おい、鈴木
四月って、嫌いなんだ。よく、春は出会いと別れの季節なんて言うが、あれが俺は苦手でしょうがなかった。別れはまだいい。後腐れないから。でも、問題は出会いだ。
ゆっくりと雲が流れ、太陽が穏やかな顔を覗かせる。
俺はこれから大学に通う、いわゆるピカピカの一年生。今日が入学式終わってから初めての学校生活だ。正直、緊張してる。白いボーダーに、安物のジーンズを履いて、ちょっと背伸びした親のローファー。今日から大学生活が始まるということもあって、俺は精一杯に自然体を意識した格好をしていた。
大学って、高校とは違ってクラスが無いってずっと思っていた。だが、鞄から取り出した大学のプリントによると、ちゃんとクラスが決まっているという。
指定された教室まで俺は迷わず辿り着いた。ドアの前で深呼吸。それでも緊張がほどけなかったので、軽く壁を蹴った。そしてドアを開ける。中では既に先生らしき年配の人と、多くのクラスメイト達が指定された席に座っていた。
俺はクラスの初日というものが本当に嫌だ。あの独特の緊張感。互いに腹を探り合うように近づき、警戒し、恐る恐る声をかける空気。ああ嫌だ。そうして気が合ったもの同士が友達となり、それが広がって、グループとなり、やがては大きな派閥となっていく。その派閥に漏れた者はたちまちスクールカーストの最下層になるんだ。孤独。そう、そいつはずっと孤独のまま、学校生活をひっそりと楽しむことしかできない。要はスタートダッシュが重要ってわけだ。
いかに頭が良い奴と出会うか、いかに面白い奴と出会うか、俺はただそれだけを考えて教室を見渡す。こいつはクラスの中心人物だなとアンテナが反応したら、あらかじめ媚を売っておく。もう一度言うけど、スタートダッシュが重要なんだ。
予習もバッチリ。今度こそスタートを決めて、不良の道を脱するのだ。
さて、これからクラスの自己紹介が始まる。俺は無愛想な顔つきのまま、席に着いた。
「沢羽隼です。よろしくお願いします」
俺はとりあえず無難に頭を下げておいた。まずは第一印象が肝心だ。ここで大半の人物像が浮かび上がる。まあいろいろな人間がいるものだ。あだ名で呼んでくれだとか、趣味はなんだとか、聞いてもいないのに次々と出てくる。とりあえず名前だけ言ってすぐに座った俺は正解だった。このクラス、結構静かだし、誰も笑いを取ろうとしてないし、茶化す奴だっていない。つまり、ここでは普通に挨拶するのが何よりの手法。反対に浮いてしまうのが最悪。さて、自己紹介も終わったことだし、気楽に眺めていよう。
「篠田怜です。えーと、勉強が得意です。一応高校の時に全国模試で二桁に入ったこともあります」
ふーん、それなのにFランのうちにしか受からなかったんだ。
「白井賢三です。高校の時は陸上部で、駅伝に出るためにこの大学に入りました」
知らないって。
「菅井周です。プラモが得意です。プラモのことだったらなんでも聞いてください」
はーまったく、どいつもこいつも自慢ばっかりだ。現時点で俺が重要人物と感じた奴は出席番号二番の阿部泰介。こいつは勉強できそうだし、爽やかでルックスも良い。清潔感のある黒髪に、体格の良さがくっきりと表れている黒のタンクトップ。ブランドや小物に拘るような軟弱な奴と違い、こいつは芯からイケている人間だとわかった。
このクラスは女子が少ないが、こいつと一緒につるむことができれば、他大の生徒と合コンやら飲み会やらで、俺は青春を謳歌できるかもしれない。うん、決めた。阿部にまず声をかけよう。
「次の人、立って」
先生の声だ。なんだ、緊張して立てないのか?
「は、はい」
やけにそいつは慌てていた。寝ていたのか、それとも何を言おうか考えていたか。そいつは席を立つと、肩をすぼめながら両手を長い体の前でクロスさせ、モジモジと指を動かし始めた。
「え、えーと、鈴木です。あの、特技は無いんですけど、趣味はいっぱいあります。最近はジェンガにハマっていて、一人でどこまで崩さずにやれるか挑戦しています。あと、トランプも好きで、大貧民が……」
そいつの自己紹介はとてつもなかった。ただでさえ静かな教室がさらに静まり返ったのだから。そいつは大貧民のところで話すのを三秒ほど止め、不安げに周りを見渡した。
「あ、もしかして大富豪ですか? すいません……僕の家では大貧民って呼んでいて、お母さんもそう呼んでいるし……」
これでクラス中の誰もが同じ感情を抱いたと思う。こいつはやばい奴だって。
その後もそいつは一分くらい話し続けた。先生が「はいはい、時間が押してるから次ね」って言わなかったらどこまで話していたのだろう。そいつの名前は鈴木と言った。間違いなく覚えてしまった。俺の頭の中で、鈴木の顔が離れない。ああもう、すべてあいつが持ってってしまった。俺は他の重要人物を早くリサーチしなければならないってのに。
鈴木という奴は俺から見て左隣に座っていた。少し距離があったため、それまで目に入らなかったが、よく見ると変なことをしている。短い髪を両手でモサモサと動かし、そうして抜け落ちた一本の髪を、名残惜しそうに自分のTシャツの中にしまい込んでいたのだ。
俺は目を逸らす。髪の毛を集めているのか知らないが、そこで鈴木がやばい奴というものが確信になった。「今までありがとう」という呟きまで聞こえる。心底気持ち悪い。
「じゃあこれで全員自己紹介が終わったな。それじゃ、次に必修の授業の説明に入る」
先生はそのまま、お経のようにどうでもいいことを話した。そんなことより、俺はどうにも鈴木という人物が気になって仕方なかった。だって、鈴木って死ぬほど普通な苗字なのに、なぜここまで変な奴なんだ。おかしいだろ。
鈴木は白のTシャツに短パン、ダサいブルーのリュックを椅子にかけていて、まるで小学生のようだった。こいつは俺と違って先生の一言一句に耳を傾けており、目を輝かせていた。よほど大学生活を楽しみにしていたのだろうか、それは俺だって負けていないけど。
「以上で終わりとする。それではよい大学生活を」
先生が教室を去った。これで自由時間ということだ。さて、俺はまず阿部に話しかけなければならない。阿部は前から二番目。俺の席からは少し離れたところに位置する。右だ。右に目を向けろ。間違っても左だけは向いてはならない。鈴木というモンスターがいるのだから。
俺は席を立つ。阿部はまだ資料を鞄にしまっているところだ。間に合うぞ。最初に声をかけてくれたのが俺なら、阿部にとって俺はかけがえのない相棒と認めてくれてもいいはず。さあ今だ。
その時、俺の左肩に何か手が当たった。
「あの~」
俺は恥ずかしながら「うおっ」と声を上げてしまい、そのまま首を左に向けた。そこには頼りなさげな目をした、もやしみたいな男が立っていた。
「糸くずついてますよ~」
「あ、どうも」
「ふへへ」
気味の悪い笑い声だ。俺は苦笑いを浮かべながら頭を下げ、そいつから離れた。
嫌な奴に目をつけられた。阿部に向かう途中、俺が眉間に皺を寄せたのも無理はなかった。それが鈴木との最初の出会いになったからだ。
俺はあれから阿部に声をかけ、メールアドレスを交換することに成功した。これで大学生活における最低限はクリア。いい奴そうだし、俺はできる限り阿部にくっつこうとした。だが、あの自己紹介の日以来、何かこう、疫病神のような、憑き物というか、変なものを抱えてしまったような気がしたのだ。例えば、クラスのみんなが集まる必修授業。俺はいつも阿部の隣に座り、教科書を広げ、先生が来るまでの間、雑談をしたり、ケータイゲームをやったりしている。そこまではいい。だが、問題はそこからで、俺の後ろから視線が感じられるようになったのである。
時々、声まで聞こえる。「ああ、それね」「俺も持ってる」「うんうん」
……地縛霊のよう。もうわかってると思うけど、それ、全部鈴木なんだ。
「あ~暑い」
今日も今日とて、俺の後ろには鈴木がいる。あいつ、やっぱり自己紹介で盛大にやらかしてからは、一人も声をかけてもらってないらしい。そりゃそうだ。あれだけ不気味な自己紹介をしてしまえば、誰だって敬遠する。友達? まっぴらごめんだね。
「誰か団扇持ってないかな~」
それにしても鈴木は独り言が多い。いや、独り言しかできないってのは知ってるんだけどさ、なんかこう、俺に向かって話しかけているんじゃないかって怖くなるんだ。俺は必死に無視を続ける。阿部だってそうだ。きっとあいつもうんざりしているはず。迷惑なんだよ、鈴木。
「おい、沢羽、今日飲みに行かね?」阿部からのお誘いだ。
「おっ、いいね。女子は?」
「用意しとくか」
「ははっ、頼むわー」
きたぞきたぞ。これだ、これが俺のやりたかった学生生活。阿部はやはり有能だ。
俺はちらっと時計を見る。この授業が終われば午後七時半。ちょうどいいじゃないか。そのまま飲み会コースといこう。
阿部はケータイで素早くメールを送ってくれている。長々とケータイと向き合っているのを見る限り、女子数人は固い。ああ、授業よ早く終われ。
思いが通じ、授業はいつもより十分早く終わった。阿部とアイコンタクトして教室を出る。阿部は自信ありげな顔つきだった。無事に女子を呼ぶことに成功したのだろう。
「駅前で集合ってことになってるから」
阿部は大学の最寄り駅の前で、立ち止まった。「ここにいれば来るよ」と言って、どっしりとしゃがみ込む。俺は髪型を整え、できるだけクールな自分を演じようとした。ポケットに手を突っ込み、遠くの一点を見つめ、どこか寂しげな目つき。気分はGACKTだ。
「あっ、阿部くーん」
遠くから黄色い声が聞こえてきた。そいつは間違いなく女子だった。髪を茶色に染め、耳のピアスをジャラジャラと鳴らし、きらきらとした笑顔を振りまいている。手には何らかのブランド品のバッグ。頭からつま先まで全力でオシャレしている感じ。俺ら黒髪男子とは縁の無い存在だ。阿部め、爽やかな見た目と裏腹に、チャラい女を知っている。
「ユミが一番乗りか。あとは?」
「んー、わかんない。あっ、キョーコ遅刻するって」
「ったくしょうがねえな」
阿部は嫉妬したくなるくらい女子と仲良かった。最後のキョーコって女が来るまで、俺は黙って阿部達の会話を聞いていた。時折阿部が俺に話を振ってくれたのだが、ついキョドってしまった。「あ……あ、そうだよね」なんて。クールな自分はどこへ行ったのやら。GACKTも泣いている。
「じゃあ行くとする?」
女子の誰かがそう言った。アミだっけ、ユミだっけ。まあそんなことはどうでもいい。次にそいつが続けて言ったセリフで、背筋が凍ることになった。
「そっち、男は三人?」
おいおい、こいつは数も数えられないのかと、最初は阿部も笑っていた。だが、そうじゃなかった。俺の後ろに、ひっそりと立っている男がいたのだ。
「……え?」
俺は振り向いたまま、二秒だけ固まった。阿部も振り向く。そこでようやく三人という言葉の意味が分かった。鈴木。あの鈴木がいつの間にか後ろにいたのである。
「お前いたのかよ!」
阿部が本気で驚いているのを見て、俺は安心した。思い違いではなく、本当に知らなかったようだ。俺に黙って誘ったんじゃないかと疑ってしまったが、そうじゃなかった。やっぱりこいつが勝手についてきたんだ。しかしいつから?
「ずっとそっちの子の後ろにいたけど」
俺の腹を読むかのように、女子の誰かがそう言った。……ずっと。気づかない俺も俺だけど、一体こいつはなんなんだ。完全にストーカーじゃないか。
「じゃあ店どこにするぅ?」
そう言って鈴木はキョロキョロと辺りを見渡した。待て待て、なんでお前が仕切っているんだよ。
阿部も気味悪そうにしているんだこれが。露骨。こいつこんなに態度に出ちゃうんだなって思った。そこで俺は阿部にある役をやってくれないかと期待することにした。もちろん「あっち行け」って追い払ってもらう役。俺は意外と昔からこういうことが言えない。憎まれ役はごめんだ。
「あのさ、悪いけど……」
阿部が鈴木に向かって口を開いた。いいぞ、もう少し。
あっち行ってくれない?
俺はそう続くと思っていた。いや、その場にいる誰もがそう思っただろう。だからこそ、あいつも敏感になっていたんだと思う。阿部より先に鈴木がアクションを起こした。
「沢羽!」
俺の名前。それだけ言って鈴木は俺の背中にしがみついた。
「なんだよ」俺は振りほどこうとする。
「置いていくなよぉ」
「は?」
本気でキレそうになった。誰もお前を呼んだつもりはないって。
「沢羽、お前鈴木呼んでたの?」
阿部がなんとも言えない表情をして俺を見た。気まずいのか、怒っているのか、悲しいのかもわからない。女子達も困惑しているようだった。目を合わせると、途端に女子達は目を伏せてケータイをいじり出したり、手鏡を見始めたりして、誰も言及しようとはしてくれない。早く終わらせちゃってよ。そんなテレパシーを感じたくらいだ。
「いやいや、お前のこと呼んでないって」
慌てて俺は否定した。無視は肯定だとイジメの授業で習った。だから俺はきっぱりと言った。
「なんで? 僕誘ってくれたじゃん」
それなのに、こいつはまだ食い下がる。
「おい、でたらめ言ってんじゃねえよ」
もうクールだとかそういうのはどうでもいい。とにかく、こいつを追い払わないと。
「沢羽、鈴木呼んだのならそう言ってくれよ。予約の関係があるんだから」
「だから違うって――」
「ねえ」
痺れを切らしたかのように、女子の一味がずかずかと寄ってきた。
「あのさ、そっちはそっちでやってくんない?」
女子達は阿部だけ連れて、改札口に向かってしまった。違う、俺はこいつと無関係だ。俺も慌ててついていこうとして、一歩を踏み出す。すると、また鈴木に止められた。「やめろよ」と俺は振り向き、鈴木の胸を小突く。たったそれだけで鈴木はふらふらとよろめき、バタンと尻餅をついた。もう一度向き直ったが、阿部達は人混みにまみれ、消えてしまっていた。
「待てって!」
思いも空しく、声は雑踏の中へと消えた。
俺の中で、何かが終わったような気がした。残ったのはこのお荷物変人だけ。すべて、すべて俺の青春を台無しにされてしまったのだ。
「行っちゃったね、阿部達」
公衆の面前ってことじゃなければ、俺はこいつをひたすら殴っていただろう。でも俺は大人だ。近くのベンチに腰掛け、まず、鈴木にどうしてあんなことを言ったのか尋ねてみた。
「授業前に言ってたじゃん」
鈴木は本気で誘われたと思っていたらしい。自分も阿部との会話に加わっていると確信していたとか。確かにものすごい小声で相槌を打っているように思えた。だが、俺と阿部は無視し続けた。そんなの今に始まったことじゃない。
そもそも、なぜ鈴木は俺にまとわりつくようになってしまったのか。思い当たる節はある。というか、それしかない。俺が阿部に声をかけようとした時、糸くずを取ってくれたことだ。あれはあれで完結しているものじゃないのか。そこから先、俺は鈴木と仲を深めようとしたか。していない。それなのに、たったそれだけで鈴木は俺の傍にいるようになってしまったのだ。寒気がした。恐怖。これはもはや恐怖としか言いようがない。
これが小学生の頃だったら、俺も構わず友達にしてあげただろう。
「どうせなら仲良くしてあげたら?」
ああ、先生の声が蘇る。だが、今の俺は何も考えずに付き合っていた頭空っぽの頃とは違う。俺にだって付き合う友達を選ぶ権利がある。
「あんな子と付き合っちゃだめよ!」
ああ、今度は旧友の親の声だ。俺があんまり暴力的で、頭も悪くて、家計も貧乏だったから、付き合うのを止めさせられたんだっけ。嫌なことを思い出した。
とにかく、俺はこいつと仲良くなりたくはなかった。だって鈴木の奴、隣でこんなこと言ってるんだから。
「この前、道に綿毛のタンポポがいたのね。そこでさ、ふーって綿毛を飛ばそうとしたんだけど、そしたら急に突風が来て、鼻の穴にぶわーって綿毛が入っちゃってさ~。ふへへ」
変人だ。あんな事があったというのに、悪びれもせず、こうもまくしたてることができるだろうか。
「……えーとね、次はね……」
あまりにも俺が無視するもんだから、鈴木の独演会。なんとか面白い話をして、俺の気を引こうとしている。ミエミエ。
「昨日の生命科学の授業中でね」
「いい加減にしろよ」
俺は怒った。右手を振りかざそうとしてピタッと止める。つい小学生の頃に戻ってしまいそうになったが、これは脅しじゃない。阿部に捨てられ、飲み会もパア。こうなったのも全部こいつのせいなんだから。俺は何か悪いことしたか? どうして神はこうも試練を与える。
「いやっ。暴力反対」鈴木が右腕で顔を覆った。
つくづく腹立つ野郎だ。俺は馬鹿馬鹿しくなって歩き出した。鈴木が追いかけてくる。後ろからでも、鈴木が焦っているのがよくわかった。俺は歩みを止めず、むしろ歩調を速めて改札をくぐる。鈴木も通り抜けようとしたが、そこで赤いランプが光り、ポーンと音が鳴った。
しめた。俺は颯爽と電車に乗り込み、鈴木を巻くことに成功した。そこで一瞬改札口を振り返ったのだが、そこで見た光景は忘れられない。
「金が無い! 金が無いよお!」
鈴木は確かにそう言っていた。それでも通り抜けようとしたので、駅員二人と、勇敢な一般人に取り押さえられた。
「お客様、切符を先にご購入願いますか」
「後で買うから通してよお!」
じたばたと体を動かしていたが、暴れれば暴れるほど異様な光景に見える。周りは汚いものを見るかのように、何事かとケータイをかざしている人や、唖然として突っ立っている人でいっぱいだった。
ざまあみろ。
ふっと笑ったところで、電車のドアが閉まった。
こう見えて俺は大学に通わないといけない使命感があった。入学料だとか、慌てて受験勉強したことを思うと、無駄にしようとは思えなかったのだ。だから俺は毎日大学に通うことにしていた。
すると、嫌でもクラスの人間とすれ違う。いつもは「おう」なんて言ってやり過ごしていたのだが、あの事件からちょっとした違和感を覚えた。なんだろう、小学校の時に、クラスの女の子を泣かせてしまった時の感覚。その時の俺を見る目と似ている。正直気分のいいもんじゃない。昔なら「なんだよ!」って問い詰めていたんだろうけど、今じゃそんなこともできないし。おそらくあの時の光景を誰かに見られていたのだろう。それで俺と鈴木の関係を勝手に知らしめ、クラス中に広まってしまったのかもしれない。
そういえば、阿部とも会わなくなった。おかげでいつまで経っても気まずさが抜けない。メールしようにも、なんて送ったらいいかわからないし、送る気も無かった。あの日鈴木がついてきたばっかりに、ここまで関係が途絶えてしまうとは。
そう考えたら無性に腹が立った。クラスの連中には白い目で見られ、阿部とも疎遠。どうしてもやりきれなかった。
そんな状態で俺は週二回ある語学の必修授業を受けていた。英語。必修じゃなかったら絶対に受けていない。先生はロボットのように、英文を読み進める。ああ退屈だ。でも、そのつまらない授業のおかげで、クラスの人間と会うことができる。普通の人間なら待ち望むかもしれないが、俺はやはり嫌になっていた。
あの事件から早二週間。阿部は一度も出席することなく、俺の隣はずっと空間ができていた。五月病にでもかかってしまったかと心配になったくらい。俺だけじゃない。何人かで固まっている冴えない顔した連中も、阿部のことについて話題にするようになった。
俺はぼんやりと天井を見上げた。早く来てくれないかな。今日も後ろに鈴木が座っているんだ。
「阿部なら平気だよ。あいつは引きこもるような奴じゃない」
ボソッと鈴木が言った。お前に阿部の何がわかるんだと心の中でツッコむ。
「ふへへ、僕もそう思う」
今度は急にトーンを変えて、勝手に一人で納得している。どうやら、今日は俺が一言も喋ってないから、横の女子グループの話を聞いていたようだ。見境無い。女子達は幸いにも鈴木が反応していることに気づいておらず、構わず阿部が行方不明であることを話していた。
俺はケータイを取り出した。ここで、クラスの連中とは違うってことをアピールするチャンスだと思ったのだ。神はいいきっかけを与えてくれた。俺は久しぶりにアドレス帳から阿部のページを開き、メールを打った。
〈おーい、授業どうした?(笑)〉
(笑)は、まだ俺が阿部に遠慮しているのがわかる。できるなら「授業来いよバカ」とだけ送ってしまいたい。送信し終えてから、俺は俯き、ため息をついた。普段の自分なら、「授業来いよバカ」だ。完全なる自分だ。今の俺は作り出した自分。良いように見せている自分。必死に嫌われまいともがいている自分。そして、俺が本当に聞きたかったのはそんな誰もが思い浮かべるようなことじゃなかった。
あの事件、あいつはどう思っていたのか。俺のことを嫌いになったか。軽蔑したか。聞きたいことが山ほどある。ただ、そのことを聞いてしまうと、俺の中で唯一繋ぎ止めていた線が切り取られてしまいそうになったので、聞くに聞けなかった。嫌いだよ。軽蔑したよ。そうメールを返されたら俺はどうしよう。そうなるのが怖くて耐えられなくて、俺は二週間も苦しんだ。今、心のどこかで「返信来るな」と思っている。いくらでも悪い返信が頭をよぎるからだ。どうやら俺は、頭空っぽだったその中に、不安と弱い心を詰め込んでしまっていたらしい。
「じゃあ次のプリント配ります」
先生の声。俺は我に返り、前から配られたレジュメを手に取る。英文で書かれた長ったらしい資料だ。まったく、こんなの誰が読むんだよと毒づいて、レジュメを席の後ろの鈴木に渡す。「いつも悪いね」とにやにやしながら鈴木はレジュメを取った。
急に教室のドアが開いた。誰かが遅刻したらしい。クラスが一斉に視線をドアに向けた。そこには、真っ黒に日焼けした阿部の姿があった。
「遅いぞ。ん? 君は阿部?」
「はい、そうっす」
「きゅ、急に焼けたな」
先生が戸惑っているのを見て教室がドッと沸いた。やがて口々に「久しぶり」「どこ行ってたんだよ」「遅えぞー」と反応が挙がった。中には「阿部ちゃん」なんて馴れ馴れしく呼んでいるのもいる。俺だってそう呼んだことないのに。なんだか悔しくなってきた。
阿部は申し訳なさそうに、ドア付近の一番前の席に座った。いつもなら、俺の隣なのだが……。まあ注目を浴びてしまい、一刻も早く席に着きたかったのだろう。俺は悲観しなかった。まだこの時は。
「阿部、そんなに日焼けして、どこに行ってたんだ」
先生は教科書を教卓に置き、腕を組んだ。
「サークルの友達とグアムっす」
おお~っ、とクラスが盛り上がる。
「グアムってお前、良いとこ行ってたな。みんな知ってるか?」
そう言って先生は再びロボットのようにペラペラとグアムの歴史、地形、観光スポットまで話し始めた。だが、先生の熱弁も空しく、クラスの興味は阿部に注がれていた。阿部の後ろに座っている男が、何やら楽しそうに阿部と会話をしている。いろいろと質問をしているようで、阿部がはっきりとした口調で答えていた。それは俺にも聞こえたし、クラス中に澄み渡っていた。だから、阿部が面白い回答をすると笑い声が起こったし、俺の前に座っている女も、首をうんうんと頷かせて阿部に首ったけの様子だった。
とにかく、阿部はこの授業の残り時間で、完全にクラスの人気者となった。先生が授業を切り上げると、真っ先に阿部の下へみんなが駆け寄った。俺は取り残された。もう一人、後ろにもいたが。
「阿部、面白いな。アドレス教えてよ」
「うちもうちも」
「じゃあグループ登録しておくね」
クラスの連中が次々と害虫のごとく阿部に群がった。
俺はわざと慌ただしくプリントをしまい、忙しいふりをして、先に教室を出た。遠くから楽しそうな笑い声が追いかけてくる。
気にするな。気にするな。
俺はそこから感情を消した。これ以上クラスのことを思うと、ダムにヒビが入りそうになったからだ。俺は慌てて閉まりかけていたエレベーターに乗り込む。急いでウォークマンを取り出し、イヤホンを耳にあてた。今日のテーマはスピッツ。「プール」を聞こう。
俺からのメールは、阿部にとってもう、答えを出していたつもりなのだろう。グアムに行ってたこと。クラスの前で話してくれたこと。それがすべてだ。だから返信はしなかったのかもしれない。だが、そうじゃない。俺の中で、もやもやとした感情が消えることはなかった。そして今、ものすごく気分が悪い。下痢? 頭痛? 違う。鈴木だ。
「偶然だよね~、電車で会うなんて」
そう、ここは憩いの地である電車内。ケータイをいじったり、本を読んだり、皆が思い思いの行動をできる限られた公共スペース。俺はそこで一人でケータイゲームをするのが好きなんだ。ウォークマンを聞きながら、レベル上げをして、疲れたら寝ることだってできる。ガタンゴトンと揺れる振動が心地良い。まさに憩いの場。
そんな中で鈴木に出会ってしまったもんだから、俺の気分は一気に最悪モードになっていた。俺の隣の席に鈴木が座っている。これ以上の凹むイベントはない。
そんな空気が伝わったのか、鈴木も話を止め、ぼんやりと海の映える景色を眺めていた。気まずくなってしまったので、俺はあの時のことを質問してみた。なぜ通り抜けることができなかったのか。これだけはどうしても気になっていたのだ。
「お前、そういえば金が無かったって言ってたけど、定期買ってねーの?」
「うん、買う必要がない」
まーたそんなこと言って。いるんだこういう奴。どうせあんまり学校行かないから定期いらないって奴な。どうせこいつも親から貰った定期代をゲーセンで使い切っちまったとかだろう。おっと、そんなこと言うとまた俺の過去がバレる。高校時代の若気の至りってことで見逃してやってくれ。
「阿部、元気そうだったね。よかったよ」
鈴木はあの日のことを言っているらしい。俺は適当に相槌打って、その場をやり過ごした。そして窓に目をやる。
その日から阿部の人気は留まることを知らず、日に日にクラスの中心人物と化していた。やはり俺の目に狂いは無かった。だが、問題だったのは、俺と話さなくなってしまったことである。辛かった。ただ指を咥えて、楽しそうに話す阿部を見ることしかできなかった。もしここで俺が輪に入ったら、きっと周りは怪訝な表情を浮かべるだろう。鈴木との一件もある。そうなるのはまっぴらごめんだった。
「あのさあ、沢羽、一生のお願いなんだけど……」
突然、鈴木が申し訳なさそうに顔を近づけた。俺は一生のお願いなんて言葉を使う奴は信用しない。
「今度ディズニーランドに行かない?」
そう言って鈴木は電車内であることを気にもせず、手をパンと合わせた。大きな音だったからか、数人がこちらを見る。視線が痛い。俺は席を立とうとしたが、鈴木が一歩早く席を立ち、俺の前でポーズを取った。
「さあ行こう、夢の国へ!」
口ではそんなセリフを言っていたが、ポーズはなんとかレンジャーの決めポーズのようだった。ああ恥ずかしい。俺の前に座っている小さな男の子が口をポカンと開けている。俺は一刻も早くこの場から逃げ出したかった。
「沢羽って前、千葉方面の電車に乗ってたよね。じゃあディズニーは近いんだ?」
近い。俺の出身は船橋だ。電車で三十分もあれば余裕で行ける。
「でもなんでお前と行かなきゃいけないんだよ」
「友達だからに決まってるじゃん」
「は? いつ俺がお前の友達になったんだよ」
一瞬だけ電車内が静かになった。そんな気がした。
「……そっか、いつからだろうね……」
鈴木は珍しく落ち込み出した。露骨に友達ではないと主張したのがよっぽど効いたのだろう。言い過ぎ? とんでもない。否定しなきゃ肯定なんだって小さい頃から授業で教わってきたんだ。二度目だけど。
「はあ、ディズニー行きたいなあ」
そう呟くまでは良かった。次の瞬間、鈴木は大声でこんなことを言いやがったのだ。
「僕の友達はなんて冷たいんだ! ああ神様、僕は憧れのディズニーランドに一人きりで行ってきます! たった一人で……」
「うるせえ!」
俺の声もうるさかったようだ。さっきよりも厳しい目を向けられているような気がする。小さな男の子も「かわいそう」と漏らしやがった。だんだん自分に言いようのないプレッシャーが押し寄せてきた。無言の圧力。口では言ってないが、誰もが俺に向かって「一緒に行ってやれよ」「かわいそうだろ」と目で訴えかけていた。俺は首を振る。まさか、大学生にまでなってこんな思いをするとは思わなかった。やめてくれ。俺は自分の意見をきっぱりと言っただけじゃないか。
「……わかったよ。行ってやるよ」
絶対に同情するつもりはなかった。だが、口ってのはどうしても脳と繋がっていないもので、勝手にそう動いてしまっていた。俺という人間が昔からよくわからない。そう、頭の中ではわかっているはずなのに、勝手に口と手が動いてしまっているんだ。脳なんて、ただの飾り。いくら命令したって、肝心なところで機能が停止しやがる。
「沢羽、ありがとう!」
後悔しているうちに、鈴木は一人喜んでいた。それまでずっと苛立っていたが、こうも喜ばれるとなんだか気恥ずかしくなってしまう。やがて、あいつの目的地の駅が見えると、鈴木は「今度の日曜日、舞浜ね。九時!」と言い残して電車から降りた。
俺は茫然としてホームを見つめる。すると、鈴木は近くのベンチに座っていた女子高生二人組に近寄り、声をかけていた。声をかけられた二人は気味悪そうに苦笑いを浮かべる。鈴木はお構いなしにべらべらと喋りまくり、また例のポーズを取ってみせた。おそらく、ディズニーランドに行くことが決まって、自慢していたのだろう。本当に子どもみたいな奴だ。
発車のベルが鳴る。電車が出発すると同時に二人も立ち上がり、鈴木から離れた。
すっかり阿部とは自然消滅の状態になっていた。もちろん俺は辛かったが、そうじゃないとばかりに必死に誤魔化した。授業が終わった後も、忙しいふりをしたり、わざとトイレに入ったり、あえて鈴木と会話してその場をやり過ごしたりもした。そう、俺は阿部と話せないんじゃなくて、不可抗力で話さなくなってしまっただけ。そうやって自分と自分を取り巻く環境を操り、無理に演じ切っていた。
やがて阿部も悟ったのだろう。最初のうちはどこか気に留めるそぶりがあったのだが、次第に席も離れ、違う友達とつるむようになった。
結局あのことを切り出せずに会話は止まったまま。メールも未だに返信が来ない。ずいぶん気付かないもんだな、とケータイの画面を見て俺は口を尖らせた。
「沢羽、明後日だよ。明後日」
鈴木は鬱陶しいくらい俺に話しかけてくる。よっぽど楽しみなのだろうが、俺にとっては嫌なカウントダウンにしか思えなかった。先生が教室に入ってきて、ようやく周りの会話が止まる。俺は今日も阿部達の会話を盗み聞きしていた。今日はミリタリーの話。俺もそこそこ詳しいだけに、悔しかった。阿部が得意げに戦車の車種を語りだすと、プラモ好きのオタクみたいな奴も加わって、少し離れたところで女子が「お前達詳しすぎてきもいー」なんて声をかけて、どんどん大きな輪になっていく。「うるせえ!」って阿部も嬉しそうに怒るんだ。俺との会話では、そんなトーン聞いたこと無かった。「ふざけんな!」とか、「あっち行ってろ!」とか、無知な女子に対してはずいぶんきついことを言っていた。最初は女子のことを嫌がっているんだと安心したけれど、しばらくすると、また楽しそうに話し始めるのを見て、俺は目を背けるしかなかった。
「改札口前にいてね」
鈴木はそう呟くと、教科書を開いた。
俺の思い描いた理想の大学生活とはほど遠い。よく、漫画やラノベの主人公は女子にこうやって声をかけられている。主人公はかったるい返事を返しながらしぶしぶついていき、なんだかんだ楽しんで、終いには充実した気持ちになっているのだ。あいつらを心底羨ましく思う。俺に比べれば百倍マシじゃないか。誰が好きでこんな奴と……
ばっくれようか。
俺はその葛藤とずっと戦っていた。正直、行きたくない。それならば何か上手い理由でもつけて断ろうとするのが普通の人間だろう。俺だって考えた。だが、やはり脳というのは機能しないもので、俺がいくら素晴らしい言い訳を考えても、口に出すことができないでいた。
何度もチャンスはあった。鈴木に向かって一言伝えれば済む話なのに、それができない。いつもすんでのところで口が止まり、嫌な汗が流れ、脳が死んでしまう。「どうしたの?」って鈴木に声をかけられて、ようやく俺は生き返るのだが、これはなんて説明したらいいんだ。どうしても治らない病なのだろうか。
そして俺はついに日曜日を迎えた。きっちり九時に舞浜駅。改札口前では既に多くの人がいて、むさ苦しかった。家族連れやカップル、観光客だろうか、外人の団体がひしめき合っていて、立ち止まることすら困難だった。こんな状況で一人の人間を探すのは至難の業だろうなと感じる。だが甘かった。あいつを誰だと思っているのか、当然一筋縄ではいかなかった。
「同じ大学に通っている沢羽隼はいませんかー! 沢羽隼ー! えっと、髪が黒くて背は175㎝くらいで、ちょっと切れ目で服はいつもボーダーの沢羽隼くーん!」
俺はすぐに声の発生源に駆け寄り、そいつの頭を思いっきり殴った。
「いったい!」
「ふざけんな、何変な放送してんだ!」
「放送?」
そう言うと、鈴木は大きく笑い出した。それが鈴木のツボだったのだろう。放送という表現が可笑しかったようで、ずっと腹を抱えていた。それを見てるうちに、俺も馬鹿らしくなって怒るのを止めた。
「ああでもしなかったら、沢羽がどこにいるのかわからないじゃない」
鈴木は至極当然といった顔つきで言った。確かに鈴木は今まで一度もケータイを手にしていない。いや、持っていても電話番号など聞きたくもないのだが。
「ケータイ持ってないとかお前本当に大学生かよ。珍しい奴」
「だってさ、持っててもつまらなくない?」
「ネットとか見ないのか?」
「うん。人生の無駄。そんなのに時間を使うくらいなら、外行って遊んでるよ」
いつまでたっても小学生みたいな感じ。これは初めて見た時からずっと変わらない。本人は決して変とは思っていないのだろうけど、ケータイが人生の無駄なんて、俺には考えられないね。今朝も電車内でケータイゲームをしていた俺にとっては、あり得ない発言だった。
ともかく俺と鈴木は目的のディズニーランドへ繰り出した。女っ気無し。俺の思い描いた理想の大学生活は音を立てて崩れ去ったが、そんなことも知らずに鈴木は俺の手を引っ張る。
鈴木には専用のパスポートがあった。なんでも、これを持っていれば優先的にアトラクションに乗せてもらえるらしい。そんなわけで俺らはすべてのアトラクションに乗ろうかという勢いで、園内を駆け回った。写真も撮った。食事もした。そうは言っても楽しくは無かった。はしゃぎまわる鈴木を俺が止めてただけ。まるで保護者のように、つきっきりで面倒を見ていたため、夜のパレードの頃にはすっかりくたびれてしまっていた。
「いやー今日はありがとう」
帰り際、鈴木は心底満足そうに笑った。俺は疲れ切っており、適当に手を振って別れた。最後に「今度はうちの家来てよ」なんて言われたが、やはり俺は嫌がるのだった。
そう、俺はまた例の調子で鈴木に誘われ、あいつの家についていくことになった。場所は神奈川県の厚木市。ずいぶんといいとこに住んでいるものだ。厚木といえばベッドタウンの印象が強いが、意外に山も多い。事実、鈴木の家は山の中に存在し、道を進むにつれ、電波が入らなくなってしまった。
「もう少しだからね」
このセリフも五度目だ。自宅を出発してから二時間以上も経っている。俺は本当にこんな山奥に人が住めるのかと疑心暗鬼になっていた。
「とうちゃーく」
ようやく鈴木の家が見えた。だが、それらしきものが映ると、俺は目を細め、首を突き出した。なんだこれは。完全に山小屋じゃないか。
「いらっしゃい。沢羽くんかい?」
中に入ると、鈴木の祖母と思われる方が、ベンチのような木彫りの椅子に座っていた。
「お母さん、これから遊ぶから外行ってて」
母親だったようだ。
鈴木の母親は「はいよ」と言ってゆっくりと腰を上げ、俺に一礼してから靴を履き、外へと出て行った。
それにしてもここは山小屋というよりはログハウスだろうか、個別の部屋が存在せず、トイレ、洗面所、ベッドまで玄関から全部見渡すことができた。完全にアニメの世界。壁は丸太だし、テーブルも近くの木を切って作ったようである。ベッドもだ。テレビや洗濯機のような電化製品が無いところも、どこか現実離れしていて、ここだけ異国の世界ではないかと錯覚してしまった。
俺は鈴木に促され、中心にある大きなテーブルの前まで向かい、先ほど母親が座っていたところに腰を下ろした。
「ジェンガやらない?」
鈴木はテーブルの下に置いてあったジェンガの一式をテーブルに広げる。それはやけに黒ずんでいて、年季が入っていた。間違いなく、この家の中で一番黒い木だった。
「どうしたの? やっぱりうちの家珍しい?」
「珍しいっていうか、こう……」
俺はもう一度部屋を見渡す。こんなログハウス、やはり珍しいとしか言えない。
「沢羽」
俺があまりにキョロキョロとするもんだから、鈴木も気分を悪くしたか。
「悪い悪い」
とりあえず俺はジェンガを積むことにした。すると鈴木も楽しそうにジェンガを積み始めた。互いの手が交錯して、ガラガラと崩れるというハプニングがあったものの、なんとか全部積み終えた。
自己紹介にもあったが、鈴木はいつも一人でジェンガをしているのである。それなりに練習をしているのだろう。だが、いざ勝負してみるとこれが弱かった。何度やっても俺の勝ち。鈴木は信じられないくらい不器用で、ずっと手が震えていた。しかもパーツをすごい勢いで引くので、その反動でグラッとくることも多かった。
「次は大貧民やろう」
鈴木はトランプを持ってきて、テーブルに広げた。それはやけに手脂が染み込んでいて、ベトベトしていた。カードがくっついてしまい、取りにくい。そのため、一度テーブルの端に寄せ、すくい上げないといけなかった。それだけじゃなく、もっと重大な欠陥がある。
「……やけにそれだけボロボロだな」
「ああこれ?」
ダイヤのエースだけが異常に折り曲がっており、皺が目立っていたのである。どんなに平面に引き延ばそうとしても、エースは元のテント状から直ろうとしない。
「お前これじゃエースが手札にあるって一発でわかるじゃねえか。なんとかしろよ」
「いいよそれで。ラッキーってことでいいじゃん」
鈴木はこともなげに言う。そしてカードを全部集め、ぎこちないシャッフルをしてみせた。エースがはっきりわかる。空洞が嫌でも目についてしまう。
鈴木はシャッフルを終えると、エースをトランプの一番上に置き、鈴木、俺の順にカードを配り始めた。鈴木が笑顔を噛み殺すかのような表情をしている。まるで「エースは自分のものだぞ。しめしめ」と言わんばかりに。
「ずるい」
「あ、ばれた? エースは僕が持つの。ふへへ」
つまらない。第一、大貧民なんて二人でやるゲームじゃないだろ。俺は大量の手札を抱えながらため息をついた。
鈴木はまず最初にハートの4を出した。それに対して俺はハートの2を出してそれを流す。こちらのターンになり、スペードで揃えていた3から9までの七枚をバッと広げた。
「はい、階段革命」
「え? なにそれ?」
そうか、これを知らないのか。
大貧民というゲームは地域によってルールが異なる。俺の地元のルールでは、今の階段革命というものが当たり前のように存在していた。通常はこんなことなかなか起こらないのだが、今回は二人ということもあり、容易に大技ができるのである。だから大味になってつまらないんだ。
「階段革命ってのは……」
ああ、難しい。鈴木も革命は知っていたが、鈴木家のルールではそれしか取り入れていないようだった。俺の地域ではまだ他にも、矢切り、7渡し、スペ3……とまだまだルールが存在している。それをいちいち説明するのが面倒になり、結局鈴木家のシンプルなルールに従うことにした。
二人でするトランプのゲームなんて、いくらでもあるだろう。だが、大貧民とババ抜きほどつまらないものはない。大貧民は五回ほどやった。ダイヤのエースが全て向こうに渡ったが、勝ったり負けたりだった。俺は特に感情も無く、ただ適当にその場をやり過ごしていた。鈴木に悟られないようにしながら。
「そろそろ帰るか」
すっかり日も暮れてきた。今から帰っても家に着くのは夜だろう。
「沢羽! 泊っていけよ」
鈴木が鼻息を荒げて俺に近づいた。だが、そうもいかない。俺は明日の朝からバイトの面接があるのだ。今度はディズニーの時と違って、まっとうとした理由がある。
「いや、無理。明日バイトの面接があるから」
「えー! そんなのやめちゃえよ」
「無理だ」
「バイトなんていつでも見つかるじゃん!」
「お前なー」
人の都合をなんだと思っているのだ。段々腹が立ってきた。
「沢羽、一日、一日だけでいいから泊ってくれよ」
「だから無理だって!」
「頼む!」
「無理!」
「頼む!」
「無理!」
「こらっ!」
急にドアが開いた。慌てて玄関を見ると、鈴木の母親が大きな牛蒡を手に持ちながら怒っていた。まるで鬼である。
「人に迷惑かけないって言ったでしょ! 沢羽くんにも予定があるんだから」
「だって……」
「すいませんね沢羽くん」
「いえ……」
鈴木はそっぽを向いてベッドに寝転んだ。
「鈴木」
俺がいくら背中に向かって声をかけても、返事をしてくれない。埒があかないので、俺はそのまま帰ることにした。
駅までは鈴木の母親がついてきてくれた。そこで、俺にこんなことを言ってきた。
「今日はありがとね。あの子、今まで友達がいなくて……」
どう答えていいかわからない。「はあ……」と頷くよりなかった。
「すいませんけど、電話番号と住所を教えてくれませんか?」
胸のポケットから、黄色い紙のメモ帳とボールペンを取り出した。それらを俺にゆっくりと差し出す。鈴木の頼みならいくらでも無視することができたが、さすがに母親に対してその態度はできない。俺はなかなかインクの出ないボールペンを紙にこすらせながら、なんとか電話番号と住所を書き込んだ。
「ありがとう、ほんとにありがとうね」
母親は泣いていた。何度も何度も頭を下げていた。
ずいぶん大袈裟だなと、この時はそう思った。
六月。ずいぶん暑くなってきた。
俺は風鈴の鳴る縁側で靴下を履き、バイトに向かう準備をしていた。引っ越しのバイト。こんな暑い日はきついが、その分やりがいがある。
俺の生活はそのバイトのおかげで一変した。まず、阿部の姿を見ることを避けるために、俺はあえてシフトがきついバイトを選んだのだ。「いつでも入れます」面接の時にそう言ってしまったら、お構いなしにシフトを詰め込まれてしまった。
そんなわけで学校にも行かず、ひたすらバイト。ここのところ働き詰めだ。十連勤なんてこともやったこともある。もうここに就職してもいいかってくらい充実していた。もう入学当初の思いはどうでもよくなっていた。
阿部は俺の中ですっかり消えた。もう一人、鈴木も消えていた。正直、俺達の関係はあの喧嘩で終わったもんだと思っていた。そしてもう一つ、俺には長い付き合いの友達ができないということも再確認した。昔からそう。築いた関係が一瞬のうちに崩壊し、それを建て直したことが無かった。少しでも気まずい思いをしたら、そいつとはもう関わらない。
小学生の頃に、友達の親に叱られて離れ離れになってから、俺は別れを覚えた。中学生になってもそれは続き、高校に入って、俺は孤独という敵から逃げるために不良になった。ゲーセンに通い込み、煙草や酒、風俗も経験した。それもすべて孤独。不良の俺に周りは寄り付くことができず、俺は思い通りの高校生活を送った。
そんな俺でも大学に入れたのは、母親のおかげだった。せめて大学に入ってくれと母親に泣かれてしまい、俺は嫌だったのだが、口が勝手に「わかった。今までごめん」と言ってしまっていたのだ。
そうして俺は半年間勉強し、なんとかセンター入試を使って今の大学に入学することができたのだが、親は俺が大人しくなってくれればなんでもよかったのかもしれない。俺の大学合格など知らん顔。むしろ「もっと早く勉強しとけば」なんて言って煙草をふかしているのである。
その頃、周りでは有名大学に受かっただの、国立に落ちただの、楽しそうに会話しているクラスメイトの姿があったが、俺は無視した。特にお祝いなどされず、一人で大学合格を喜ぶしかなかった。
とにかく、友達と呼べる人間は、俺の中でどんどん消えてしまい、別れもすっかり慣れてしまった。後腐れなく別れるのなんて簡単だ。だが、この気持ちを幾度も味わうのが辛かった。そうやって俺は人と出会うことを嫌がったのである。
とはいえせっかく入った大学。事前にスタートダッシュが大事とネットで下調べをして、俺は生まれ変わった気持ちで友達を作ろうとした。阿部泰介。確かにいいチョイスだったかもしれないが、結局友達がどういうものかわからないまま、またも同じように関係を崩した。声をかけたのに、どうして友達になってくれないのだろう。そもそも友達ってどういうことなのだろう。
冷蔵庫から取り出した麦茶を喉に流し込み、俺は外に出た。結局、俺は独りが似合っているのかもしれない。今、こうしてバイトに明け暮れる自分が好きだ。
俺は自転車を精一杯漕がす。この瞬間が一番好きだ。自転車を漕いでいると、馬鹿らしいこともすべて忘れることができたから。自分の道が見えたから。こんな気持ちは受験勉強の時以来だった。
いつもの坂道が見えた。息を吐き、サドルから腰を浮かす。そしてそのまま猛スピードで飛ばした。
バイト先まで、できるだけ、できるだけ速く走った。胸が締め付けられようとも、汗が目に入っても、すべてが気持ち良かった。
夏も最中、鈴木から突然フォトレターが届いた。暑中見舞いとのこと。海外旅行であることは写真の雰囲気で分かった。似合わないサングラスなんかかけちゃって、一人で看板の隣でピースをしている。俺はまじまじとその看板を見つめた。それは英語で書かれているものではなく、どこかアラビアの雰囲気が漂っていた。まったく、こんな暑いのにどこ行ってんだと毒づいた俺は冷蔵庫を開け、チューブ型のアイスを取り出した。そしてもう一度その看板を見つめる。その葉書には何やら妙なメッセージが書かれてあった。なにやら、日本に自分がいなくてもしっかりやれよ! というもので、俺はアイスを噛みしめたのである。
海外旅行というものに俺は興味が無い。というより、海外旅行に出かける人間が理解できない。なぜわざわざ危険な思いをしてまで旅をするのか。ネットのニュースじゃ専ら邦人が行方不明だの、拉致されただの、悪い話が蔓延っている。どうせ無駄にリスクを背負い、金も余計にかけるくらいなら、日本でいいじゃないか。
そんなかつての思いを揺らがすくらいに、その看板は魅力的だった。ただの看板じゃない。太陽のマークが中心にあり、幻想的で得体の知れない何かを秘めていた。俺は気になって、その看板について調べてみた。手掛かりは謎のアラビア語、看板、ビーチ。ヤシの木も遠くに見える。ホテルもあった。たったこれだけだったが、俺は図書館に駆け出し、あの看板の正体を突き止めることにした。
世界の看板なんてどういった人間が見るのかと馬鹿にしていたが、まさか俺が見ることになるとは。俺の手に取った本はイラスト付きで、ずいぶんと見やすかった。おじさん達に紛れ、大広間のテーブルの一角にちょこんと座り、ページをめくる。目次を凝視するのなんていつぶりだろうか。
きっと写真に収めるくらいだから有名な看板なのだろう。俺は中東のページを開いた。すると、運よく葉書と一緒の太陽のマークを発見したのである。
その看板はイスラエルという中東の国のものであることがわかり、その中のエイラットという地域にあるらしい。イスラエルは日本から片道十五時間。パレスチナ地方との戦争が絶えない危険な国ということもわかった。
続けてパソコンコーナーに向かい、いろいろ調べてみると、銃声がパンパンと鳴る動画や、幼い少女を乱暴する裏サイトまであった。そんな中に鈴木がいるらしい。ふらふらと戦場に迷い込んだりして、撃たれてないだろうかと思いを巡らせてしまう。
ところが鈴木の撮っているスポットは、戦争とは縁が無さそうだった。やはりお目当てはビーチなのだろう。そういえば死海もイスラエル辺りにあると聞いたことがある。そもそも鈴木はイスラエルの国際事情など知らなかったのかもしれない。すっかりバカンスを楽しんでいたようで、写真の鈴木は憎たらしいほど日焼けしていた。
夏も終わろうとしていた昼のことだった。縁側で扇風機に当たりながらぼんやりと外を眺めていると、急にケータイが鳴った。普段誰からも電話をもらったことが無かったため、俺は緊張しながら電話に出る。
「沢羽くんかい?」
声の主は謎の老婆である。一瞬間違い電話かと思ったが、「鈴木です」の声で思い出した。鈴木の母親にケータイ番号を渡していたのだった。
「お時間大丈夫ですか?」
俺は家にいた。今日はたまたまバイトが無く、別段用もなかったので「はい」と頷く。
「ありがとう。あのね……こら、うるさいわよ」
電話の向こう側から何やら騒がしい声がした。鈴木の母親はなかなか本題に切り出せず、ずっと静かにしろとなだめていた。なんとなくその声の主はわかった。鈴木だ。
「すいません、ちょっとうちの息子とお電話変わってもらっていいかしら」
俺の返答の前に、荒々しい鼻息が耳に広がった。
「沢羽、久しぶり!」
やはりあいつだった。人間久しぶりに会うと、それまでの嫌な出来事を忘れてしまうのか、口ぶりが穏やかになる。俺のトーンも一切トゲがなかった。
「おい、ずっとうるせえ声が聞こえてたぞ。……久しぶり」
鈴木とはずっとたわいもない話をしていた。通話時間を見てみると二時間を超えていたのだ。それでも外はずっと明るいまま。夏だなとしみじみしてしまう。結局、母親が言おうとしていたことはわからなかった。あいつが勝手に電話を切ってしまったからだ。もう一度電話しようにも、さすがに二時間話しっぱなしは疲れた。
そういえば、海外旅行の件について話すのを忘れていた。一番伝えたかったことじゃないか。俺は天を仰いだ。
イスラエルはどうだったかと言ったらあいつはどんな顔をするのだろう。目を丸くするか、それとも「バレたか」って笑うか。いずれにせよ反応が楽しみだ。
ふと空を見上げ、流れる雲にうっとりとした眼差しを向ける。久しぶりの鈴木はあの雲のように自由で、終わりが見えなかった。いつになったら会話が尽きるのだろう。そんなことを思いながらずっと話し込んでいた。自己紹介の時もそうだったっけ。
そういえば、鈴木は電話を切る時、変なことを言っていた。
「楽しかったよ」
まるで別れを切り出す時のそれではないか。
急に雲のスピードが速くなった。遠くの方から暗い雨雲が走ってくる。わずかに雷の音が聞こえた。これだから夏はいけない。俺は慌てて洗濯物をしまい、窓を閉めた。
鈴木の母親から電話を貰ったのは、次の日のことだった。
本厚木にある病院に来てくれと言うので、俺は嫌な予感がした。そう、鈴木の最後の言葉はそういう意味だったんじゃないかと思ったのだ。俺は家を飛び出し、慌てて本厚木駅を目指した。母親から教えてもらった病院とはずいぶんと駅から遠く、徒歩で三十分もかかる場所だった。
「やべえな……」
俺は腕時計を見た。何と戦っていたのかはわからなかったが、とにかく間に合わないような気がした。それだけ、気が動転していた。
本厚木駅に降りると急いで階段を駆け下り、南口を目指した。病院の位置はわかる。後はただ走るだけ。嫌な予感でいっぱいだった俺にとって、タクシーという冷静な判断は到底できなかった。タクシーよりも、走ったほうが早く着くような気がした。もちろんそんなことは無いのだけれど。
歩道を全力で走るなんて、今までの俺なら絶対にできなかった。何急いじゃってるの。何必死になってるの。いくつもの目でそう思われるのが嫌だったのだ。
今もそう思われているに違いなかった。車道から俺を覗き込む顔が映ったからである。道行く人が次々と俺の顔を見る。だが、そんなことも気にせず、俺は一目散に駆け抜けた。
目の前の大通りの信号が点滅し始めた。まずい、あそこは渡っておきたい――
俺はさらにギアを上げた。急げ急げ。握っていた拳をほどき、肩を大きく揺らした。心臓が苦しい。きつい。点滅が消えたと同時に俺は白線を渡り切り、ぷっと唾を吐いた。
「あんちゃん速えなあ」どこからかそういう声が聞こえた。
白い建物が見えた。あれだ、あれが鈴木のいる病院。横から来た車にクラクションを鳴らされながら、急いで入口へと駆け込んだ。自動ドアがウィンと開き、冷気が俺を包む。受付に向かい、息を切らしながら鈴木の病室を訊いた。
「この病院にいる……鈴木は……どこですか?」
はあはあと息を交えながら、俺は汗を拭った。
「鈴木さんは今、手術中ですね。えーと、病室でしたら五階の……」
手術中――
俺は看護師のその後のセリフを無視して階段を駆け上がった。脳裏に最悪の事態が浮かび上がる。せっかくお前のことをわかってきたのに。イスラエルに行ってたんだろって言いたかったのに。どうして神はこうも試練を与える!
五階にある病室には誰もいなかった。鈴木が五階にいないことくらいわかりそうなものだが、やはり気が動転していたのだ。近くを通りかかった看護師を呼び止め、手術室はどこかと尋ねる。今度は最後まで聞いた。一階にある受付を右に曲がり、突き当たりを左、大きな扉が手術室。心の中で何度も復唱しながら俺は階段を駆け下りた。早く、早く。
手術室の前まで辿り着くと、わき腹の辺りが苦しくなり、俺は膝に手をついた。そしてパッと顔を上げる。
手術室の前の椅子に座っていたのは鈴木の母親だった。
「沢羽くん、来てくれてありがとうね」
こんな事態にもかかわらず、母親の声の調子は俺が鈴木の家に行った時と同じものだった。優しさが不気味だった。どこか諦めているんじゃないかと、俺は疑る。せめて病名を知りたかった。そして、もし意識があるのなら「イスラエルどうだった?」って自慢してやりたい。あいつを驚かせてやりたい。どうして知っているのかと言わせたい。神よ、神はそれすら許してくれないのか。たったそれだけでいいのに。
「あの子は生まれつき身体が弱い子でね、医者からそう長く生きることはできないって言われてたのよ」
突然そんな話を始めるものだから、俺は慌てた。
「あの、病名って何なんですか?」
節操の無い人と思われるかもしれないが、病院に呼んでくれる関係なら構わないだろう。
「先天性心疾患よ。染色体異常が見つかってね、小さい頃から何度も手術して、生死を彷徨っていたわ」
俺でもなんとなく聞いたことがある。発症するのは千人に数人とか言われている難病じゃないか。
「保育園でも、小学校でも、中学校でも、高校でも、あの子はずっと病気と闘っていたの。手術して、長いこと入院して、全然クラスの子たちと遊べなくてね、友達はずっといなかったわ。たまに学校で遊ぼうとしても、身体が弱くて周りの子達についていけなくて」
母親は鼻をすすり、声を張って続けた。
「でもね、あの子は強いのよ。最初にお医者さんから余命宣告されたの何歳だと思う? 五歳よ。あの子はそう言われてから十三年も生きたの。本当に強い子なのよ。私のね、自慢の息子よ」
目からボロボロと涙がこぼれ落ちていた。自慢の息子。鈴木は母親にとって、本当に自慢の息子だったんだな。俺は手術室の大きな扉を見つめた。母親の様子を察するに、もうこれが最後の手術になるのだろう。
「……言いたかったのに」
そう呟いた俺は力なく拳を握った。
病院内に、母親の静かに泣く声だけが響いていた。
さて、俺が伝えられるのはここまでかな。
俺は今、鈴木、お前のお墓の前にいる。
鈴木がこれまでに残した言動を、今一度振り返る。
最後に残した言葉は「楽しかったよ」か。
ずっと変な奴と思っていたけれど、今ならすべて納得できる。受け入れられる。そして、俺は今猛烈に後悔している。すべてに。
病気を抱えていたことを教えなかったのは、不安にさせないための鈴木なりの優しさだったのかもしれない。そう思ったが、では鈴木の母親はなぜ電話をくれたのだろうか。なぜ鈴木は俺と話したかったのだろうか。
きっと、そこで病気のことについて言おうとしていたんだと思う。つい無駄話ばかりして忘れてしまったのもあいつらしい。でも、その無駄話の時間があいつにとって最高の幸せだったのだろう。
お互いに、一番大事なことを言い忘れていたようだ。この続きは向こうで話そう。俺は墓石を撫でた。
そうだ、あいつからの葉書に書いてあったことを最後に残そう。
「沢羽! お前とはずっと友達だからな! 僕がこっちにいなくてもしっかりやれよ!」
おい、鈴木。お前も向こうでは迷惑かけるなよ。
俺はゆっくりと流れる雲を見上げ、唯一の友達に花束と襷を手向けた。
(了)
ありがとう、鈴木君。