続・ユリの花
◇五月
木製の扉を開けてみると、そこには見知った風景が広がっていました。ここは母のご実家。先程までいた純和風旅館よりかは小規模になりますが、それなりの邸宅です。私はおばあ様から逃げて、この納屋に隠れようとしていたのでした。
ところがです。扉を開けるとあるはずの薄暗い納屋ではなく、そこは見ず知らずの場所なのでした。それを一番実感させてくれたのは、私を出迎えてくれた桃色の髪の女性。見たところ、その桃色は大変自然なもので、染めたもののような感じがいたしません。堂々とした風体と美しい所作の方でしたが、私とそう年齢が違わないものと思われます。しかも面識はないはずなのに、私の名前を知っていらっしゃったのです。
私は、まるでファンタジー小説の中に迷い込んでしまったようだと感じました。そして何より、その場所の空気感は体験したことがない程穏やかなもの。頬で感じるその空気があまりに柔らかく、緊張しなければならない場面であり、相手も初対面なのにも関わらず、うっかり地が出てしまう程自然体になれました。
初めは、私が白昼夢か何かを見ているうちに、どこぞの御宅の庭に迷い込んでしまったのかと思いましたが、絶対に違う。そう確信したのは、旅館の客室に案内されてからです。そして出されたお茶を飲んでいると、その適切な温度と渋すぎず薄すぎない味わい深い緑茶の味が身体に染みわたります。あまりにリアルな感覚なのです。私は急に不安になってきました。
これ、もしかして夢ではない?
テンプレかもしれませんが、自分で頬をつねったり、何度も瞬きしたりして過ごします。はい。やはりその感覚は夢ではなく、現実なのでした。となると、いったい私はどこへ来てしまったのでしょう。一見良い人のように見えるこの旅館の方たちに、この後どんな扱いをされるのでしょうか。急激に膨らむ不安。私はお行儀が悪くも、思わず声を荒げてしまいました。
「か……帰らせて!」
すると、こんな答えが返ってきたのです。
「五月様が、この止まり木旅館に満足してくださいましたら、自然とお帰りの道が開けます」
有無を言わさぬ威圧感が、私の身体にぶち当たって弾けました。詳しい説明を求めることも、何か言い返すこともできません。
次にやってきたのは黒髪の愛らしい小柄な女性でしたが、顔つきは日本人というより中華風の美人で、話す言葉は日本語です。その手には、生け花がありました。ユリの花が生けられています。
気づいた時には、そっと机の上に置かれた花器に駆け寄っていました。ユリの花は先ほど私がこの旅館に着いた際、すぐに庭で咲いているのを見つけました。ユリの花は、私にとって因縁の花ではありますが、やはり母を象徴するものです。
活けられた花は凛とそこに佇んでいました。今は亡き母が立っているようで。ある生け花の流派を引き継ぐ母の実家において、母は次期家元として期待されてきました。しかし、その娘の私の方が明らかに筋が良かったのです。おばあ様は実の子である母を差し置いて、私への教育に力を入れるようになりました。母は美しい人だったので、私は同じ生け花をする者同士であると同時に女の子としてのライバル感を持っていましたし、おばあ様に選ばれて優越感に浸っていたかと思います。ですから、母が姿を消す予兆なんて全く気付いていませんでした。
再び母と見えたのは、それから一年後。母の身体は冷たくなり、白い布団へ横たわっていました。事故死ということでしたが、母が好きだったユリの花束を抱えて亡くなっていたと聞く限り、私には事故とは思えません。おばあ様はそれ以来、ユリの花を使うことを禁じるようになりました。私はそれが悲しいのかどうかも分からない程に心が麻痺していったのです。
久方ぶりに見るユリの花。黒髪の中居さんが生けたユリは、母の手によるものと何となく似ている気がしました。みるみるうちに涙が溢れて、人目もあるというのにそれが止まる様子はありません。
もしかして母は私を迎えに来たのでしょうか。おばあ様の言いなりになって、心身共にすり減らす私は遅かれ早かれ儚いものになっていかもしれません。私は、ユリの花に触れようと手を伸ばします。途端に、手指がチリチリと熱くなりました。
そうか。
私は理解しました。母は私を死の世界へ誘うために迎えに来たのではない。元の場所へ戻れるように、迎えに来てくれたのだと。私は母を忘れないし、無視もしない。それでいて、勝手に美化することもしない。共に花を活けた穏やかな時間を思い出すと、ますます涙は止まらなくなります。もし、私が『帰ら』なければ、あそこでありのままの母を覚えている人は誰もいなくなってしまいます。私はそれが嫌だと思いました。
私は、花を生ける。生きる。母の分も。
私は、負けない。
その時です。背中に風を感じました。扉です。僅かに地面から浮いた場所に浮かび、それはもう科学技術では説明ができない神秘的なものでした。
「五月様、いってらっしゃいませ」
「この度はご利用ありがとうございました。もう二度とお会いすることがありませんよう、従業員一同お祈りしております」
木扉をくぐる寸前、そっと振り返ると頭を下げた若女将の姿が見えました。彼女もあの若さで旅館を仕切っているのです。私もこのままいけば、異例の若さで家元として祭り上げられてしまうのでしょう。でも、きっと大丈夫。私以外にもがんばっている同年代がいるのだ。私も必ずこの試練を乗り越えることができるし、乗り越えなければ。
あぁ。これはやっぱり夢なんだ。神様が私を応援するために見せてくれたに違いない。
見回すと、母の実家の広い庭の一角でユリの花が咲いていました。この庭には存在することが許されないはずのユリ。しかし、何度見てもありました。大きな木の影にあるので、すぐには気づきにくい場所だったのです。
「ありえないわ」
そう呟きながらも、私はセーラー服のリボンを翻しながらユリの花に近づいていきます。しゃがみこんで、白い大きな花弁に唇を寄せました。早速活けて飾ろうかと、一本を手折ります。花の香りが私の心を満たし、一気に力が漲りました。
その瞬間、ふと視線を感じて立ち上がると、渡り廊下に立つおばあ様の姿が見えました。いつもの威厳が嘘のように形を潜め、少し気まずそうにしているご様子。それがあまりに可愛らしく、ついつい頬が緩んでしまいます。
「おばあ様、一緒に活けましょう」
今回は『止まり木旅館の若女将』第1話の裏話的な物語でした。
次回は、またまた密さんの語りに戻ります。