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量子は死なない

作者: 李夢 萬

原稿用紙10枚分の超短編です。

死後の世界はホラーでもオカルトでもなく、科学。

科学者はその世界を認め、宗教者はその世界の科学的なからくりやシステムを知らなければならない時代が来ているようです。

 

  量子は死なない


 声が聞こえた。渋いが優しさに満ちたジェファーソン先生の声だ。ワシントン大学で脳科学の教鞭を取っているはずのジェファーソン先生の声がどうして聞こえるのか。

 永沢亜樹乃は急激に弱ってきている記憶を必死に呼び起こした。

 わたしは今、病院のベッドに寝ているはずだ。そう。もうすぐ自分の命は終焉を迎えようとしている。癌に冒され余命を宣告されたその時が迫っていた。いつからか痛み止めとしてのモルヒネが体内に注入されるようになった。これが始まれば後は体が衰弱して眠ったまま終焉を迎えることは友人の死を見て知っている。そして今、わたしは同じように眠っているはずだ。日本に帰って来てからはジェファーソン先生には病気になったことすら話していない。ましてや余命のことなど知らせていないのだ。だからジェファーソン先生が病室に来ているはずも無かった。

 ワシントン大学で亜樹乃はジェファーソンの研究の助手として働いていた。ジェファーソンに新たな脳科学のテーマを聞かされた時は、その発想に驚き、そして反対もした。

 「人間の死後を研究したい」

 ジェファーソンはハッキリとそう言った。

 「人間は死んで脳が停止をすれば何も感じなくなる」という亜樹乃の言葉にジェファーソンは無言だった。 

 科学者として死後の世界を認めるわけにはいかない。そんなものはどこまでも妄想か幻覚でしかないのだ。日本に限らず文明社会では脳が停止をするだけではなく、遺体を焼却してしまう。その脳すら残らないのだ。そこに何が残るというのか。亜紀乃はその後もそんな反論を繰り返した。そんな亜紀乃にジェファーソンはある言葉を投げかけた。

 「常識に対して素直になりなさい」 

 常識を受け止めているからこそに肯けないこともある。そして、ジェファーソンは漸く真意を語り始めた

 「人間の脳は脳そのものだけで機能していないことは学んだね。脳を動かしているのは遺伝子であり、そこには量子がそれを司っている」

 量子とは素粒子を構成する粒子の一種だと聞いたことがある。その量子がどう関係をしているのか、同じ科学でも物理にさほど詳しくはない亜紀乃はジェファーソンの次の言葉を待つしかなかった。

 「量子脳理論というものを聞いたことがあるだろう。量子は人間の意識と深く関わっているのだ」

 ジェファーソンと亜紀乃の議論は数日続いた。二人とも妥協はしないがお互いに認め合っているからこそ続く議論だった。

 「君は神を信じるか」とある日、ジェファーソンは訊ねて来た。科学者にとってそんな曖昧なものを信じる者はほとんどいない。それは余りにも非科学的だ。神を人間が作ったと言っても過言ではないだろう。

 するとまたジェファーソンは「常識に素直になりなさい」と言いながら深い溜息をついた。この言葉は先日も聞いたばかりだ。 「この森羅万象の生命はどこにある?」

 ジェファーソンはそれこそ常識的なことを聞いてくる。そして、その時わからなかった彼のその後の言葉の意味は、これから死に行かんとする亜紀乃だからこそわかることなのかもしれない。

 ジェファーソンの言うことはこうだった。

 森羅万象に存在をする生命は地球の中にある。そして、地球は宇宙の中にある。細かく言えば、地球のみならず惑星すべての土も砂もその粒子までもが生命なのだ。宇宙のいたるところに生命を生み出す何かを宇宙が持っているとするならば、宇宙そのものが生命でなければ理屈は成立しない。

 宇宙が原因であり生命が結果ならば、宇宙は生命を持つ生物なのだ。そして、その生命には命を生み出そうとする意志があるのかもしれない。誰かの言葉だったが「宇宙は愛に満ちている」と聞いたことはないだろうか。宇宙に意志があり、愛があるならばそれを神と呼ぼうと宇宙意志と呼ぼうとそれは個人の自由だ。僕があえてこれを神と呼ぶとすれば、君はその神を否定出来るだろうか。

 宇宙という原因があるから生命という結果がある。原因と結果は科学の常識。だから常識を素直に受け止めなさい。

 

 亜紀乃の瞼の裏にそれまで感じたことのない光を感じた。

わたしは激しく泣きじゃくっている。そして「可愛い女の子ですよ」という嬉しそうな女の声が聞こえた。気がつけばわたしは畳の上を這い歩き、そして立てるような気がして立ってみた。そこに座っていた女が「立った!」と喜んでどこかに走り去った。母だ。母は父を連れてきて「こっちにおいで」と手拍子をしている。この頃は母と父の存在を自覚していた。そしてわたしは小学校へ入学をした。入学式に一緒に来た母の衣服から防虫剤の匂いが漂っていた。わたしは何故か防虫剤の匂いが好きだった。何かしら、お出かけの匂いがするからだ。子供ながらに新鮮な気持ちになり、新しい期待感の匂いを感じていたのかもしれない。そして、わたしは中学に入り高校に入り、大学の受験勉強に苦しんでいた。その苦しみから逃れるようにクラスメートの男子と恋に落ち、そしてすぐに破局をした。恋を忘れるように再び受験勉強に勤しみそして念願の大学に合格をしたのだった。合格を母に知らせる為に小銭入れを出しながら公衆電話へ走った。そしてついぽろりと小銭入れの中から百円玉が地面に落ちた。こんな細かいことまで思い出すのか。人間は死ぬ間際には走馬灯のように生まれてからそれまでの記憶が駈け巡るというのは本当だった。「量子は生前の情報を記憶として持つ」と、ジェファーソン先生は言っていた。先生の理論がもしも正解ならば今、わたしの記憶を量子が吸い上げ始めているのかもしれない。走馬灯の記憶の再生はその時の現象だ。先生はこんなシステムまでは知らないだろう。何だか少し嬉しくなってきた。ジェファーソン先生に教えてあげなくては。   

 母の声が遠くに聞こえた「何だか笑っているみたいね」

 「そろそろですね」というのはきっと看護士の声だ。そして今度は父が声を詰らせながら「ほらもう一度息を吸ってごらん」と言っている。わたしは大きく息をした。

 意識がブラックアウトをした。

 

 それからどれほどの時間が経ったのか。時間の概念がわからなくなっている気がする。

わたしは宇宙を飛んでいた。何やら背中には美しい光の羽がついているようだ。そう、わたしは蝶になった。きっとこれが量子の姿なのかもしれない。周囲には他の美しい蝶の姿をした量子たちが飛び回っている。これからわたしたちはどこに向かうのか。

 

 何も見えないような真っ白な光の中、布地にバレンをゆっくりと動かしたように淡い色彩の景色がゆっくりと浮かび上がって来た。

やがてそこにひとつの世界が見えてくる。亜紀乃が好きな都会の風景だ。アスファルトに点在するテーブルやパラソルが巨大なスクランブル交差点の上に歩行者天国が広がっている。どういうわけか、その先に海が見えた。きっと海までの距離は何十キロメートルもあるのだろう。それがまるでそこにあるようにハッキリと見えている。この世界では視力の悪さは関係が無いようだ。

 きっとこれは量子となった亜紀乃の中にある生前の情報が交差しているのだろ。街を行きかう都会人の様相までもが果たして亜紀乃の単なる妄想なのか、実際に存在している他の量子たちなのだろうか。少なくともそれは亜紀乃が好きな賑やかな都会の風景だ。いつまでもいたくなる安心が出来る世界。亜紀乃と違う価値観を持った人にはきっと退屈な世界かもしれない。それでも亜紀乃にとっては住めば都。それがここの世界だ。


 「量子は死なない」

 またジェファーソンの声が聞こえた。

 

 わたしはここで神が与えた永遠という期限の中で生きていくのだろう。量子というミクロの中にはマクロな世界がある。もしかすると無限に思えるマクロな宇宙もミクロの量子の中にあるのかもしれない。

 生前は死後の世界があるなどと信じていなかった。それなのに、今こうして意識として存在をしていることにも、生前の情報を持つことでまた生前の姿を再構築していることにも特に驚くようなことは無かった。きっとこれは現実世界に住んでいる時には気づかない量子が元々知っていた常識なのかもしれない。

 わたしは常識を素直に受け止めたのだ。


 目の前にジェファーソンがいた。時間の概念が無くなった感覚では亜紀乃がここに来てからほんの数秒後のことだ。

 「僕は八十五歳でここに来た」とジェファーソンが言った。亜紀乃が死んでから四十年後のことだ。

 聖書の言葉にもある「始まりであり終わりである」時間の概念が無い存在。その世界で終わりの無い愛を感じた。それはまるで始まりも終わりもない円球のようなものだ。そう、真実の愛は決して終わることのない円球なのかもしれない。

 わたしはこの愛の中で永遠に生きていく。

 亜紀乃の意識は宇宙と一つになった。                   


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