紋章の乙女は憂う
「理由は簡単なのだが、……その」
「ぜひ教えて欲しいピューレブゥル。俺に皇帝としての資格が有るのか、貴女の目にはどう映っているのか」
サイレーンは黙ったまま、動かず。そして何かを決意するように顔を上げると、ゆっくりと口を開く。
「かつてシュナイダーを名乗る若者が……」
「うむ、悪いがその辺は先程聞いた、それに我からもこのものに話をしておる。話の腰を折るようで悪いが、昔語りは妖精の後からにして欲しいところなる」
パムリィの言を受け、またしてもサイレーンは押し黙る。
「おい、パム……!」
「良いのだ専門家。妾の気構えが足らぬは事実なろうぞ」
――わざわざ呼びつけたは妾である故、その辺はな。サイレーンは顔を上げ、皇太子の目を見つめると、改めて語り始める。
「“陸の”と話を付けたシュナイダーは、どこに居るとも知れぬ妾を探して船を出し、海の上でサイレーンとの邂逅を欲した」
「そんな無茶な! サイレーンに目をつけられたら船ごと……」
「その通りだ専門家。妾を含めサイレーンは、洋上にある人を惑わし、船ごと沈めるが性である。なれどもそのものは、それを知りながらあえてサイレーンを自ら探し、接触した」
初代シュナイダー皇は、船で海へ乗り出し、あえてサイレーンと接触したらしい。
「【俺は歌や踊りには造詣がない。惑わされないことは、お前達にとって困ることなのかも知れないしそうならあとで謝罪する。俺はお前達の長に会いたいのだ】、そう言ったと。実際にあったものには聞いた」
サイレーンは海のような大鹹湖を見やり、遠い目をするとさらに語り続ける。
「そしてそのものは、妾の元へと赴いた」
――人間が妾を名指しで逢いに来るなど今までにないこと、どうして良いモノかかなり困ったものであった。
――当時も長ではあったが、まだ齢二〇〇にも見たぬ若輩であった故な。
――歌にも踊りにも迷わず、船乗り達を率いて真っ直ぐにやってくる彼のもの。相手が人間であると判じてなお、逃げたかったのを良く覚えているよ。
――妾の近くまで船が進んできたので取りあえず霧を出してみた。星見ができずともその船は、全く船の舳先の向きを替えなんだ。
――何故そんなことをしたか? 簡単だこの妾が、有り得んことに恐怖を感じたのだ。たかが人間の若造に、だぞ。
――さらに近づいたので恐ろしげな声で、それ以上近づくな。と言ってみた。【俺が気に喰わぬならこのまま沈めよ】。実に響く良い声でそう答えたよ。
――いくら恐ろしかろうと、そう言うものを沈める訳にはいくまいさ。その時点で妾の負けだ。
――妾の姿を認めると、船の上で傅いた。……恐らくはその時の口上は、“陸の”のもとにて話したことと大差はあるまいと思う。
「欲しくば戦え。我はそれ自体には問題を感じぬのだが?」
ターニャの頭の上で腕組みをしていたパムリィが、話に割って入る。
「“陸の”は当然に生活環境が重なる、そこには利害も発生しよう。だが妾達、水のものは違う。人間は水の上を使っても、水の中には住まぬだろうさ」
「ならば何をしにぬしの元へ来たのか、わからぬところなる」
「女王、人間は橋も作れば船も出す。人間は水辺に近寄れぬでは生活が成り立たぬよ。開祖様がここなピューレプゥル殿に話をしに来たは、性格を考えればむしろ当然だと俺には思える」
「飲み水も汲むし、橋を架けて水路も作る。畑にだって水を引くし魚も捕る。荷物だって川や海で運ぶもんな。モンスターに遠慮して貰わないと生活がたち行かないさ。……パム。確かに住んでこそ居ないが、生きていくのに水は必要だ」
「お前は世界がよく見えているな、専門家」
ターニャがパムリィを頭に乗せたまま答える。
「水が無いでは生きていけねぇさ、モンスターはともかく人間はそうだ」
「彼のものもそう言ったよ、水が無いでは生きてはいけない、とな」
――条件など要らぬ、と言った。矮小なはずの人間に既に話し合いで負けてしまったのだ。これは当然だな、プライドの問題と言っても良い。
――はっはっは……、その通り。実行力が伴わずとも気位だけは高いからな。
――だから何を何処まで望むのかと聞いた。だが彼のものの答えは妾の予想を大きく裏切った。
――邪魔にならぬ範囲で人間が入り込むことを許して欲しい。彼のものはそう言った。
――大平原の河川と周りの海、そこに生活圏を広げることを長の手の届く範囲で許して欲しい。そう言ったのだ。
――わざわざ妾に逢いに来て、命がけで妾の前に立って言った言葉がそれだぞ。
――そのまま許したわ。当たり前だな。“陸の”と違って戦う必要さえ無い、ただ許容するだけだからな。
――その時、彼のものは言った。【国が為ったならその時は貴女の元に挨拶に来よう】とな。
――妾はそれに対して。無理はせぬでも良い、時間が有るとき参れとそう言った。
――だから分かり易い様、妾はここへこの大鹹湖を作り、居場所を改めたのだ。
――その後三〇年経ち、そのものの孫というものが現れた。帝国が国として為ったことの報告に、な。
――祖父と父は、戦と国の運営に忙しく、来ることはかなわなんだのだと。
「ほう。許したのか、なかなかに寛容なる。少し見直した」
「妾は、彼のものに懸想したのだろう。もう逢うことの適わぬ、たかが人間の小僧である、あの若者に。だからこそ……」
「ピューレプゥル殿、俺は……」
サイレーンは皇太子の言葉を遮る。
「できれば彼のものにも、同じ想いを抱いていて欲しいものだったが。それすらもう聞くことはできん」
すっ。サイレーンは、音もなく王太子の前に一歩進み出る。
「あれから二〇代以上の時を経てなお、うぬは良く彼のものの面影を残しておる」
「開祖様に似ている、か。……俺が」
「見た目だけでなく考え方もな。……次代の皇帝よ。盟約はシュナイダーがこの地を治める限り守られよう」
「ただ、血を継いだに過ぎない俺などには勿体ない言葉。感謝する」
「たいした事は出来ぬが、うぬが望むなら力も貸そう。その時はまたここに来ると良い、妾にはうぬが来たことはわかる……。さらばだ、生来の帝国皇帝よ、人の世でシュナイダーの国が栄えんこと、切に願うておるぞ」
周りに立ちこめた霧はサイレーンと共に消え失せ、湖岸にはターニャ達だけが取り残された。
「助かったぞ、ターニャ。礼を言う」
「いや、あたしは何もして無くて、その……」
「これで本格的に ドラゴンの元 を目指すことができると言うものだ」
「ちょ……! いやあの旦那、それもあたしなんですか!?」
「初めに言ったつもりだったが? それに帝国中探そうが、他に適任者もおるまい」
「……ウチは、その。スライムが専門なんですが」
「無事帰ってくることが出来れば、実績としてドラゴンの専門家も喧伝できるぞ? ――はっはっは……!」
星明かりに照らされた静かな湖畔には、皇太子の笑い声だけが響いた。