里千代様の目覚め
◇颯
うわぁ、真剣に帰りたくなってきた。敵前逃亡なんて柄じゃないけど、騎士仲間も女ほど怖い魔物はいないってよく言ってたもんな。でも、なぜか扉は現れない。
楓さんも同じようなことを考えていたのか、僕の背後を少し睨んだ後、ため息をついた。
「ドンクルさん、ここまで差し迫っても元の世界に帰れないってことは、そろそろ腹を括らなくちゃいけないわね」
「ということは、今のは単なる脅しだったんですね?」
「ん? そんなわけないじゃない。あなた、翔には劣るけど顔もそこそこ良いんだから、早々簡単に諦めないわよ!」
「あの、それってどういう……」
「つまり、こういうことよ!」
楓さんが指をパチリと鳴らすと、どこからともなく潤さんが現れ、楓さんに一枚の紙を差し出した。楓さんはそれを僕の手に無理やり握らせる。
「これは宿り木ホテルへの紹介状よ。今、彼女はそこに滞在しているの。既にあなたの釣書はあちらに送ってあるから、後は身だしなみだけ整えて、さっさと逝ってらっしゃい!」
「え、どうやって行くんですか? 僕だけで行くんですか?」
「そうねぇ……お客様だけでは他の旅館へ行けないし、でも私は忙しいし、困ったわ」
あざとく小首を傾げる楓さん。日頃のドタバタや中身さえ知らなければ、とても可憐な女将さんだ。その時。
「女将、お客様の送迎はお任せください」
「忍くん! どうもありがとう! とっても助かるわ」
喜んでぴょんぴょん跳ねるその姿は、心底嬉しそうなだけに、こちらの不安は余計に募る。ま、同行してくれるのが忍さんならば安心かもしれない。たぶんこの人は、止まり木旅館の中でも常識人の部類に入るからな。僕はまだまだ元の世界に帰れそうにないし、仕方ないからこの無茶振り、乗ってあげようか。
***
というわけで、やってきました宿り木ホテル。ドドーンっという効果音が聞こえそうな程巨大な高層ビルがそびえている。日本式の建築物らしい。僕の感覚で言うと、外観があまりに殺風景でツルンっとしている気がする。もう少し凹凸とか彫刻とかあっても良いのではないだろうか。
そんなことはさておき、僕は忍さんに先導されて見合い会場である大広間のテラスへと向かった。実は、見合いは初めてではない。騎士団長になってすぐの頃、前団長や、別の部隊の副団長からの紹介で、数人の貴族の女性と顔合わせしたことがあるのだ。たいてい着飾るしか脳の無い馬鹿ばっかりで、顔には『王子はゲットできなかったから、アンタで我慢してあげるわ』と書いている。こちらこそ、顔に『お前のこと嫌い』と書いて一言も喋らずにおいたので、すぐに話が白紙になったのは言うまでもない。
さて、異世界の魔王とも称される女性はどんな人物だろうか。結局武器も装備も無く来てしまったけれど、太刀打ちできるのだろうか。でも忍さんだって丸腰だし、何かあったら助太刀ぐらいしてくれるだろう。僕は深呼吸をして、重い扉を押し開けた。
「はじめまして。里千代と申します」
白いティーテーブルから立ち上がった彼女はたおやかな仕草で腰を折った。艶々の黒髪がさらりと前へ流れて、また背中側へと戻っていく。
……綺麗だ。
その目鼻立ちは、どこぞの有名な芸術家が何十年もかけて造り込んだかのような完璧なレイアウト。『美』の代名詞にもなれそうな稀有な容貌と、しとやかな佇まい。これでは魔王どころか、聖女じゃないか!
非現実的な存在感に圧倒されて、なかなか返す言葉が見つからない僕。忍さんは、わざとらしく咳払いした。
「里千代様、こちらはドングリです」
「ドンクルです!」
「ドングリ様?」
「違います! ドンクルです!」
その時、里千代さんはふんわりとした笑みを微かに浮かべた。その唇は、散り際を目の前にした薔薇の花弁みたいで、吸い込まれそうになる。気づいた時には、僕の手をしっとりとした白い小さな手が包んでいた。
「私、長い間『木物金物石仏』というホームステイ斡旋のお店に滞在していたのですが、なかなか婿殿が見つからないのです。そこでこの度、場所を移しまして、この宿り木ホテルに参りましたの」
「はぁ」
僕、ここに来てからまともな事しゃべってないな。
「ドンクル様は元騎士様なのでしょう? 私は姫ではありませんが、日本では老舗旅館の跡取り娘です。いきなり婿にとまでは申しません。せめて、私に仕えてくださいませんか? 私は……心細いのです」
「はぁ」
忍さん曰く、彼女も僕のように長い間元の世界に戻れていないらしい。それも一年となれば、ホームシックにもなるだろうし、慣れない場所で今後のことも決まらなければ何かと辛いことだろう。
それは僕も同じだ。元の世界に戻れない僕には、全部で三つの選択肢が残されている。一つ目は旅館の従業員になること。二つ目は異世界に行って現地の女性と婚姻を結び、そこで定住する方法。そして奥の手で一番危険な三つ目は、時の狭間に住まう神々の下僕として天人に転職すること。これは、もれなく肉食系天女によるハーレムという名の地獄がセットになっているらしい。
てことは、やっぱり一つ目の従業員ルートが一番無難だ。つまり、楓さんの出した条件を飲まなければいけなくなる。
僕は忍さんに話しかけた。
「忍さんなら、どうします?」
「家臣たるもの、主君には忠実にあらねばならない。楓さんの言う通りにするのが一番だ」
どうやら、意見を尋ねる人を間違えたみたいです。やれやれ。
どちらにせよ、僕は詰んでるな。このままでは自動的に天人ハーレムルートのハードモードに突入してしまう。それに、里千代さんは、案外素敵な人かもしれない。だって、こんなに綺麗はなのだから。これまでお見合い百連敗とのことだけど、きっと皆見る目がなかったのか、価値観や美意識がおかしかっただけなのにちがいない。
よし。腹は決まった。
「分かりました、里千代さん。でも僕は、もう騎士ではありません。だから、普通に結婚しましょう」
「それ……本当ですか?」
その時、彼女の背後から薄っすらと黒い煙が吹き出していたことに、僕は全く気づいていなかった。
「言質は取りましたよ?」
僕の手を握る力が急に強くなる。え?と思った時には、もう遅かった。
「それではドンクルさん。打倒、『養翠之館』! くたばれ、止まり木旅館!ということで、私と一緒にがんばっていきましょうね!」
そう里千代さんが告げると同時。彼女の身体から瘴気のような真っ黒な霧が吹き出て、それがあっという間に拡散して空高くまで届いてしまった。この世の終わりがやってきたかのように、一時空が真っ暗になる。轟く雷鳴、吹き抜ける突風。目の前の里千代さんの黒髪が重力逆らって舞い上がり、赤い唇がはっきりと弧を描く。
「ま、魔王……」
この緊急事態に気づいたのか、里千代さんの背後には宿り木ホテルの従業員と思しき方々が大勢集まってきた。その中心にいるミニスカートと赤いスカーフの気の強そうな女性が呟いた。
「ついに、目覚めてしまったのね……」
もしかして僕、巨大時限爆弾のリミッターを解除してしまったのだろうか。一瞬、頭の中が真っ白になった。けれど、すぐに騎士団長としての勘を取り戻す。
まずは状況確認。敵は圧倒的な魔王の力をもって完全に我が平穏な心を制圧しつつあり、戦況はかなり苦しい。そして被害状況。心の負傷兵一名、僕。未知の旅館という地理感覚の無い場所だけれど、唯一の武器は今のところ五体満足なこの身体のみ。
となると、つまり最善は『逃げるが勝ち』! 長年の経験から言って、勝てそうにも無い相手と真正面から闘い続けるのは馬鹿がすることだ。だからこれは勇気ある撤退なのだ!
僕はテラスを飛び出して広間に駆け込んだ。ホテル入口までの道順はちゃんと覚えている。とりあえず止まり木旅館に帰ろう!
そして広間の扉を体当たりで押し開けた瞬間、視界はホワイトアウトしてしまったのだった。