた。
「そりゃあ娘が生まれた時点でいつかは別の男と……っていう可能性は考えたことあるけどさ、でも頭で理解できるのと認めてやるってのは別問題なんだよね。そりゃぁ、翔も楓を大切にしてるのは知ってるけど、結婚して以来ほとんど連絡もしてくれないし寂しくって……」
あれ。いつの間にか神の愚痴が始まってる?! 帰りたくてもまだ帰り道も分からないし、仕方なく僕は適当に頷いておいた。
「そうだろ? よく分かってるじゃないか! 全てはあいつ、翔のせいだ。だから、君は最後の望みなのだよ! 翔をペットにして、楓からできるだけ引き離して、楓にはたまには手紙を寄越すようにと伝えてくれ!! あー、もう神をやめて本気で還俗したい!!」
別にペットじゃなくてもいいんたけどな。たまには竜に跨って空飛びたいっていうだけで。でも、竜の鱗って触り心地が面白いし、癖になるんだよね。せっかくお墨付きになったんだし、僕の好きにさせてもらおう。と、心が決まったので、僕は神に良い返事をしておいた。
「分かりました。お任せください!」
「よし。頼んだぞ! では、行け!」
「はいっ!」
このやり取り、なんだか騎士団の小隊長時代を思い出すな。当時の団長は、今でも元気にやっているだろうか。ふっと懐かしい気持ちになった瞬間、背後からふわっと風が流れた。扉があった。確かこれは、宿り木ホテルの大広間の扉。
この扉を抜けると、里千代さんが待っている。そして、竜も待っている! そして、これでようやく、止まり木旅館の従業員だ!
僕は、扉の取っ手に触れた。新たな人生の第一歩を踏み出した。