一章 悪の胎動(1)
人がこの世に生まれた際、最初に他人から与えられるのは、おそらく誕生への祝福と好意。しかし少年が生まれた時に感じたのは、人からの拒絶と悪意だった。
泣くことなく、笑顔を浮かべる赤ん坊。紫色の瞳を持つ男の子に周りは奇異の眼差しを注いだ。
『痛っ! 何すんだよ! はなせ!』
『なあ、お前ってさ。女なのに何で男のカッコしてんの?』
『僕は男だ! 男のカッコしてるのは当たり前だろ!?』
『うっそだぁ。どっからどう見ても、お前女っぽいじゃん』
『僕は、男だ……』
『じゃあ、調べて見ようぜ』
『ふ、ぶさけるな! おい、止めろ! やめろおぉ!』
弱ければ、何も出来ない。理不尽に抗えない。物心が付く頃に少年は無力を知り、悔しさを覚えた。
『おかえり……どうしたのその格好は!? 服がボロボロで……怪我もしてるじゃない』
『何でもないよお母さん……ちょっと、転んだだけ』
『ちょっとどころじゃないでしょ! 見せて』
内職中の手を止め、急ぎ傷の手当てをする母親の優しさ、その手の温もりは、暖かくも胸を締め付ける。自分達が貧しい環境にいるのは、幼い少年でも理解出来た。
薬代だって馬鹿にならない。毎日毎日、休む暇も惜しんでは自分の為に働く母にこれ以上、辛い思いをさせたくない。故に抗う道を選ぶことを決意する。すべては、唯一自分を愛する母の負担にならぬが為、安心させてあげたいが為だ。
『止めろ! そいつを苛めるな!』
彼は動体視力に恵まれていた──才能の芽が現れたのは、裏路地で絡まれている自分と同じくらいの子を助けに、苛めっ子に立ち向かった時の事だ。負けられないと、誰かの為に戦うと決意し挑んだら、前に自分を辱めた奴らを一発も食らわず圧倒してみせた。
想いが強ければ強いほど才能は形となり、力となる。相手の唾液と血に塗れた拳を握り締め、少年はそれを心で理解した。
『ち、ちくしょう』
『覚えてろ!』
『うるさいあっちいけ! 君……大丈夫?』
苛めっ子を追い払った後、少年は苛められていた子供へ手を差し伸べた。
『あ、ありがとう』
助けた子とはすぐ打ち解け、友達になった。
初めての友達と握手を交わした時、少年は自分の強さは正しいと確かな実感を得た。
ところが信じた正義とその行いは、数日後にあっさり打ちのめされてしまう。
『お宅の息子が、家の子に危害を加えたそうね!』
『噂に聞いていたけど本当に野蛮な子! 無抵抗の人を一方的に傷つけるなんて!』
苛めっ子の親達が、家に押し掛けて来たのだ。その隣には、苛められっ子だった友達がいた。
『な、何かの間違いです! 私の子は、決してそんな事はしません!』
『嘘おっしゃい! この苛められていた子から聞いたのよ! 私達の子は、お宅の子がこの子を苛めていたから、助けに入ったらこんな怪我を負わされたって!』
デタラメだ。内容も全くあべこべなのに、少年が無傷な事からこちらの訴えに耳も傾けない。苛められっ子の証言も大きかった。
初めての友達の裏切りにより、結局少年は悪者にされてしまう。母親だけが、最後まで少年の味方だった。だったが為に、ただでさえ狭い肩身がより狭くなった。
『ご、ごめん……』
もし庇ったらもっと酷いことしてやる──そう脅されていたことを告白し、おどおどと謝る苛められっ子に少年は、憤りを露わにした。
『ふざけるな!』
胸ぐらを掴み、少年は怒鳴り散らす。
『ひ、ひぃ!?』
『謝るくらいなら、最初からやるな! お前の所為で! お前が裏切った所為で、お母さんが傷ついた!』
少年はぶん殴ってやろうと拳を振り上げたが、殴れなかった。苛められっ子のクシャクシャの泣き顔を見たら、拳を振るえなかった。少年が乱暴に離すと、苛められっ子は壁に凭れ込みすすり泣く。
『ごめんなさい……ごめんなさい……う、うぇぇ……』
泣きたいのはこっちだ。母親に心配や迷惑を掛けたくないから、理不尽な暴力に抗った。苛めは間違っていると思ったから助けたのに、どうしてこうなった。
少年は、その日から助けるのも抗うのもやめた。代わりに耐える強さを求めるようになる。自分が我慢すれば、誰も傷付かないと思ったから。
『お母さん。今日も食べないの?』
『うん。お母さんはダイエット中だから……』
『……い、一緒に食べようよ。僕のパン、半分あげるから』
『大丈夫。大丈夫だから……それに、あなたは育ち盛りだもの。いっぱい食べて、強くならなくちゃね』
『……お母さん』
日に日に、母はやせ細っていく。不安が押し寄せる毎日が続く中、少年は初めての盗みをした。母が洗面所で咳き込み、血を吐いたのを目にした彼は、何も食わないからそういう病気を患ったのだと思った。
幼い少年なりに考えた末の行動だった。母には盗んだ缶詰めやパンを、貰ったと嘘をついた。だが、彼女は少年が嘘をついているとすぐ見抜いた。自分の為にやったことだとも。
母は少年を連れて、店へ盗品を返しに行った。
『申し訳ありません。警察だけは勘弁してもらえないでしょうか……』
『ごめんで済んだら警察なんていらんだろうが。お宅のお子さんの所為で、売り上げに響いたらどうするよ』
『本当に、本当に申し訳ありません』
『誠意こめてんのか? だったら隣にいるそいつにも頭下げさせろよ。お?』
『この子は、悪気があってやったのではありません。私が原因です、私の責任なんです!』
少年を庇いながらも必死に謝る中、少年の母は吐血した。咳き込む彼女を目にした男は心配する様子もなく、露骨に顔をしかめた。汚物を見るような目で、心にもないことを口にした。
『あんた、病気持ちか? 頼むぜマジで。あんたの病原菌が店の商品に移ったらどうしてくれるんだよもうっ!』
追い払う様な手を振る仕草を目に、その冷たい言葉を耳にした瞬間、少年の心はドス黒い闇に包まれた。怒りの形相で、母を貶す男を睨んだ。滲み出る殺意に圧されて、男は脂汗を噴き出したじろぐ。
『な、何だよお前、睨み付けてんじゃねえよ!』
こ、殺してやる……殺してやるっ!
こんな公衆の前で母を侮辱しやがって、こんなに謝っているのにこいつは……こいつはッ!
『やめなさい』
飛び掛かりそうになった少年の肩に、母の手が触れた。見上げたら、母は哀しげな顔で首を横に振っている。暴力は決して振るってはいけない。そう諭す蒼い瞳に、少年は怒りを抑えた。
『ああもう! これ以上、面倒事起こされたらたまんねえよ。もういいよ、帰ってくれ。そして二度と来るなよ!』
怒りを、必死に抑えた。拳を握り、歯を軋ませて、悔しさに耐えた。
『わかりました……ありがとうございます。行きましょう』
母は、急ぎ少年の手を引っ張り、この場を離れようとする。見えなくなるまで、少年は憎悪の籠もった目で睨み付けていた。自分らの陰口を叩く、軽蔑の眼差しを向ける周りの人達を含めずっと。
『辛い思いさせて、ごめんなさい。それと、私の為にありがとう』
ボロボロと大粒の涙を流す少年の頬に手を添えて、母は温和に微笑む。瞳は相も変わらず、美しくも哀しげな光を宿していた。
『でも誰かを犠牲にして、幸せを得ては駄目。それじゃあ誰も笑えない。みんな悲しい気持ちになるだけ』
幸せは……一人ではなく、皆で分かち合うもの──遠くを、夕日を眺めて母は囁いた。
『私と同じ過ちを辿ってはいけない。あなたは、穢れないで、気高く生きて。あなたの名前には、その意味が籠められているの』
母の細い腕が、優しく少年を包み込んだ。少年は大きな声で泣いた。母を守れない自分の無力さ、周りの理不尽に抗えない悔しさ、惨めな気持ちから母の胸の中で泣き続けた。
この後も、この出来事すら些事に思える地獄を、数え切れない苦難を少年は味わう。まるで世界が、運命が彼を悪へと染め上げようとしている。そんな不幸の波が常に押し寄せた。
多くを失った。思い出、友人、約束、親。
色んな奴らに騙されてきた。蔑まされてきた。虐められてきた。そして歯を食いしばり耐えて、立ち上がってきた。
その果てに彼は、ギャングのボスの座と莫大な富を得た。
母から譲り受けた本当の名は心の引き出しに仕舞い、青年となった彼はライアー・アークライトと名乗っている。
彼の本名を知る者はいない。皆、死んでしまった。彼を残し皆、死んでしまった。
本当の名前を打ち明ける相手が、果たして現れるのか。それはまだ、誰も知らない。
だが、もし現れるとしたら、おそらくその相手は……。
彼にとってその相手は──




