路地裏の出来事、バックヤードでの出来事 ~黄昏 夕景~
前話の三倍の量になったので分割。
本日はもう一回更新します。
辺りが暗くなるにつれ、街灯が溜め込んだ魔力を消費して明るくなっていく。
だが今の俺では、その明るさを微かに感じることしかできない。
高級住宅街や繁華街に行くほど街灯の数が増えるが、歓楽街は敢えて控えめになっていたりする。
歓楽街では、男も女もそこそこの暗さが必要としている。しかし慣れない者が釣られて暗い所に足を踏み入れれば、スリや強盗にあう危険があるのはどこも同じである。
こんな目の為か、俺は昼より夜の方が歩きやすい。
汗を流して新しい服に着替えた俺は、薄手の夜用の目隠しをつけ、申し訳程度に杖を突いて彼女の店に向かう。
繁華街はまだ人通りがあるので、その外れを進んでいると、ふと顔を向けた先に人の形を認識する。
それも二人組だ。
すると片方がゆっくりと足音を立てて前から来るのに対し、もう片方は物音もたてず俺の後ろへ走って行く。
俺の耳に聞こえないとは、本職の中でも結構な手練れだな。今でも後ろからの足音は聞こえない。
だが気配を隠しきれておらず、尻に視線が突き刺さってむずがゆい。ヒップポケットの財布に意識が行っている辺りまだまだだ。
前からの足音がわざとらしく大きくなる。
恐らく、俺が盲人と踏んでの行動だろう。その音に乗って俺は大きく避けるが、向こうもタイミングを合わせて同じ方向に避けて──ぶつかってしまった。
”タッ”
後ろの奴がうっかり一回だけ足音を立て、加速したのが分かる。
「あっ!兄さんわりぃ!」
「あわわわ、すみません避けたつもりだったのですが!」
ぶつかって倒れてしまわぬように支えている態なのだろうが、上着のポケットをまさぐられていく。
あわよくば身ぐるみスリ取るつもりか。
こちらも慌てている態で身体を触って行くと───胸に小さく硬い発展途上のふくらみがあるのが分かった。
想定外だ。
そんなことはおくびにも出さず、支え合いながら回転し、後ろから延びる手を避けていくと彼女を腕ごと抱き締める形になった。
しかも左手は小さなお尻を支え、もう片方は細い腰にまわされている。
俺の財布をスリ取るのに失敗した片割れは、足早に立ち去って行く。
俺は彼女の尻をもみしだく様な真似はせず、素早く腕を離した。
「すみません。目が不自由なもので。怪我はありませんか?」
「あ、あぁ。こっちこそ悪かったよ」心なしか彼女の声が震えている。
身体に対して顔が発熱しているのが見えるのは、さっきの俺の行為のせいだろう。しかし瞼はしっかり閉じたままだ。
「迷惑ついでで申し訳ないのですが、私の杖がその辺に落ちてませんか?」
それでも俺は盲人の演技を続ける。
「これかい?」
手にそっと手渡してくれるので、俺が礼を口にしようとすると、それを制するように音が鳴った。
”きゅるるるる”
「くっ」
「ははは!ちょっとお礼をさせて下さい。串焼きの一本でもおごりましょう。そこの外れの屋台でいいですよね」
そう言って俺は彼女の手を掴んで、売れ行き怪しい屋台へ引っ張って行く。
「ちょ、あんた目が見えるのか!?」
「見える訳ないじゃないですか。あれだけ香ばしい匂いがしてれば、見えなくても分かります」
「らっしゃい……」
「こんばんは。彼女にこれで食べられるだけ串焼きをお願いします」
寡黙そうな屋台の親父にそういって、大銅貨をぱちりと屋台に置く。
「毎度。……旦那はいいんで?」
「ええ、もう済ませているので。あと……彼女の友達にも同じ物を」
もう一枚、大銅貨を置く。
「ありがとうございやす」
焼台に串が載せられて焼きはじめる親父。
「あーそれから、きみきみ。もう落としちゃだめだよ」
先程スリ取ったくたびれた巾着を彼女の手に握らせると、その正体を知って息をのみ、慌てて身体を検める彼女。
「それじゃ、気を付けて」
返事を待たずに俺は彼女の店へ向かって行く。時間は食ったが許容範囲内だ。
★☆★☆
「大丈夫だった?何もされなかった!?」
隠れていた相方が走って戻って来た。
「くぅぅぅ、ちくしょう!」あたしは思わず地団太を踏む。
「盲人だと思ってカモろうとするからこういう目に合うんだ」
盗賊ギルドからのサポート役の親父が、串を焼ながら窘めてくる。
「二人組ってのもバレた上、お前、女ってのもバレるとか……」
「うっさいうっさい!くぅぅ確かに触られたけど、スられたのを分からないとは……悔しいぃぃ」
「えっ、どこ触られたの!?」
「あちこch、うっさい!」
「……お前のつるペタ触っても嬉しくないだろうよ。ほれ、焼けたぞ」
「えっ、食っていいの?やったー!」
能天気に肉を頬張る相方に対し、あたしは怒りと屈辱で串を睨みつけていた。
「……相手が悪かったな」
「え?」
「盲目の野良神官だよ、あの人は。昔は凄腕の斥候だったてのも、今の二つ名のせいで忘れられているが、察知に関しちゃ今の方が磨きが掛かってる位だ」
「へ?野良神官って何さ?んぐっ」
あたしは相方が串に齧り付くのを避け、肉を自分の口に運ぶ。
「神の声を聴くってのは、ある意味その神からの祝福だ。聞けて初めてその神の神官を名乗れる。聞けないうちはどれだけ信仰が長くても信者だ。実際の規定はもっと細々していて、聴けてなくても神官を名乗れるがな」
話しながら親父は新たに焼けた串を渡してくる。律儀に払われた代金分を焼いてくれるあたり、この人なんでギルド員やってるのか不思議に思う。
腹に食い物が入り、怒りが収まって行く。
「だがあの人は祝福を受けた神から呪いも受けている。本来、呪いを受けてしまうと祝福は消えてなくなる。両立はしないんだ。にも拘らず二つともその身に宿しているあの人は、神殿にしてみれば───あそこの場合は祠か。何でもいいが、存在を無視されているんだ」
さらにもう一本渡してくるが、食べるのが追いつかず両手に握りしめる。
「だけど、あの人は相も変わらず参拝はするし奉納もするし、魔法も──神の御業も気軽に使う。ああもホイホイ使われると有り難味も薄れらぁな。ほれ」
掛け声とともに渡されたのは、数枚の銅貨。
「釣りだ。いや、あの人からの稼ぎだな。少し食っちまったがギルドにゃ黙っといてやるよ」
★☆★☆
既に察しているとは思うが、俺は盲人ではない。
しかし人と同じ視界はもっていない。同じようには見えないのだ。
この呪いを受けた時、俺は酔っぱらっていて何が原因だったかよく覚えていない。はっきりしている事は、生きている限り酒神に酒を捧げなければいけないと言う事だ。
神の声を聞いた俺は、蟒蛇様の奇跡を授けることが出来るようになり、それと同時に二つの呪いをその身に宿した。
一つは酔えなくなった事だ。
この件でヤケ酒を決め込んだのだが、呑めども呑めども酔いが回らない。
酒が回ったかと感覚を確かめている最中に、ほのかな酩酊感は消え去ってしまっている。
それが分かってから俺は酒を止めようとしたのだが、酒を奉納しにいった所、一応の解決を見た。
いつも通りのやり方で杯を飲み乾し、再び満たして立ち去った時、口の中が芳醇な香りで満たされたのだ。
何度か繰り返して確かめた結果、奉納後は舌と鼻が敏感になり、酒と食事の味がすごぶる鋭敏に感じられるようになった。
しかもちゃんと酔えるのが分かったが、一晩経つと元通りになってしまう。
俺が祠に日参する訳はこれだ。
もう一つ目はこの視界。
俺は普段から意識して瞼を閉じている。
この呪いにより俺の目からは色が消え去り、物の温度が見える様になった。
慣れない頃は目をあけているとそれらが混じって見えて、頭がクラクラきていた。
色が消えたというのも正確じゃない。
よく分からないままに目を閉じて過ごしていたのだが、それにも拘らず目に映る色がある。
瞬きしたり、目をつむって触れてみれば、ちゃんと瞼は閉じている。あれこれ触れていたら、ある場所を触ると視界が真っ暗になった。
確かめてみると眉頭の左右に二つ、眉毛が抜けたにしては大きめの穴が空いている。
そこを塞ぐと色が消えるのだ。
白黒ながらもまともな視界。俺は歓喜のあまり両手で塞いで家の中を見て回ったが、徐々に黄色から赤へ色付いて行く。
慌てて手を離したが遅かった。それから俺は吐き気を催し、トイレに駆け込んだ。
色々試して分かったことは、白黒ながらもはっきり見えるのは半径二メートル程。それ以上となると一気に不明瞭になる。
そして色付いて見えていた正体は、対象の温度。寒暖が色として見えているらしい。そして眉頭の穴をぴったり塞ぐと体調不良を起こす。
あれこれと検証し調整の結果、この目隠しや布の仮面で、何とか妥協できる視界の確保と相成った。
繁華街も賑やかだが、歓楽街は別種の賑やかさだ。
ポン引きの兄ちゃん、客引きの姉ちゃん、まだここ辺りは警邏隊の巡回ルートなので悪質な店は無い。
しかしこれが一本隣の通りになると、途端に治安と店の質が怪しくなる。慣れた者や脛に傷を持つ者ならば、問題なく楽しめるだろう。
ちょっとスリルを味わいたい一般人が入ろうものなら、途端に危険度が増す。
とは言え店側も身ぐるみ剥ぐような真似をすれば摘発対象となるので、精々財布丸ごととか貴重品・宝飾品の類いで済ませており、本当に下帯一丁で放り出す店は翌日には店をたたんで営業場所を変えている。
それでも俺は一本裏通りを歩く。
表通りだと人が多いので歩きにくいし、そこら中にいる酔っ払いは予想外の動きをするので避けにくいからだ。
今日も気分で数ある裏通りから選んで進んでいく。
ゆっくり杖を鳴らして進んでいくと、前後から俺を窺う視線や姿を認識するが、直ぐに元の立ち位置や物陰に戻って行く。
ましてや声を掛ける者もいない。
……視線が一つ、付いて離れない。路地を一本通り過ぎてからだ。
さっきのスリの子供と比べると数段上の技量だが、その薄く鋭い殺気は頂けない。
決心がついたのか急速に接近してくるのが分かるが、俺は変わらず耳を動かし杖をついて歩んでいく。
殺気が薄く広がった。
それを合図に俺は杖を逆手に持ち、しゃがみながら脇を通して後ろへ素早く突く。
”ぐ…ぐふっ”
ちらと後ろを向くと、杖の先は強盗のど真ん中に突き刺さっていた。
あの位置だと鳩尾か。
”がすっ”
「あたっ」
……格好悪い。周囲から”ぷっ”と息が漏れる。お前ら何人潜んでいやがるんだ。
強盗の手からこぼれた鈍器(どうやら空き瓶のようだ)が、俺の頭を直撃した。俺の頭でワンクッションおいたので、瓶は割れずに下に転がる。
これは飲代獲得の為の強盗か?因果応報。いずれにせよお仕置きだ。
まず頭に二・三発食らわし、たんこぶを作る。俺の杖は大変堅く丈夫なので、ここで強すぎは駄目だ、親父の拳骨レベルで済ます。
しかし子供ではなく大人の仕業なので、お仕置きは続く。
”バシッ”
背中に一発。骨に当たっていないことを確認し、十数発叩いてやる。これで三日は痛みで仰向けには寝れまい。
さて……蹴転がして仰向けにするのも面倒臭いので、そのまま片足の腿裏も打擲する。
走れなければ、今回みたいな真似も暫く出来ないしな。
このブロックを過ぎると高級店の区画に入る。そういった意味では人混みも少なくなるし治安も良くなるので、そろそろ表通りに戻ろうか。
「入れるかい?」
彼女の(働いている)店の前につくと、重厚な雰囲気を全身で受け止める。
その雰囲気の一端はこの門番───いやドアボーイが担っている。彼がそこに立っているだけで、分不相応な者は威圧されるし、豪華な店構えはその前に立つだけで気圧される。
だが目が見えない俺に店構えは意味がないし、彼くらいの威圧はしょっちゅう浴びていたから平気の平左だ。
「いらっしゃいませ、どうぞ」
毎回機械的な声で同じセリフを口にされるとゴーレムと見間違うが、体温も”見て取れる”し彼は間違いなく人間だ。
扉をくぐると直ぐに黒服に案内され、隅の席に着いて気付いたのは、いつもと違う店の雰囲気だった。
何かあったのだろうか、このような高級店では珍しい事である。
「いらっしゃいませぇ。隣、失礼しますぅ」
少し舌足らずな声と共に、ソファの隣が沈むのが分かる。
「その声はアーヘラか?」
「あたりです!今晩もおにぃさんの耳は正確ですね」
甘々の声を出す癖に、清楚とはこれ如何に。
因みに彼女の夜という名前は雰囲気を良く捉えていると、新規の客に自己紹介するたび納得されるそうだ。
『どの辺が?』と一回聞いたことがあるのだが、艶やかな黒髪や透ける様な白い肌もそうだが、それらを含めた雰囲気との事。呪われる前に一目見てみたかったとつくづく思う。
「それで、この雰囲気はなんだ?」
はっきりさせておかないと、気になって酒も飲めん。
「黒服の子がヘマしちゃってぇ。よりにもよって席の手前でコケて、お客様に持ってたお盆をぶちまけちゃったの。何も壊れなかったし怪我とかも無かったんだけどぉ、レイラ姉さんが男爵様のお客様を抱き付くように庇ったら、もぅ男爵様が怒っちゃってぇ」
「ああ、彼女にホの字で有名な?」
「そそ。本人は隠しているつもりらしいけど。でぇ、やきもちしちゃって。でも自分のお客様にぶつけられないから、その子にぶつけたって訳。はいどぉぞ~」
黒服が作った水割りを、アーヘラが俺に手渡してくれるので、まずは一口飲みテーブルに乗せる。だがヘマした黒服より、嫉妬からの怒りの方が大きいとは、俺がヒモだと知れたらただじゃ済まないな……気を付けねば。
「その彼に怒りをぶつけたって、何したんだ?」
「あれはねぇ、座る場所が違ってれば、自分がレイラ姉さんに抱き付いてもらえたのにって思ってるんだよ。うらやまけしからん!ってやつ?シットとセンボーが混ざった顔っていうのかなぁ、初めて見たわぁ」
「だから何をしたんだ?」
グラスに手を伸ばし、一口飲んでは元に置く。
「つよーいお酒を一瓶イッキさせたの。えーとねぇ、”シュナップス一瓶飲めたら許してやろう。混ぜ物無しの奴だぞ”とかいって態々買いに行かせたんだよ。ねぇシュナップスって聞いたことないけど、どんなお酒なの?」
「シュナップスか。馬鈴薯から造られる蒸留酒だ。透明で味や香りは殆どないから、ハーブやフルーツで香り付けされることもある。混ぜ物無しって言うのはそういう意味だろう」
グラスを手に取るが、飲まずに水割りの香りを楽しむ。
「目、見えないのよね?置き場所よく分かるわよねぇ」
「ん?あぁ、自分で置いたんだ。同じ場所に手を伸ばすのは造作もないさ」
実際言葉通りでもあるのだが、水割りの冷たい色はちゃんと見えている。
「で、無事なのか?」
「黒服くん?歩いて裏に引っ込めたから大丈夫じゃないかしら」
「……ちょっと失礼」
「はぁい」
アーヘラに断りを入れて席を立つと、トイレに行くふりをして従業員スペースに潜り込む。
休憩室なのだろうか、腕を目元に当て横たわっている者と付き添いのホステスが一人そこにはいた。
フロアに出てなくて大丈夫か聞いたら、足りなくなったら知らせが来るようにしてあるらしい。
「シュナップス一瓶空けたってのはそいつか?吐かせたか?」
「あ、レイラ姉さんの……吐こうとしたけど無理みたいで、取り敢えず水は飲ませました」
言い澱んだ所は『ヒモ』とでも言いそうになったか?だが一々気にはしない。事実だしな。
「意識はあるか?」
「酔いが回って寝ちゃったみたいなんです」
「……不味いな」
一緒にいる彼女と比べると、明らかに彼の体温が下がっているのが見える。
「え?」
「手伝え」
俺は彼女の手を借りながら、黒服を仰向けから横向きに変え、腕を枕代わりに頭の下に差し込んだ。さらにバケツと手拭いを数枚持ってこさせると、口元に広げて敷いて行く。
そして気休めだが手に手拭いを巻き付けると、おもむろに黒服の口に突っ込む。
「噛んでくれるなよ……」
「え?え?」
横の声は無視して数回指を喉奥に突っ込む。反射的に噛まれたが、えづくと同時に噛みつきが弛んだので素早く抜くと、広げた手拭いの上に胃の中身を吐き始めた。
手拭いごと吐瀉物をバケツに放りこみ、床から俺の手まで奇麗にすると、バケツに水を張って従業員トイレにぶち込ませる。
後始末はこの黒服君にしてもらおう。
「なんかすみませんね、おにいさん」
「酒で死なれちゃ店の看板にも傷がつくし、こいつも浮かばれんだろう?」
「あ~ははは…」
「マシになったとはいえ、まだ危ないしな」
「え?まだ危ないんですか?」
俺は黒服の額に手を置くと、酒神の祝福を与える。
「酒精解毒」
正規の神官に依頼するとなると、大銅貨四枚は請求される祝福だ。
豪華晩酌セット一人前相当なのは、酒飲み達へ戒めの意味もあるが、今回のような緊急事態ではそうも言ってられない。
じっとしていてもズキズキ響く二日酔いの頭痛でも、この祝福を受ければスキップして帰れるくらい効果覿面なのだ。
「これで三十分もすれば目も覚めるだろう」
「あ、なんか顔色も良くなってきた気がします」
あとは何か身体に掛けてやり、身体を温める様に指示する。さぁ、フロアに戻って酒の続きだ。
「んもぅ、長すぎです。女性を待たせて何やってたんですかぁ?」
アーヘラから形だけの抗議の声が上がる。形だけなのは席料は継続してアーヘラに付いており、今日の彼女の売上は順調だからだ。
ただ放置されていた身としては、声を上げねば示しがつかない。
「すまんすまん。野暮用が長引いてね」
「んもぅ!」
そう言ってアーヘラが顔を寄せ、小声で訊ねてくる。
「黒服くんの所、行ってたんでしょ?どうだった?」
「もう問題ない。しばらくすれば戻ってこれる」
「よかった。じゃ、いなかった間の埋め合わせして貰わなくちゃね!」
俺の返事にアーヘラは安堵のため息を漏らし、切り替えると俺の腕に胸を押し付けて来た。
腕に抱き付くのもそこそこに、アーヘラは他愛のない日常の話を続けてくる。
彼女は怠惰に暇な時を過ごしてはおらず、家事が済んで出勤までの間、あちこち出歩いているようだ。
話題も散策中の出来事から始まり、新たに見つけた美味しいカフェの場所、話題の作家の新刊など多岐にわたる。
この統一性の無さを嫌がる者もいるだろうが、俺は結構好きだ。適当に合いの手を入れるし、聞いているだけでも楽しい。
一口飲もうとグラスを手に取ると、新たな水割りで満たされており、黒服が立ち去らずに控えていた。
「お、新しいのか。ありがとう」
「いえ、私の方こそ手当てしていただき有難うございました」
その言葉に、先程手当てした彼だとようやっと気づく。躓いて持っていた物を放り出す輩とは言え、今の立ち居振る舞いは店に相応しいものであった。
その彼に何をどう失敗したのか、聞くのも可哀想である。
「意識不明だったんだから、無理するな」
「お気遣い、有難うございます。それからこれは私共の店主からです。お納めください」
見るとボトルが一本置いてある。恐らく未開封なのだろうが、そこまでは見えないし、ラベルも読めないのでボトルの正体も不明だ。
手に取って確かめていると、俺にしな垂れかかりながら覗き込んでいたアーヘラが声がを上げる。
「えっ、これブラックドラゴンの十年物じゃない!?オーナー、太っ腹ねぇ」
「おぉ。手に入れるが大変なんだよな、この酒。大事に飲ませてもらうよ」
「今、ブラックドラゴンの十年物と聞こえたぞ!」
突然、店の奥から大声が響いた。さらに近づいて来る足音は、この声の主か。
この店のじゅうたんで足音をさせるとは、大分興奮していると見た。
「きみ、それほどの物があるのならば、まずこちらに持ってくるべきではないかね?」
「男爵様、このお酒は店主よりこちらのお客様にとお持ちしたものです。他に希少な物もご用意しておりますので、そちらでご容赦願えませんか」
だが男爵の言葉はにべも無かった。
「私はブラックドラゴンの十年物を飲みたいのだよ。さっきの余興では、失態を帳消しにするには不十分だと分からぬかね?」
俺が放置していたら人ひとり死んでいたのに、それを不十分とか酷い奴だ。だが死にかけていた奴がハキハキ喋っているのだから、分かり様もないし罪悪感も湧くまい。
「男爵様、あの酒絡みでご無体はよろしくありません。おやめになった方がよろしいかと……」
男爵サマの客らしい男が諌めてくるが、当の男爵サマは納まりがつかない。
何やら面倒なことになってきた……
女性達の名前はちょっとひねっています。鵜呑みされませんようにお願いします。
それから色と動物の名前を冠したウイスキーがあるんだから、こう言う銘柄があってもいいよね!
ちなみに作者は洋酒を殆ど嗜みません(´・ω・`)
今回もお読みいただきありがとうございます。