アルミニウム alminium
ー7
モーヴ色から閑かに変化していく。
祈りの言葉が虹をつくる。
川の向こうの情景。
橋の上で小さく光が瞬いている。輪郭のゆらめき。さわめきのこだまが響き、出会いを彩る。窓が開かれた部屋。静か、静かに。軽く弾む。低くはなやかに。目を閉じると、旋律が見える。
靄の中で花が咲き、咲き。そしてふたたび祈りの言葉が零れる。雨を浴び。水がどこからかさらさらと流れ、流れていく。
ー6
砂利を踏む足音に、娘は顔を上げた。開いた本に添えられた指先。風の流れる音が、さまざまの色を帯びて、ふわりと消える。猫のあくびや、冬を越した枯葉、人工衛星、ライターの炎、目を伏せて睫毛の触れる、宙に向かって伸ばした掌、電話のベル、杖、うたう。
本のあいだから栞を取り出し、読みかけの頁に挟んだ。
息が小さく揺れる。上に向いた瞬き。口許には声と微笑。傍らのハンドバッグを膝の上に載せて、娘は、そのなかから煙草の箱とライターを見つけ、火を点けた。金属の音がする。髪はカールして振れる。
「いつか見たことがあって、いま見ていて、そしてこれからもまたどこかで、見るのもわかっていて、その景色は、うつくしいと思う。自分が生きている。それと同時に、自分よりも先に生まれた人々や、あとから生まれた子供たちや、そして自分と同じ世代の人々が、目に見えるものをかたちづくっている。うつくしさを生んでいるものは、そうしたものたちのあることを知らず、そしてまた、何も共有せず共感もしていない。うまく言えないけれど、このうつくしさを見知らぬ人とうつくしいと思いませんかと話したりせずに済むということ。
誰かが私に煙草を一本くれませんかと言うといいのに。そうしたら私は、少し驚いて、というより、咄嗟のことで、笑顔をつくることさえ忘れて、煙草の箱を差し出す。その人は何となく、ライターは自分で持っているような気がする。何となくそういう気がする。自分で煙草に火を点けて、笑顔で、けれどあっさりとお礼を言って去っていく後ろ姿を見たりしたら、ようやく私は緊張が去って、遅れて笑顔や、本当はどうやって話すべきだったかを考えたりする、その顔を見られることもなくて。メンソールのですけどいいですか、とか、すごく台無しでいいと思う」
偶然という言葉は、時の流れるなかで、意味を変えていくかもしれない。運命という言葉が同じように、何か象徴的な意味を帯びて、日常的にはあまり使われないそのようなかたちで、偶然という、そこにひとつの必然を見る目があるように思う。
娘の名は、ショコラという。
そもそも名前を付けるそのやり方は、常にすでに必然的な偶然のなかから生まれる。
そして偶然さは、繰り返し現れるいつもの光景、想像することができて、その体験のさなかに再びそれを見ることがあるのを確信させるような、そのようなうつくしさを、この世につくり出している。
体験することは、未来の方向に伸びている。知覚と理解は合致するものではないので、そのとき感覚としてどこかに記憶されていたものが、いつかのある日、はじめてわかることがある。そのようにして、記憶は折り重なっていく。そのほとんどを表層には見せないままに。
風の流れるのを感じることがある。
風はいつも流れていて、たまたま起こる奇蹟によって、それを目に見えるような感触をもって確認する。
この瞬間に、ショコラの耳の下を静かに撫でる風を、そうやっていずれ、彼女は知る。
「晴れと曇りと雨の日と、そのあいだの天気があること。それが、私たちの生きていく力になっている。不確かなことがなければ、私はそんな生活、すぐに飽きてしまうでしょう。夕立ちに備えて傘を持ち歩いたりなんかしない。緊張が私の身体を動かす。動かしている。そして疲れるので結構。そうでなければ美味しいものなんかいらない。うつくしい音楽なんかいらない。そんな世界はイヤでしょう?
刺激がないなんて、足りないなんて言わないでほしい。天気が変わる。歳をとっていく。これほど素敵なことはないと思う。あるいは本当の答えをここで言ってしまえば、それは想像力の問題だけなのだけれど」
ー5
「夜の霧の中を自動車のライトが伝って私の横顔で跳ね返るとき、口から吐いた煙から、さっき見た黄色い葉がついた木を見上げた構図がイメージとしてリンクする。私はそれをとてもきれいだと言い合った」
「……人の行き交う姿を描写するのはもうやめます。
人々のそのひとりひとりについて詳しく眺めていないということではないけれども、イメージで世界を読みとるよりも、想像のなかで抽象的に人と人は出会うかもしれない。
ガラスの向こうで木々は、無音にざわめいている。再び顔を上げると、風は消えて、私もまた、静止した世界の一部となったような気分になることでしょう」
小さな女の子は、今度は走って父親の膝まで辿り着いて、そっと窺うように見上げた。その様子を、母親と、ショコラは見守っていた。手が少女の頭の上に置かれ、少しかがんで父親は、何か語りかける。
「やさしさはこのようにいともたやすく、日常のなかで達成されるのだ」
ショコラは肩を震わせて泣いてみたいと思った、のだが、代わりに小さく小さく笑った。
ー5.2
煙が霧のかかった中に吸い込まれていく。イメージを伴わずに考えていることがあるのである。そのようなことの記憶は、光のフラッシュの姿で浮かび上がる。おそらく、ひとつのその瞬きの含むもの、それに、見たものがリンクされるということで、つまり、記憶、とは、見たものや感じたことの記録されたものではなくて、それは、常に、同時的思考がかたちづくる図像だということについいましがた、気がついた。
ー4
何かを思い出すことは、思考の構造だから、覚えているとか、忘れているとか、記憶とか、いつもそんな言葉を使う。それも考えることなのだと改めて思う。けれども、思い出すということは、ときとして、強く、思い出すという行為として浮き彫りになるようです。
思い出したことは、覚えていることとは異なるものです。
記憶という表現は覚えていることの全体を指している言葉のように思いますが、日常的な意味では、過去のことや心象についていま、考えてみることなのではないでしょうか。記憶の曖昧さを想像することで繋ぐ。
繋ぐ。というよりも、間を埋める。埋めるというよりも記憶の周囲に筆で色を付けていくような。宇宙の構造を連想します。そんなカラフルな宇宙空間はいままで想像したことはなかった。
モーヴ色から変化していくこと。
空気の色について語っているのでもあります。
心の色についてでもあります。
音についてでもあります。
波の話ではなく、風があることです。
-4.2
物語について否定するようなことを語ってきたこともあります。
しかし、実際にはそういうことでもないのでしょう。
物語を語らないとも言ったかもしれません。
そういうわけでもないのです。
そうではなくて、いまさら書くことでもないのですが、語るということや、あるいは文章を書く行為は、常にすでに、語られたものを紡ぐということです。それがひとつの物語の姿だと。
ー3
冬が来たと感じることは意外にも、それほど人々に嫌な感覚を呼び起こしているとは思えない。
「だってそんなによくまあ、暖かそうな恰好をして。クリスマスの期待とか、年賀状とか。気持ちの上ではほとんど来年を想像して感じていたりとかもするのだし。なんか、冬なんて、生まれてから100万回くらい来てる気がする。春が待ち遠しい気持ちもある。夏は何となくあまり、先のこととしては想像しがたいところがある。今年の夏はあまり暑くなかったりしたはずだけれど、なんだかいつでもうだうだと暑かったような気分になる。
眠くなったらとりあえず寝ちゃおう」
-2
「少しのあいだだけあなたと離れてわたしはとても感激症になる。うつくしいと思って、それをあなたに伝えたいと思うのです。すぐに」
ー1
時間が止まる瞬間のことを、ショコラはまた考えている。これまで何度も言葉や、イメージのようなもので伝えたいと思ってきたが、それは言葉にはできないものなのだと諦めた。しかし、美しさや感動が、そうした言葉にはできないことのなかにあるのだとすれば、それが必ず人の心に響くものであるのだから、それは言葉にはできないということとは違うと彼女は漠然と思っている。言葉にはできないという意味は、表現できないということ以上に、人に伝えられるものではないということを言っている。しかし、たとえそれが言葉や図像のような具象性、もっと言えば、何かとっかかりのあるようなものを持たなくても、媒介するかたちを必要とせずそれは人の心を揺さぶるのだろう。
記憶のなかにうつくしさがある。ということは、それは、その記憶が感動そのものなのではなく、そちらがむしろ媒介物なのではないだろうか。ということはつまり、感動はあるきっかけをともなって人が固有に感じるものなのではないだろうか。それなら感動は伝搬するものではない。伝わるとか伝えたいとかそういうことではない。うつくしさを感じることは、その人そのもののなかで、何かが爆発するような、そんなものかもしれない。
これはうつくしさについての小説である。
1
「出会いが偶然だとか考えたことない。というか、偶然という考え方は、自分の人生に対するひとつの責任逃れのようなものなんじゃないかとオレは思っている。物事はもっと神秘的に、必然的に結びついているのじゃないかという気がする。人も、物も。
過去を振り返ったときに、ここが人生の分岐点、と思えるような箇所はいくつかあるけれど、それは実は、そのとき選択肢があることに直面していただけで、選んで進んできているそののちにとっては、他の可能性というのはただ可能性であっただけで、そこで生き方が分かれたのではなく、他の可能性というか道は、そのときどきで捨象してきたということだと思う。
行動について特に根拠なくよい方向に進むことができたときにそれを偶然だなんて思わないでほしい。そうなるように物事が配置されたとしか思えないような超自然的な状況があったのなら、それはつまり、超自然的な何事かだったのだろうと」
ミナミは何年か前に、大学の食堂でした会話を思い返していた。話している主題をその会話のなかでいくつもの方向から角度を変えて話すような話し方の男の子がいて、本人としては同じ内容を話しているつもりでも、聞いている方には話がどんどん拡がってなんだかよくわからないものになっていくようなところがあった。
わたしはいま、すごく出会いを必要としているような気がするんだけど、あのとき聞いた言葉の通りだとすると、もし本当に必要だったら、出会いは放っておいてもきっとあるということになる……。でも、だったらわたしはどうしたらいいのかな? 何もしないで待つということもしてはいけないとすると?
ミナミは部屋を見回した。特にやることもなくて、寝るまでの時間、意識しないほどの退屈を凌ぐために、何か注意を惹くものはないかということを、やはり無意識に考えてのことだったが、頭が少し奮っていたのでその視線も散漫だった。
部屋の隅の棚の上のラジカセに目が留まって、そのまま通り過ぎかかってから視線が引き返して、ミナミは、微かに音楽が鳴っていることを思い出した。正確には、小さく音楽が鳴っていることに気がついて、そういえばずっと同じCDを回しっぱなしだったことを思い出した。
それまですでにまったく注意が行かなくなっていたのだが、気がついた途端に、同じCDが回り続けていることに軽い耐え難さを感じて、ミナミは立ち上がってCDを止めた。何かいま聴きたいものがないか探して、諦める。そんなときには何を聴いてもすぐに飽きてしまうような気がする。
ラジカセの電源を落とすと部屋のなかが少し寒くなったように感じた。それでミナミはまた考えに戻った。
そもそも出会いが必要な気がするっていうのはどういうことなのか。寂しいから? つまらないから? そうだけどそうじゃないのはわかる。ただ何か、自分が自分のためにだけ生きていくっていうのは、本当じゃないような気がする。友達はそれなりにたくさんいて、学校に行けば誰かかれかに会うし、お茶をしたり買い物に出かけたりする相手もいる。でもそれとはまた違った、何だろう、わたし、単純に恋人がほしいだけ? そうなのかもしれないけれど、そうとも言い切れないとも思う。少なくとも、……、というか、人ではないのかも。人との出会いとかだけじゃなくて、物でも何でも、何か、自分の心のどこかにささやかに触れるもの、そういうもので、そしてわたしのためのものが、やっぱりどこかにあるのだと、そう予感しているのかしら。あのとき彼が言っていたことは、こういうことだったのか……。
ミナミはお茶をいれようと、本当は、お茶を飲みたいからお茶をいれようと思って立ち上がった。何時間か前にいれた急須と小さなマグカップを載せたトレーを持っていき、キッチンでやかんに水を入れ火にかけて、急須とカップを洗い、新しいお茶の葉を入れてそこで再び何かを考える気分になる。
お湯が沸くのを待つ時間というのがこの世界にはある。その短い時間をどう過ごすか。どう過ごしたいか。あるいはその時間を過ごしたいのかということがある。待つということはおそらく、人がそれぞれにどのような時間の流れのなかを生きているか、あるいは反対に、人がそれぞれに、どのように時間を流しているのかということを、特に待つということに対して意識が働いてしまう種類の人間には、考えさせるものであろう。
ミナミの目はガステーブルの上の火の音のするやかんや、そのキッチンのあたりの並んでいるものたちへ順に散漫に注がれるものだったが、彼女はそのとき、何かを考えたい、考えなければならないというようなことを考えていた。
やかんが小さく音を立て始めた。ミナミの目はそれに向けられているが、注意が注がれているわけではない。彼女はそのまま、何かを考えたまま沸いたお湯を急須に入れて急須のふたを閉じるだろう。
ようやく意識がはっきりしてきて、いつのまにか眠っていたことに気がついた。起きて立ったままテーブルの上の冷えたお茶をひとくち口に含んで、最初に目が覚めたときは、何か夢の続きのなかにいたことをミナミは思い出した。それはどんな夢だったのか。目が覚めるまでのあいだの夢のなかでの長い時間のせいで、すっかり疲れているように感じる。身体もだるく重たい。部屋の灯りはつけたまま寝ていた。音楽は止まっている。椅子に座ってミナミは、なんとかして夢の続きを見たいと思った。
時計を見ると三時間は眠っていたらしい。いつ寝たのかは覚えてないけれども。ベッドで本を読んでいたのだ。人と時間や空間との関係について考えられている、うつくしい小説だった。ふと寒さを感じてミナミはエアコンのスイッチを入れた。しばらくするとわりあい大きな音を立てて温風が流れ始めたが、こうした音はやがて意識の外に消えていく。
夢のなかでひとりきりだったことって、少ないから、ということはさっきの夢でも誰かに会っていたんだろうか。人かしら、猫かしら? ときどきまったく知らない人、つまりわたしがなぜかつくり出した架空の人も出てきたりするけれど、そういう存在が持つリアリティは、意外にも目が覚めたあとも実在しているという感じがする。もっと言うと、実在していないと言える確かな根拠を持つことができなくて、何度か思い出しているうちに、本当に会ったことのある人なのかもしれなくさえ、思えることもある。そのときわたしは、少し切なくなる。
ミナミは、椅子を持ってキーボードの前に座り、ヘッドフォンを耳にかけると目を伏せて適当なフレーズを弾いた。キーの上を指が跳ねるその短い時間のなかでミナミは長い時間を過ごす。耳許で鳴っている音の流れは背景にあって、そのとき彼女は自分そのものと正面から向き合っている。自分で自分を意識するというよりも、自分を見る視線が強くなって、鏡の向こう側から自分をひっそりと見ている。そういうイメージがあって、彼女は鏡の向こう側の世界のことを想像する。きれいでゆるやかな小川、野に咲く花々、鳥の声がさえずる木陰、雲が浮かぶ空。その世界で、彼女は子供の姿となって、平和な冒険に出かける。犬のジョンがお供をする。すれ違った森のクマと友だちになって、旅の情報を交換した。
「こっちの道の先には森があるんだ。そんなに深い森じゃないけど、ここには人にいじわるなクマの仲間が住んでいるんだよ。僕もそんなことはやめてほしいと思うんだけど、みんな退屈だから、森を通る旅人を驚かして楽しんでいるんだ」
「そのクマさんは、ハチミツは好きかしら?」
「もちろん大好きだよ。僕たちクマはハチミツしか食べないんだ」
「だったらわたし、ちょっとだけハチミツを持っているから、それをそのクマさんに分けてあげようかしら」
「それならきっと大丈夫だよ。本当は臆病者で、誰かをケガさせたりなんかしたことのないいいヤツなんだよ」
「ありがとう。こっちの道の向こうには虹の国があるのよ。わたしの生まれた国。きれいなところだからきっとあなたも気に入ると思うな。七色のハチミツをぜひとも召し上がってね」
「それは楽しみだ。じゃあ君も気をつけて」
それから小さなミナミと犬のジョンは、森のいじわるクマに七色のハチミツを分けてあげて、森のなかを一緒にしりとりをして歩いていった。森の出口まで着いても終わらなかったのでそのままいじわるクマも旅の仲間に加わることになった。彼の夢は海に出ることで、海に行くには西の山々を越えて行かなければならなかったので、とりあえず三人は西の国を目指すことになった。急な山の旅が続き、小さなミナミは疲れ切ってもう歩けなくなってしまった。それを見ていた天使がミナミの前に現れて、空の国の鳥の羽でできた小さな靴をくれた。その靴を履いて歩くと、一歩進むごとに身体が軽く宙に浮き上がる魔法の靴だったので三人は無事山を越え、そして三人は、見渡す限りの水平線を見た……。
ミナミはキーボードからそっと指を離した。彼女は目を閉じて自分の心のなかで鳴っている音に耳を澄ませて、静かに呼吸をしながら、その音の流れに自分の心を載せた。
2
晴れた日の雪のある景色はとりわけうつくしい。うつくしいと眩しいとが同時に雪面を跳ねてわたしを照らす。わたしは目を細めて、額に当てた手のひらの陰から光の源を見る真似をする。空き地に積もった雪の起伏に沿って照り返る傍らに影ができている。雪に映る影は瞬いて、光をそのなかに含んで透き通るようだ。
子どもの頃には、季節をそのままに受け入れていて、そんな日を春のようだと感じたりはしなかったと思う。ただ眩しくてうれしかった。何メートルの高さにもなった雪山は雪の城そのもので、わたしはたどたどしくもその頂上までよじ登って、坂の下までまっすぐに見晴らした。そのままうずくまって、何十分もじっとしていた。防水の利いた赤いつなぎを着て。
母親がプラスチック製のシャベルを手に、階段に軽く積もった雪をかきだしていく。こうしておかないと、次の日の朝には凍ってしまっているからで、このあたりは冬になるとほとんどすべての地面と道路は雪と氷で被われてしまう。そのことを特に意識するようになったのは実家を離れて暮らすようになってずいぶん経ってからのことで、わたしにはいつのまにか、冬という季節がなくなってしまったようだ。
季節感というものは長年同じ場所に住み続けてつくられていくもののはずで、地方によって季節の巡りがさまざまに変わる国のなかを転々と移り住んで、わたしには暦と結びついた四季の移り変わりが消えてしまった。もっともそれはかつて自分にあったものなのかも本当にはわからないことで、いつのときにも実は人は、季節をあるがままに受け入れているのではないか。季節の変化が先で、人はそれに合わせて装いを変える。北国の木々の冬囲いにしても、雪が積もるのに備えるとは言っても、寒くなってきて雪が降りそうな気配、が訪れてからするものだからやはり季節が先にある。
わたしはあの暖かい冬の夜を思い出す。リビング全体を暖かくする大きなストーブの前に寝ころんで本を読みうとうとしながら夕飯の支度ができるのを待つ。そのうち起こされて食器を並べごはんをよそい、テレビを付ける。
暖かでにぎやかな北の冬の夜。
昼間は青空の中心で太陽が強く光を放っていたのに、気付くと夕方、学校から帰るときには吹雪いていて、マフラーで頬まで覆ってわたしは歩き始めた。じきに足はつま先から冷たくなってきて、それが靴に雪が浸みてきたからなのかそれとも靴ごと冷え切ってしまったのかわからないままわたしは一生懸命、一生懸命に歩き続けた。目をつむっているあいだに吹雪が通り過ぎてしまえばいいのにと願ったけれど風と雪は傘に当たり続ける。街灯の光はその雪と風に遮られて、辺りは夜とも違う薄暗さで包まれていた。身体はこわばって肩に力が入っているのを意識する。ただ一歩一歩進んで、ときおり家までの道のりを想像して気が遠く、気が遠くなる。雪は降り続け、すべてのものの上に積もっていく。雪は、その存在の確かな冷たさにもかかわらず、スクリーンに映し出されたただの映像のように、あとからあとから音もなく舞い落ち続け……。
わたしの目はそれを意識の境目で捉えていて、どこかで静かな轟音が響いているような錯覚を持ち、何か、どこかわからないところへと降る雪と一緒に流されて消えていってしまいそうになる……。わたしは立ち止まって、傘を傾け、暗い空を背景にした白い雪のひとつひとつに目を凝らした。そのとき、わたしはたぶん、雪の心のことを考えていた。
わたしは雪の世界のたったひとりの住人、さまよう心のようになっていたが、ふと、わたしはなぜか振り返ってうしろを見て、そこに誰もいないことを確かめた。考え込みながらあるいているようなときに我に返ってある種の恐怖心が起こってくることがある。そのときもそんな感じだった。雪はなおも降り続け、降り続けた。
わたしはコーヒーを飲みながら、そうして雪の世界のことを思い起こし続けた。わたしはそれが、思い出しているのか、記憶として眠っているものをつなぎ合わせているのか判断できず、懐かしさを感じることもなく、いま住んでいる街とはあまりにも違う世界に育ったのだということが実感さえできず、その記憶は自分の実体験であるのにもかかわらず、自分が実感できるものではないということが不思議であるというか、過去との乖離感を覚えるというか、生きていくということは、何かしら、自分が生まれたところから、遠くへ行くということなのかもしれないと考えた。
マグカップを置いた音が鈍く響いた。
3
ミナミは大学の食堂にいる。すでに午後の授業が始まっている時間で、昼休みのようにごった返してはおらず、それぞれの長机にひと組くらいずつの人のかたまりができていて、これはほとんどいつも同じ情景である。ミナミは辞書をかたわらに、明日までの宿題をやっていた。耳にイヤフォンをあてて、ときどき目の前のグループの誰かの背中や、その向こうの逆光になった窓の外の木の葉やレジの様子を眺め音楽に耳を預けたりする。それからまた気を取り直して問題に取りかかる。これも、週に二度三度はあることである。
横から急に話しかけられて焦点が合わないまま顔を上げるとカコだった。ミナミはイヤフォンを外してプレーヤーの電源を落とした。
「おはよう」ミナミは笑顔で言う。
「宿題やってんの?」カコは今日も美人だなとミナミは嬉しく思った。
「うん、終わった?」
「もちろん、これからやるですよ」黒い薄い地のニットに散りばめられたラメが瞬いて、ミナミは銀河を、いまこの瞬間のどこかの銀河系の端の星から見た宇宙空間を思い出す。カコはノートとプリントとシャーペンを続けて机の上に出して、それから煙草とライターが出てきて、銀色のよくある灰皿を近くに引き寄せて、華奢なライターで火を点けた。
ミナミはカコがライターに火を点ける姿を、この三年ほどのあいだに何度見てきたことか。それはデジャヴュでさえないほどによく知っていることで、それは、初めて会った日にミナミが感じた憧れのような共鳴を新たに思い起こさせる。たぶん自分は目を細めてそれを見ているだろうとミナミは思う。自分が男の子に興味をそれほど強く惹かれることがないのは、もしかすると相手に、このカコのような輝きを求めてしまうからではないかと本気で考えたことがあったのだが、それも違うだろうとも思っている。自分の行動と出会いがかみ合ってないだけかもしれないし、何より単純に決めつけられるようなことは何もないのであるし。ライターで火を点ける一瞬の輝きは非常に物憂いもので、それは、そのあと一本の煙草を吸い切るまでの気怠さとも繋がっていない、瞬間的な、空白、その人と、世界との関係のあいだにできる、ある空っぽさのようなものではないかと、ミナミは解きかけていた設問に戻る素振りをみせながら思う。
「うちのネコがさー」カコは煙草を灰皿にきゅっと押しつけた。
「ルーラちゃん」
「そう、ルーラがね、って、ていうかミナミ、昨日うちにいたじゃん」
「テレビから落ちた話だ」
「そう、なんだけどね。ていうか、あれか? あたしはもうトシなのか?」
「やっぱほら、オッサン疑惑あるし」ミナミはからだのなかがじーんと感動していくのを感じている。
「やめれー、オッサンは。せめてオバチャンにしてほしい」カコはそう言って真顔のフリをした。
「や、オバチャンは、ちょっとヤだな」
「そりゃそうよ、あー、おーい」カコが軽く手を振ったのでミナミは振り返った。ミキナとサヨコが笑顔で近づいてくる。
「なんか、ふたりともすごい着込んでる」ミナミが言った。サヨコがカコの隣に、ミキナがミナミの隣に来る。
「そうかな?」
「そうだよ」
「でもほら、ミナミは生まれが北国だから。寒さに強いんだよ」
「そうでもないよ?」
「確かに、この子の家はなんかいつも暖かいね、冬は。コタツないし」
「コタツ好きだけど」サヨコとミキナはそれぞれ缶のミルクティとパックのリンゴジュースを自分の前に置いて、前後してプルタブを開け、ストローをパックに挿して飲み始める。「わたしも何か飲み物買ってくる。カコは?」
「あー、わたしも行く」
カコの先に立って歩くミナミは、さっきから続いている、身体の内側のくぐもった暖かさ、を意識しながら、目に入るすべてのものに輝きを感じている。通路の狭くなったところを通るときに人に道をゆずったなりゆきで今度はカコが前になった。その後ろ姿、白いうなじと服とのコントラストや、凛としたオーラ、これはカコから発せられたものなのか、それとも、自分の目がそれを見たいと思って見ているものなのか、そういえばカコはひとつ年上なのだと思い出してみたが、それはあまり意味のあることでもないとも思った。それともどこかでそういう意識があって、自分はある意味でカコの庇護下にあるような振る舞いをするのかしらと考えてみたが、ともかくカコが売店のお菓子のコーナーを見始めたので、ミナミも横に並んだ。
「ミナミ、なんか食べたいのある?」カコは軽く顔をミナミに向けて言った。
「えーとねー、アルフォート」と言って指を指す。
「定番だね。よし」カコは指された菓子の包みと、それから素早く近くのウェハースを手に取って、ミナミを見ながら笑顔で「お姉さんがおごってあげる」と言う。ミナミが「いいのー?」とか言っているあいだに「だから飲み物おごれー」と言ってきて、「わー、いいよー。何飲むの? ……。オッケー。じゃあわたしはこれにしよっと」
レジを出てを見ると、ミキナとサヨコが喋っている姿がとても楽しそうに見える。狭い通路をいくつか抜けて席へ戻る。
「ミナミ、あんたお勉強してたの?」
「うん、宿題ー」
「あなたたちほんと偉いね」
「でも英文だって大変じゃん」
「そうでもないよ。少なくとも仏文ほどじゃないと思うな」
「ミナミ、あとどれくらい?」
「あと4ページ」カコがアルフォートとウェハースの包みを開けて、四人の中央に置いた。ふたりがわーいいただきまーすと言って手を伸ばす。「もうそんなにやったの? ミナミ、先帰らないでね」
「カコさんは何ページやったんですか?」ミナミはまるで自分が少女のようだと思う。
「2ページです」
「ほとんど手付けてないじゃん」
「そうなんだよー。リミサガ出てからなかなか時間がねー」
「って、ゲームじゃん」ミキナが横からつっこむ。
「だってマイス様がー」
「や、知らないけどね」カコが煙草を唇にはさんで、キンという高い音で火が点くのをまたミナミは見ている。
魔法の鍵がたてる音。どこか遠くの、距離も時間も遠い、中世のヨーロッパのいまは古城が、そのときすでにできてから数百年、何代も続く小さな一族の姫、城壁の上に立って治める領地を見渡して、同じときに隣の隣のそのまた隣のある戦場では騎士と騎士が剣をあわせ、鎧と鎧がぶつかり……、姫は首にかけた宝石の鎖に手を触れ無事を祈り、青い空に天の声を聴く、目を閉じて祈りの言葉が溢れ、決意ある複雑な心が気高い品を生む、風が吹き抜けて髪が軽く揺れ、まなざしはまっすぐに、見えないものまでを見て、小さな世界のうたをうたう、くちびるが微かに震え、耳を澄ませばそれがいまも聞こえるよう……、どこかで涙の零れる音がする、小さく吸い込む息、手をかざして生命を感じ、物語が語られるのを願い、祭りは華やいで、楽士の奏でる調べ、どこまでも流れ流れて行け、軽やかな踊り、赤い酒のなつかしい匂い、手を伸ばせばつかめそうな世界、絵のように動かない時間、巡る暦、豊穣さは人の心、大河はいつもそこにあり、ハーモニカの音色、いつまでも終わらない旅、すれ違う出会い、導かれる先、さしのべられる手、ひやりとする奇蹟、ああ、家は遠く、近く、届けておくれ、風よ、鳥よ、心を、祈りを、遠く遠くに、まだ醒めるな夢よ、銀河はいまもそこにある、想像もつかない未来にもある、星が道標となって、胸に募る、この静かな心を……。
チャイム鳴って、向こうのテーブルの一群がゆっくりとばらばらに立ち上がった。
「わたしたちも行かなくちゃ」
「がんばってね」
「あんたたちは? もう授業ないの?」
「うん。というか今日は休み」
「そっかー、宿題がんばってね」
「サヨコ、明日来れる?」ミナミはマフラーを巻き直しているサヨコに言う。
「明日はバイトなんだー」
「そうだっけ。金曜日に?」
「なんか、代わりで」
「ミキナは?」
「行くよ。今回は誰が仕切ってるんだっけ?」
「エンドウ君」
「タカツナかー」
「そうなの?」カコがシャーペンの芯をカチカチ出しながら顔を上げた。
「うん、この前言ったじゃん」
「覚えてない」
「マイス様のことばかり考えてるからだよ」
「エンドウ君、カッコいいじゃない」
「あいつはバカだから。ていうか、マイス様のような孤高な男はいないんだよー」
「孤高な人じゃ、ダメじゃない?」
「じゃあ、わたしたち行くから」
「じゃあねー」ミナミは小さく手を振ってふたりを見送る。
「違うんだよ、マイス様はね、ある少女との出会いから、凍っていた心が……」
「まだ言うか」
すれ違った瞬間に、心と心は触れ合う、目も合わせずに、相手の姿を感じ、光が生まれ、拡がっていく……、ミナミは時間の鼓動が聞こえると思った。
4
ショコラはまず煙草を吸える場所を探した。さほど大きくもないロビーにはどこかの国の一団が、迎えるのか見送るのか、陣取っていて、それを無視するようにして、視線を感じながらも、軽い小さなスーツケースを引いて、見当を付けて外へ出た。
「なんだ、外国って、ただの外国なんだな」
それがショコラの最初の感想だった。飛行機のなかでショコラは、自分の生まれた国の外へ出るということについて、多少は考えていた。何かこれまでの自分の生活とは決定的に違う、そのときになってみて初めてわかるような、そういう特別な瞬間があるのだろうか、どうなのかということだった。それは行く先の環境によるところではなく、もしあるとすれば、とにかく、外国である、という一点について生じる何かであろうと。
ショコラは普通に煙草に火を点けた。灰皿も置いてある喫煙可能なスペースだったから、もちろん咎める者もなく、タクシーの斡旋屋も彼女には声をかけてこない。
「わたしはいま、無理に感動しようとしているか、それか、無理に感動を抑えようとしているか、そのどちらなんだろう。自分で意識することのない感動というのが人にあるとしたら、……、そもそも、感動というのは心の動きのこと……。ある種の感慨はあるけれど、それは、たぶん距離のことだ。距離を想像すると、遠くまで来たということ、違う時間のサイクルの日常があるということに、わたしは心を動かす。そう、日常がここにもあるのだと、どこにでも、その場所の日常があるのだということをわたしは確認したくて、それでパスポートを携えて、飛行機に乗って、ここまでやってきたのだ」
彼女は、感受性の働きを抑制しているのだろうか。自分の殻に閉じこもるというのではなくて、彼女は自分が持っている要素をそのままに守ろうとする意思が強く育ってきた。自己を防衛するのではなく、自分で自分だと思える要素のままに自然でありたいというのが彼女の意識しない願いである。旅は、積極的に世界に関わっていく人々にとっては強烈に意味を持つかもしれないが、彼女は世界との境目をなくして、世界は自分であり、自分は世界であるような意識の、拡散ではない、ただ、漂っていながらひとつの自己であるようなこと、そういう傾向を持っているために、日常のなかに旅の感動を、彼女にとっての旅の感動を見出した。ひとつの場所に留まっていても、自分という存在はある漂う存在であって、それはすべてが一体となった流れの中をそれに任せる旅人であった。
それでも彼女が緊張を感じていないわけではなかった。その日常はまだ彼女の日常ではなかったから、知識なのか想像なのか、外国というものに対して持っているイメージによって、つけ込まれないこと、それを意識している。
「わたしの目的はたぶん、来ることだった。何かを見たいわけでもないし、何かを体験したいわけでもないんじゃないかな……。わたしはこれからの限定されたこの日常を、どう暮らすのだろう。帰ることが前提になっているというのは、……とても難しいことだな。
わたしは、特別な時間のことを覚えているのが得意じゃないような気がする。思い出せないことって本当に覚えているのかしら。いつかどこかで与えられた脳のなかの部屋や引き出しのイメージ、開けられない引き出しのなかに入っているものは、それはわたしの記憶なのか。経験と言えるのか。体験した事実、は決して経験ではないはずだから。わたしは、なんだろう、さすがにここで、いくらかノスタルジーが起こってきていて、この空と風のことだったら記憶していたい、帰ってからも思い出したいと思うけれど、わたしはどこかでかつて感じた風や光を、いま感じているそれらと重ね合わせることはあっても、過去のものが特別だったことはないような。
だから、わたしはほとんど何も、あとから思い返せなくてもよいと思うことにしよう。わたしはここに来てもやっぱりわたしだ。ここにもやっぱり日常がある。そうだね、……これが感動というものだね」
そうして彼女の耳許を吹き抜ける風、彼女は意識していなかったが、そのような風がこれまでどれだけあったことか。暖かな風、軽やかな風、静かな風、爽やかな風、目をつぶるような強風、さわさわ、そよそよ、ゆらゆら、すーっ、さららら、ひゅーー、……。彼女はまばたきをひとつ、ふたつ。そしてもうひとつ。思考が意識の上に現れる手前で、考えの予感のような状態、それはある意味での空っぽさかもしれないが、彼女の目は確かに何かをとらえていて、それは、彼女の目の前にある情景だけではなく、その先にある何かを見ようとしている。彼女は、彼女は強く強く前を見続ける。
5
人にいじわるなクマ「おい、そこの娘。ここを通るにはわたしの許可が必要だぞ」
小さなミナミ「(さっそく出たわ。これが人にいじわるをするクマね)ごめんなさい。あなたの許可が必要だなんて知らなかったものですから。わたしたち、いったいどうすればよいのでしょう」
犬のジョン「姫、こんな無礼な輩は、わたくしが退けてご覧にいれましょう」
ミナミ「いいえ、ジョン。わたしたちの旅はまだ始まったばかりよ。ここで暴力に打って出るのは得策ではないわ。そうでしょう? わたしたちには智慧と、平穏を望む心があるわ」
ジョン「ですが……。わかりました。姫のお考えに従いましょう」
ミナミ「ありがとう。あなたはいつもわたしのことを一番に考えてくれる。ここはわたしに任せてちょうだい」
クマ「勝手に目の前でディアログを繰り広げないでもらいたいものだな。そんなことではここから引き返す他はないぞ」
ミナミ「お待ちください。わたくしどもの非礼をお赦し下さい。そして、失礼でなければ、あなたのお名前をお聞かせくださいませんか」
クマ「どうやらまともに口を利くことのできる利くことのできる娘のようだな。よろしい。わたしの名前はエドワードという。覚えておくことを許可しよう」
ミナミ「光栄に存じます、エドワード様。そして重ねてのご無礼をまずはお赦しくださいませ。わたくしどもがまず名前を名乗らなければならなかったというのに、ああ、寛大なるエドワード様、わたくしはミナミ、そして従者のジョンでございます。わたしはこうして来た道に連なる小国の王女でございます。王族として国を統べるためのさまざまな経験を積むようにと、父である国王よりこの森の先にあります山脈を越え、西の国まで使いとして密かに旅に出たところでございます」
エドワード「こちらこそ、不躾な立ち居振る舞いどうかご容赦願いたい。そのような気高い姫君であったとは。少々わたくしも悪戯に過ぎたところがあったようです。あなたを姫とお呼び申し上げることをお許しくださいませんでしょうか」
ミナミ「ええ、喜んで。しかしエドワード様はこの森をお納めになる王ともいうぶべき方。わたくしにはどうか、寛大なる心をもって、あなたの可愛いお子たちのように呼んでくださいませんか」
エドワード「いえ、わたくしなどこの森の番人のようなもの。そのようなお言葉は勿体のうございます。どうかエドワードとお呼びくださいませんか」
ミナミ「どうしてあなたさまのような立派な方を呼び捨てになどできましょうか。そのようなことをすればきっと、空よりご覧になってあられますあの方のお怒りを買うことになってしまうでしょう」
エドワード「とんでもございません。わたくしのような者があなたのような方と対等に、そうでなくても、こうして言葉を交わしていることだけでも罪深いことのように感じられます。それこそあの方のお怒りが雷となってわたくしの身にふりかかりましょう」
ミナミ「ではこうしてはどうでしょう。わたくしとあなたは幼少の頃より互いに見知った幼馴染みともいうべき間柄。子どもの頃から互いに当たり前のように呼び合ってきた。ねえ、そうでしょう? エドワード」
エドワード「ミナミ、あなたは本当に素晴らしいレディになられた」
ミナミ「ありがとう。あなたも立派なナイトですわ。あなたが馬に乗った姿はさぞかしい勇ましく見えることでしょう」
エドワード「ありがとう、ミナミ。その言葉がわたしの勇気を何百倍にもしてくれます。わたしの力を何千倍にもしてくれるのです」
ミナミ「エドワード、あなた確かこれが好きではなかったかしらと思って、今日持ってきたのです。果たしてお口に合うかしら」
エドワード「おお、これは素晴らしい。これを口にすればどんなに長い旅の疲れでも一瞬にして取れることでしょう。……ところでミナミ、あなたは先ほど西の国へ行くと言われたが、どうでしょう、このわたしをあなたのお供にしてはいただけないか。こう見えても剣の腕では城の兵士にも劣らないつもりです。荷物を持つのにも役立つことでしょう」
ミナミ「まあ、エドワード。あなたが加わってくれれば百人力ですわ。そして楽しい旅になるのに違いありませんわね」
エドワード「ジョン君もどうかよろしく願いたい」
ジョン「いやいや、こちらこそ。姫をお護りするのがわたしひとりでは心許なかったところ。たいへんかたじけない」
ミナミ「さあ、それでは、西の国を目指して出発しましょう」
ミナミ「エドワードは西の国へは行ったことがあって?」
エドワード「いいえ、わたくしはこの森から出たことはないのです。しかし時折ここを通る仲間から話は聞いています。なんでも西の国は山の麓から海まで続く大きな国だということです。わたしは一度でいいからその海を見てみたい、この手、からだで、感じてみたいと思っていたのです」
ミナミ「海……。わたしも本で読んだことしかないのだけれど、それはそれは大きなもので、大きな大きな舟に乗って漕ぎ出すと、果てしない海の向こうには、また陸が拡がっていて、そこに暮らす人々がいるのだと言います。そして、わたしたちとは全く違う暮らしをして、全く違う言葉を話しているのです」
エドワード「海の向こうの国……。そんなものが本当にあるのならいつかこの目で見てみたいものです」
ミナミ「あなたのように勇敢なナイトならきっと可能だわ。世界のすべての海と陸を旅して、わたしに話して聞かせてくれたら、きっと楽しいでしょうね」
エドワード「ミナミ、あなたほどのレディなら、自分で海に出たいとは思いませんか」
ミナミ「いいえ、エドワード。わたしはあなたの思っているような勇気ある女ではないわ。それにわたしは国をとても愛しています。四方を森に囲まれたあの小さな国が、わたしにとっては世界なのですわ。海はとてもおそろしいものでもあると聞きます。見たこともないような怪物に襲われたり、嵐も頻繁に起こるとか。そのような危険な場所にあなたを送り出せばわたしは心配で寝られないでしょう。でも、あなたなら、どんな困難でも乗り越えられることがわたしにはわかります。そうやってわたしたち女は、ナイトたちを戦場に見送ってきたのですわ」
エドワード「おお、ミナミ。あなたの言葉はまるで魔法のようだ。その言葉が耳に届くだけで、わたしの全身に力がみなぎるのです。わたしのことは心配しないでください。きっと素晴らしい冒険譚をあなたに聞かせましょう」
ミナミ「エドワード、あなたほど勇気のある人は見たことがありません。空にあられますあの方も、きっとあなたを祝福しお守りくださることでしょう。しかし約束してください。かならず、無事で帰ってくることを」
エドワード「約束しましょう、ミナミ。いつもわたしのことを祈っていてください」
ミナミ「ええ、もちろんですわ、エドワード。勇気と平安がいつもあなたとともにありますように。あなたがつらく、困難なときにも、空から光が射してあなたを導いてくれますように、わたしは祈ります。どうか、どうかご無事で。鳥たちよ、わたしの言葉をあなたに届けておくれ。風よ、わたしの心を載せてあなたのもとまで。嵐のあとには虹をかけて、あなたの冒険を祝福してくれますように……」
6
どこまで行けるかわからないけれど、走って行ってみよう。息が切れてからだが重くなってくるときに、意識が遠のくそのとき、そのとき心はどこに行っているのか。それを知りたいのかもしれないし、その先に、そこでしか見られないものがあるのかどうかもわからないけれど、駆け抜けたい、走って、……、たぶんそうすればきっと、自分に追いつくことができる。服装はどんなのがいいのかしら? いざとなったら恥ずかしくないのがいいけれど、颯爽としたのがきっとよくて、ストレッチパンツにハイテクのスニーカーを履いて行こう。上はジャージ、中には去年プリントしたTシャツを着て、眉だけはしっかり描いて、右手の薬指にはリングを……。ドアをバタンと音を立てて出ていったらカッコよいだろうけど、自分で自分を見送るわけにはいかないから、ゆっくりと、心はもう走り出していて、鍵をかけたらそこにはもう別の世界が、旅が始まっていて、わたしは目を見開いて、その時間を、そこからの時間を祝福する。胸に手を当てて祈りたいけれども、一瞬目を閉じたその刹那に、心の無限の時間にすべてのものにひとつひとつ、控えめに優雅に、優美に、祈りの言葉を唱える。その調べはあの音楽のように……、音楽のようになって流れていく。目に入るものすべてが新しい。家々の息づかいを感じる、アスファルトから返ってくるわたし自身の存在の実感、地面の下の下の下、そのまた下の下の下、ああ、遠く遠くから見て、わたしと誰かはこの星を挟んでまっすぐに反対になっている。あなたにわたしの声を届けたい。フラッシュの瞬きがわたしの中で続いている。一瞬浮かび上がるそれが何なのか、わたしにはまだ見えない。手を伸ばしても何にも触れず、わたしもまた明滅の一部となって、時間が、止まる。
走る靴音がつくるリズムをもっともっと軽くして、どこまでも高く跳べるように。季節は冬から春へと? このあたりも木に葉がつけば景色は一変するでしょうね。陽の光が葉に照り返して、緑と白の対比が風に合わせてかたちを変えていく……。わたしは木々を見上げ、天に近づくような気持ちになる。枝が重なり合った木立のなかで、木陰の暗さに目が慣れて感じる落ち着いた明るさ。それに心が近づいていく。ゆったりするというよりは透き通った感動がからだのなかからわき起こって、わたしは、見ているものを決して忘れないだろうと強く思う。強く願う。背筋を伸ばして、少しでも上に近づきたい。心の中では手を伸ばして、そして、祈りの言葉を力強く、高らかに響くように、それはこだまして、拡がっていくといい……。踏みしめる下草や、腐りかかった茶色い落ち葉が澄んだ音を立てる。いのちがある。どこからか聞こえてくる鳥たちの声。どうか、わたしにも歌いかけてください。わたしはいつもあなたたちのことを祈っています。晴れた日にはどこまでも高い空を、雨の日には静かなかくれ家を、少しくらい強い風の日でも、あなたたちなら大丈夫でしょう。どうか、どうかご無事で。ずっとずっとわたしに歌いかけてくれますように。幹に手を触れて感じる冷たさはわたしをほっとさせてくれるでしょう。からだの中に淀んだものを、木々が吸い取って浄化してくれる。目を閉じてそれをじっと待っている耳に、休み休みに聞こえてくる調べ……。
森を抜けたら天にも届く高い山があるかもしれない。でも私には天使のくれた魔法の靴があるから大丈夫。魔法の鍵が鳴る音がまた聞こえる。走るわたしの耳に行き過ぎるものは何もなく、すべては常に、初めからそこにある。わたしと世界のあいだに境目なんかなくて、わたしは世界に包まれていて、世界はわたしから始まっていて、そしてそのどちらでもありそのどちらでもなく、愛は、だから愛は、そんなにもうつくしく、絶対的であって、それは歌のようにまっすぐにわたしに語りかける。あなたたちが合唱する声が聞こえてきて、わたしを勇気づける。わたしはもう迷うことがないような気持ちさえ持つことができるのです。息を整えて、歩き出すその先に、希望の他に何があるでしょう。歩みは速くなって、やがて風に乗って走り出す。
山の頂に立った瞬間の奇蹟。空が開け、その空の先は海とひとつになっている。濃い青が明るくなったような動かない水面。海は、あるのか、ないのか。わたしはそのとき、あまりにも空高くから見やっていて、そのなかの世界のことまで想像することができないでしょう。海の底へ降りて行けたら、そこで世界はもっと大きく拡がりを持ち始め、新たな道がそこから続いていく。吐く息は小さな玉となって連なって昇っていく。空へ向かって。からだの周りを水が満たしてわたしは世界との一体感を改めて覚える。世界とわたしとのあいだには境目などない。いつもよりもずっと速く走ることができる。夜の来る前に、向こうまで辿り着こう。わたしは水でもある。手のひらを眺めると青い指にリングが光る。水のなかで魔法の鍵の音は、わたしの頭のなかで鳴って、それから、光の玉となってゆっくりと拡がっていった。魔法の鍵の在処が、そうか、そういうことだったのかと。わたしは、そう、やはり走っていく。軽く軽くなって、ゆるやかな動きで、息は切らさずに、目を閉じて耳を澄まし、小さく笑みが生まれ、軽く閉じた唇に祈りの言葉が浮かぶ、祈りよ伝え、伝え、世界とわたしのあいだに境はない。わたしは腕を拡げ、天に向かう。スローモーションで進んでいく、髪が風のように感じる、ひんやりとした風がゆっくりとわたしを吹き抜け、わたしは目を閉じたまま、それを感じている。どこからか小さく歌声が聞こえてきて、そして、それはずっとずっと鳴っていたのだと気がつく、遠い遠い昔から、遠い遠い未来まで、絶え間なく、静かに静かに、人々を導き、すべての祈りの言葉を載せて流れていく、どこへ? どこだろう。答えはないのかもしれない。いつかわかるのかもしれない。だからわたしは走り続ける。速く、ゆるやかに。すべてをあるがままに任せて、なすがままに任せて、背筋を伸ばして、そしてわたしは岸へ上がった。振り返らずに砂の上を歩いて、まっすぐに進んだ先にあるドアを開け、そこにわたしを待つ人がいる。手をさしのべて、手を取りわたしは言った。「あなたの名前を教えてください」
(完)