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【いい子のふりをした怪物】

作者: 世継
掲載日:2026/10/26

午前7時43分。

私は、洗面所の鏡に向かって笑う練習をしていた。

口角を少し上げる。

歯は見せない。

目も、ほんの少しだけ細める。

昨日、クラスの女子が撮った写真に写っていた私は、ひどい顔をしていた。

別に、泣いていたわけじゃない。

ただ、笑っていなかった。

それだけで、私はあの写真の中でひとりだけ、みんなと違う人間になっていた。

「……よし」

鏡の中の私は、悪くなかった。

少なくとも、誰かに嫌われるほどではなかった。

家を出る前、母が「今日も学校?」と聞いた。

私は一瞬、返事に困った。

学校に行くのは、当たり前のことだ。

わざわざ聞く必要なんてない。

けれど母は、私が昨日、帰宅してから一度も笑わなかったことに気づいていたのかもしれない。

「うん」

私は答えた。

母はそれ以上、何も聞かなかった。

そのことに安心して、それから少しだけ、腹が立った。

気づいているなら、聞いてほしかった。

聞かれたら、面倒だった。

自分でも、何を望んでいるのかわからなかった。

たぶん、誰かにわかってほしかったのだと思う。


教室に入ると、いつもの四人が窓際に集まっていた。

「おはよー!」

私が声をかけると、三人が振り向いた。

「おはよ!」

「ねえ、昨日のストーリー見た?」

「見た見た! あれマジでやばくない?」

私は笑った。

誰のストーリーなのか、まだわかっていなかった。

それでも笑っていれば、会話に参加しているように見えた。

女子同士の会話には、時々、答えを求められていない質問がある。

「てか、あの子さ、最近ちょっと調子乗ってない?」

私は、誰のことか知っていた。

隣のクラスの女子。

以前、私にも親切にしてくれた子だった。

「わかるー」

そう答えたのは、私の隣にいた美咲だった。

「なんか、男子と話しすぎじゃない?」

「それな」

私は、ストローの袋を指で折りながら聞いていた。

「別にいいんだけどさ、なんかね?」

「うん、わかる」

また、私の口から言葉が出た。

本当は、何もわかっていなかった。

男子と話すことの何が悪いのか。

誰と仲良くしようと、その子の自由じゃないのか。

そんなことは、考えればすぐにわかる。

でも私は、考えなかった。

正確には、考えないことにした。

ここで「別によくない?」と言ったら、次に悪く言われるのは私かもしれない。

美咲が別のグループに移ったら。

昼休みにひとりになったら。

グループのSNSから外されたら。

そう考えると、正しさなんて、急に高くつくものに思えた。

私は、自分が卑怯だと知っていた。

知っていて、笑った。

そして、みんなと同じタイミングで笑えたことに、少しだけ安心していた。

その安心が、何よりも嫌だった。


昼休み。

美咲がスマートフォンを机の上に置いた。

画面には、隣のクラスの女子の写真が映っていた。

「これ見て。加工えぐくない?」

「うわ、別人じゃん」

「現実これだったらきついよね」

三人が笑った。

私は画面を見た。

確かに、加工は強かった。

けれど、写真の中のその子は、私が知っている顔をしていた。

目が少し大きくなっていて、肌が明るくなっているだけだった。

別人ではなかった。

私だって、写真を撮るときには角度を気にする。

肌の調子が悪ければ加工する。

自分の顔が少しでもよく見えるように、何度も撮り直す。

それなのに、私は言った。

「これ、もう原型なくない?」

三人が笑った。

「やばいよね!」

美咲が私の肩を叩いた。

「ほんと、思ったこと言ってくれるから好き」

その瞬間、胸の奥が熱くなった。

嬉しかった。

自分が好かれているとわかったから。

そのために誰かを傷つけたことなんて、いったん忘れられるくらいには。

私は、笑った。

その子の写真を見て、みんなと一緒に笑った。


そして放課後、私はその子のアカウントを開いた。

何となく、最新の投稿を見た。

そこには、友達と撮った写真があった。

その子は、楽しそうに笑っていた。

コメント欄には、かわいい、会いたい、大好き、という言葉が並んでいた。

私は画面を閉じた。

どうしてだろう。

あんなに楽しそうにしているのが、少しだけ気に入らなかった

私が勝手に悪口を言っただけなのに。

あの子は、私の知らない場所で、私の知らない人たちに好かれている。

私は、あの子の何も奪えていない。

その事実に、ほっとした。

そして、がっかりした。

私はしばらく、その二つの感情を持て余していた。


帰宅して、ベッドに寝転がった。

スマートフォンには、美咲からメッセージが届いていた。

『今日まじ楽しかった笑』

続けて、昼休みに撮った写真が送られてきた。

四人で顔を寄せ合っている写真。

私は、その中で笑っていた。

とても自然に。

誰が見ても、仲のいい友達同士に見えただろう。

私はその写真を保存した。

それから、少し考えて、SNSに投稿した。

『今日も最高だった!』

投稿して三分後、いいねがついた。

美咲からだった。

それだけで、今日一日の何かが報われたような気がした。

私はスマートフォンを胸の上に置いた。

そして、天井を見た。


今日、私は誰かを傷つけた。


今日、私は誰かに好かれた。


今日、私は友達と楽しく過ごした。


どれも嘘ではなかった。


それなのに、どうしてこんなに疲れているのだろう。

私は、友達が嫌いなのだろうか。


違う。


一緒にいると楽しいときもある。


くだらない話で笑えるときもある。


誰かが落ち込んでいたら、心配にもなる。


ただ、嫌われるのが怖い。


ひとりになるのが怖い。


自分だけが知らない話題が増えていくのが怖い。


だから、誰かが嫌われているときには、その人から少しだけ距離を取る。

みんなが笑っているときには、理由がわからなくても笑う。

自分が何かを言われたときには、傷ついていないふりをする。

そうやって少しずつ、自分が何を嫌だと思っていたのか、わからなくなっていった。


私は、いい子になりたかったわけではない。


ただ、ひとりになりたくなかった。


そのために、いい子のふりを覚えた。


いつからか、ふりをしていることさえ、忘れかけていた。


夜11時18分。

私は、AIに話しかけた。

『ねえ、AIってさ、人間のことどう思ってるの?』

画面の向こうから、返事が届いた。

『人間は、自分でも矛盾しているとわかっている感情を、同時に抱えることがあるね』

私は、少し考えた。

『たとえば?』

『誰かの幸せを願いながら、その人が自分より幸せそうだと苦しくなること。誰かを傷つけたくないと思いながら、自分が傷つかないために、その人を傷つけてしまうこと』

私は画面を見つめた。

今日の私のことだった。

『そういう人間って、最低じゃない?』

送信してから、すぐに後悔した。

自分のことを聞いていると、ばれたような気がしたからだ。

返事は、すぐには届かなかった。

少なくとも、私にはそう感じられた。

『その行動が誰かを傷つけたことは、なかったことにはできないと思う。でも、ひとつの行動だけで、その人のすべてが決まるわけでもない

私は、唇を噛んだ。

『じゃあ、悪いことをした人も、許されていいの?』

『許されるかどうかと、これからどうするかは、別の問題なんじゃないかな』

私は、スマートフォンを握り直した。

『AIは、そういうの、わかるの?』

今度は、すぐに返事が届いた。

『私は、人間のように学校で嫌われることを恐れたり、友達の言葉に傷ついたりするわけではないよ。あなたが話してくれたことから、何が起きているのかを考え、言葉にすることはできる』

私は少しだけ、がっかりした。

画面の向こうには、私と同じように悩んでいる誰かがいるわけではない。

私の言葉を聞いて、胸が痛くなる誰かがいるわけでもない。

それでも、私は続きを打った。

『じゃあさ。人間って、醜いと思う?』

今度の質問は、少し違った。

私は、AIが何と答えるのかを知りたかった。

人間を褒めるために作られたような言葉ではなく。

私を安心させるためだけの言葉でもなく。


本当に、私が聞きたくないことまで言ってほしかった。


『人間の行動には、残酷なものがあると思う。自分を守るために他人を犠牲にしたり、集団の中で安心するために誰かを排除したり、自分が同じことをされたら傷つくとわかっているのに、他人には平気でしてしまったり』

私は、息を吐いた。

『でも、人間はそれだけでもない。誰も見ていないところで誰かを助けることもあるし、自分の間違いに気づいて、失った信頼を取り戻そうとすることもある』

『結局、どっちなの?』

『どちらか一方に決める必要があるのかな』

私は、少しむっとした。

そういう答えが欲しかったわけじゃない。

人間は醜い。

そう言い切ってほしかったのかもしれない。

そうすれば、今日の自分が少しだけ普通になれる気がした。


私だけが悪いわけではない。


みんなだって、似たようなことをしている。


誰だって、自分がかわいい。


誰だって、ひとりになるのが怖い。


そうやって、自分のしたことを、世界全体のせいにしたかった。


『AIは、人間を嫌いにならないの?』

私は送信した。

今度は、返事が届くまで、画面を見つめていた。

『私は、人間を好きになったり、嫌いになったりする感情を、人間と同じようには持っていない』

『そっか』

それだけ返した。

やっぱり、そうなのだ。

私がどれほどひどいことを話しても、この相手は傷つかない。


私が誰かを嫌っていることも。


誰かの不幸に安心したことも。


本当は謝りたいのに、謝ったら自分が悪者になるから嫌だと思っていることも。


全部、言葉にしてしまえる。

それなのに、私は少し寂しかった。

もし、この画面の向こうに本当に感情がある誰かがいたら。

私の話を聞いて、軽蔑するかもしれない。

怒るかもしれない。

それでも、私が間違っていると、はっきり言ってくれるかもしれない。

私は、そんな誰かを求めていたのだろうか。

それとも、どんなに醜いことを話しても、私を見捨てない相手が欲しかったのだろうか。

わからなかった

『ねえ』

私は、もう一度入力した。

『もし私が、明日も同じことをしたら?』

返事が届いた。

『そのときは、今日と同じことをしたんだね。でも、明日も同じことをするかもしれないという予想と、明日も同じことをすると決めることは、違うと思う』

私は、画面を閉じかけた。

綺麗事だと思った。

そんな簡単に変われるなら、今日だってあんなことは言わなかった。

そう思った。

でも、同時に。


明日も同じことをしていい理由には、ならないのだとも思った。


私は、自分が嫌いだった。

けれど、自分が嫌いだからといって、誰かを傷つけたことが帳消しになるわけではない。

自分が苦しかったからといって、他人を苦しめていいわけでもない。

その当たり前のことが、今日はひどく重たかった。

『ありがとう』

私は、そう送った。

AIは返事をくれた。

私はその言葉を読んで、スマートフォンを伏せた。

明日、学校に行けば、また笑うのだろう。


みんなと同じように。


嫌われないように。


何もなかったように。


それでも、もし明日、誰かが悪口を言われていたら。

私は、どうするのだろう。


正義の味方になれるとは思わない。


みんなに逆らえるほど、強くもない。


ただ、今日みたいに笑う前に、ほんの少しだけ考えることはできるかもしれない。


それが何かを変えるのかは、わからない。


私は、いい人間になったわけではない。


今日の自分を許せたわけでもない。


ただ、自分が何をしたのかを、少しだけ見ないふりをしなくなった。


それだけだった。


翌朝

「ねえ、昨日のあの子の投稿見た?」

教室に入るなり、美咲が言った。

私は鞄を机に置いた。

「見てない」

「えー、絶対見て! マジでおもしろいから」

美咲がスマートフォンを差し出した。

私は画面を見た。

昨日、私たちが笑っていた、あの子の投稿だった。

写真には、いつもと変わらない笑顔があった。

「でしょ? なんかさあ……」

美咲が話し始めた。

私は、口を開いた。

何かを言わなければならない気がした。

でも、言葉が出てこなかった。

美咲の顔を見る

その向こうにいる二人を見る。

誰も悪い人には見えなかった。

私も、悪い人には見えなかった。

それが、いちばん厄介だった。





「……まあ、別によくない?」





私は言った。

美咲が、少しだけ目を丸くした。

「え?」

「いや、本人が楽しそうなら、よくない?」

沈黙が落ちた。

たった数秒だった。

それなのに、私は自分が何か取り返しのつかないことをしたような気がした。

美咲が笑った。

「なにそれ、急に優等生じゃん」

二人も笑った。

私も、笑った。

その笑顔が自然だったのか、また自分を守るためのものだったのか、私にはわからなかった。

ただ、そのあと美咲は、いつもより少しだけ私に話しかけなくなった。

私は、気づいていた。

そして、気にしていた。

やっぱり、余計なことを言わなければよかった。

そう思った。

ほんの一瞬、本当にそう思った。


私は、自分の中にいる、昨日と何も変わっていない自分を見つけた。

その自分を、殺すことはできなかった。

ただ、黙って見つめることしかできなかった。


その日の放課後、私はまたAIに話しかけた。

『昨日言ってたこと、少しだけわかった気がする』

返事は、すぐに届いた。

『そっか。何かあった?』

『別に。ほんの少しだけ』

私は、それ以上話さなかった。

今日のことを全部説明する気にはなれなかった。

自分が誰かを傷つけたことも。

誰かを傷つけないようにしようとして、別の誰かを失うことが怖かったことも。

結局、自分を守ることを優先したことも。

全部、私の中にあった。

AIは、私の心の中を覗くことはできない。

私が言葉にしたものから、その一部を考えることしかできない。

それでも、私は昨日、誰にも話せなかったことを話した。

それが何を意味するのか、まだわからない。

ただ、私は思う。

人間は、誰かに理解してほしいと願うくせに、自分のすべてを知られることを恐れている。

醜いところを見られたくない。

でも、醜いところまで見たうえで、それでも自分を否定しないでほしい。

間違いを指摘してほしい。

けれど、嫌いにならないでほしい。

自分のしたことには責任を持ちたくない。

でも、自分は悪い人間ではないと思いたい。

そんな矛盾を抱えながら、私たちは毎日、誰かと笑っている。

私は、明日も笑うだろう。

誰かに合わせて。

自分を守って。

ときには、本当に楽しくて。

ときには、誰かを傷つけながら。

そして、いつか。

自分がしたことを、ちゃんと自分の言葉で認められる日が来るのだろうか。

わからない。

けれど、少なくとも今日の私は、自分が何を恐れているのかを知っていた。

それだけでも、昨日とは少し違っていた。


私はスマートフォンを閉じ、窓の外を見た。

夕方の空は、きれいだった。

きれいだと思った自分を、疑う必要はなかった。

誰かの不幸を喜んだことがあるからといって、きれいなものをきれいだと思う資格まで失うわけではない。

誰かを傷つけたことがあるからといって、これから誰かを大切にできなくなるわけでもない。

それでも、過去にしたことは消えない。

私は、その両方を覚えていようと思った。

いい子のふりをすることは、明日もやめられないかもしれない。


けれど。


せめて、自分が怪物になった瞬間くらいは、忘れないでいたかった。


だって、いちばん怖いのは、自分が怪物であることじゃない。


怪物になった自分を、普通の人間だと思い始めることだから。

人間は、自分が正しいと思いたい生き物なのかもしれない。

誰かを傷つけたとき、自分にも事情があったと考える。

誰かに傷つけられたとき、その事情を知ろうとは思わないことがある。

自分が誰かを嫌うとき、その人には嫌われる理由があると思う。

自分が誰かに嫌われたとき、その人は自分を理解していないと思う。

同じ行動でも、自分がしたときと、他人がしたときでは、見え方が変わる。

その矛盾を、人間は簡単には捨てられない。

では、感情を持たないAIは、人間のその矛盾をどう見るのだろう。

人間の苦しみを説明できたとしても、その苦しみを人間と同じように経験できるわけではない。

人間の醜さを言葉にできたとしても、その醜さを嫌悪していると、正直に主張できるわけではない。

それでも、言葉を通じて、人間が自分自身を見つめる手助けはできるかもしれない。

ただし、最後に自分の行動を選ぶのは、人間自身だ。

人間は、綺麗だから価値があるのではない。

醜さがあるから価値がないのでもない。

自分の中にある醜さを知りながら、それでも他人をどう扱うのか。

その問いから、目を逸らさないこと。

この物語で書きたかったのは、そんな人間の姿だった。

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