勇者、そして犬について
季節が巡り、また冬が来た。
ユジェの同居人が姿を消して一年が過ぎようとしていた。
その間にユジェは成人を迎えたが、特に何かが変わるわけでもない。
薪を割る手を止め、ユジェは天を仰いだ。曇天に、白い吐息がゆるゆると昇っていく。
かじかんだ指先で首に巻いている布を手繰り寄せた。
ふかふかの毛糸で作られたそれは、首に巻くには少し短い。
あの日、気がついたらユジェは庭木に持たれるようにして寝ていた。
同居人と見知らぬ女性は姿を消しており、ユジェの体には未完成な膝掛けがかけられていた。膝掛けというよりは襟巻きに近い見た目のそれは、見覚えのある色の毛糸で作られていた。秋にユジェとシオンで染めたものだ。
一人で過ごす夜がひどく寒かった。
出会った日、氷のように冷たかったシオンの頬を思い出す。
凍えていないだろうか。
薪ひとつ割れなかった彼は、一人でも戦えるのだろうか。
勇者様の動向を聞いた。
遠い大陸で、人を脅かす魔物と戦っているという。
一回の村娘には遠い話だ。
無事でいるならいい。それだけでいい。
ユジェの助手は、たぶんもうどこにもいない。
縁談が持ち上がった。相手は隣の村の青年だ。
農家の三男坊だが、働き者で好かれているという。
ひとりぼっちのユジェを心配して村人たちが持ちかけてくれた。
ユジェは一人でも暮らしていける。
けれど周りに心配をかけたいわけではない。
顔合わせの日は穏やかにすんだ。
相手は口数は少ないが、誠実そうな青年だった。
一緒に畑を耕して、羊を追って、時々はものを売りに町へ行く。それは緩やかだけれどしあわせの形のひとつだ。
このまま、すべては風化して色褪せていくのだろうか。
わからない。けれど、またいつかなんて言葉を信じられるほど子供でもなかった。
結婚がほぼ決まったある日、ユジェは町からの行商の帰り、犬を拾った。
客観的に見て、あまりかわいい犬ではない。愛想はないし、ふてぶてしいし。
けれどユジェがその毛皮に顔を埋めてもなにも言わなかった。
犬をつれて歩く。
布地を染めるための素材を探して、ユジェは裏山に入った。厳しい寒さのなか、極上の赤色を出す実が採れる。
満足の行くまで実を集め、そろそろ山を下ろうとしたとき、それまで従順だった犬が初めて抵抗した。
強い力で引き綱を引っ張っていく。
怪訝に思いながらもユジェはついていった。
珍しいこともあるものだと思う。
つれていかれたのは、雪に埋もれた場所だった。
こんもりと積み上がった雪の前で犬が吠える。
これも珍しいことだ。めったに鳴き声もあげないのに。
「何? 雪がどうしたの」
犬が引き綱を引っ張った。
雪の山を掘り出す。
「やだちょっと、」
制止の声が止まった。犬が再び吠える。
崩れた雪の中から、こぼれたのは銀糸に似た、
「……ッ」
引き綱を放り出し、ユジェは雪に膝をつく。
かじかむ腕で必死に雪を掻いた。
どうか、神様。
祈りが届くのなら、どうか聞き届けて。
現れたのは、血の気の失せた頬だった。少し痩せた、それでも見間違うことはない。
必死に揺さぶる。
「シオン! ねえシオン……」
閉ざされた瞼は緩むことなく閉ざされたままだ。
何故、とか、どうして、とか、全て吹き飛んだ。
彼がいる。ユジェの目の前に。
「お願、ぃ、目を開けて……ねぇ」
少しでも熱が伝わるように抱き締める。
犬がとことこ寄ってくる。その鼻面をだらりと垂れた手のひらに押し当てた。
彼の手がぴくりと動く。
「シオン!」
ゆっくりと、本当にゆっくり彼が目を開ける。
夜空の色の瞳がユジェの姿をとらえた。ふわりと笑う。
「ユジェ」
幸せそうに。
それを見たユジェの心がぷつりと切れた。
ぽたぽたとこぼれる熱い涙がシオンの頬をとかしていく。
握った拳が銀の頭を殴った。
「このバカ助手! 何でこんなところにいるのよ!? バカなの? ねえバカなの?」
がくがくと揺さぶられて、それでもシオンは笑う。
「……ユジェ」
大儀そうに持ち上げた片腕で、シオンはユジェを抱く。
ユジェは泣いた。一人で暮らすようになってから初めて声をあげて泣いた。
泣きながらシオンを引きずって帰った。
シオンの看病をしながら、ユジェは泣き疲れて初めて彼の腕の中で眠った。シオンは日向のような匂いがした。




