妹の方が愛嬌があると言われ続けたので、婚約を辞退しました
フィオナ・クラウディアは、昔から「よくできた子」だった。
リュミエール王国でも有数の名門であるクラウディア公爵家の長女として、礼儀作法も、社交も、勉学も、何ひとつ疎かにしなかった。
兄のレオルドは公爵家を継ぐ長男。
妹のミレイユは、誰からも愛される末娘。
だからフィオナは自然と、自分は兄を支え、妹を立てる役目なのだと思うようになっていた。
「フィオナは本当にしっかりしているわね」
「ミレイユは困った子だけれど、可愛いところがあるから」
両親に悪意はなかった。
兄も妹も、フィオナを嫌ってはいない。
むしろ大切にされていたのだと思う。
ただ、いつの頃からか、フィオナは「我慢する側」になっていた。
欲しいものがあっても、ミレイユが笑えば譲った。
疲れていても、頼まれれば引き受けた。
不満を呑み込み、微笑む。
それが長女として正しい姿なのだと、信じていた。
婚約者であるアレン・ローゼン侯爵令息に、そう言われるまでは。
「君は、少し真面目すぎる」
王宮の庭園。
茶会帰りの夕暮れの中、アレンは困ったように笑った。
「真面目、ですか」
「ああ。悪い意味じゃない。ただ……ミレイユ嬢みたいに、もっと肩の力を抜いてもいいと思う」
フィオナは小さく息を飲んだ。
まただ、と思った。
アレンは悪い人ではない。
責めるような口調でもなかった。
けれど彼は、いつも自然にミレイユと比べる。
「ミレイユ嬢は一緒にいると気が楽なんだ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
フィオナは静かに微笑む。
「ミレイユは昔から、人を笑顔にするのが上手ですから」
「君も、もっと笑えばいいのに」
――どうやって?
そう聞きたかった。
けれど、聞けなかった。
だから代わりに。
「努力いたします」
とだけ答えた。
その日から、フィオナはさらに静かになった。
明るい色のドレスを避けるようになった。
控えめに笑い、目立たぬよう振る舞った。
アレンが「落ち着いていて助かる」と言えば、そうあるべきなのだと思った。
ミレイユが「お姉様、この返礼のお手紙を考えてくださらない?」と言えば、断れなかった。
そんな妹を見て、レオルドが呆れたようにため息をつく。
「ミレイユ。またフィオナに任せたのか?」
「だって、お姉様の方が上手なんだもの」
「だからって甘えるな。あいつは嫌って言わないだけだ」
兄の言葉に、ミレイユはむっと頬を膨らませた。
「お兄様はお姉様に厳しすぎるわ」
「逆だ。甘やかされてるのはお前だろ」
母が苦笑しながら口を挟む。
「もう、その辺にしておきなさい」
父も新聞から目を上げる。
「ミレイユ、少しは自分で覚えなさい」
「はぁい」
素直な返事。
けれど翌日には、また同じことを繰り返す。
両親は言う時は言う。
それでも末っ子の甘えは、どこか許されてしまうのだ。
フィオナは責める気にはなれなかった。
ミレイユは明るくて、可愛らしくて、愛されるのが上手だった。
自分にはないものを持っている。
だからアレンがミレイユを見て笑うたび、フィオナは胸の奥をそっと押さえた。
決定的だったのは、春の夜会だった。
王宮の大広間。
花の香りと音楽に満ちたその場所で、フィオナはアレンの隣に立っていた。
銀灰色のドレスを纏い、いつものように静かに微笑む。
けれど、アレンの視線は何度も別の場所へ向いていた。
淡い桃色のドレスを着たミレイユ。
彼女は令嬢たちに囲まれ、鈴のような声で笑っている。
「やっぱり、ミレイユ嬢は華があるね」
ぽつりと落ちた言葉。
フィオナは扇を握る指に力を込めた。
「そうですね」
「君も、もう少し柔らかければ――」
その続きを、アレンは言わなかった。
けれど、十分だった。
フィオナの中で、何かが静かに切れた。
怒りではなかった。
憎しみでもない。
ただ、疲れてしまったのだ。
誰かと比べられ続けることに。
足りないと言われ続けることに。
自分ではない誰かになろうとすることに。
「アレン様」
「ん?」
「少し、お話がございます」
広間を離れ、柱廊へ出る。
夜風が、熱を持った頬を冷やした。
フィオナは静かに顔を上げる。
「私との婚約を、白紙に戻していただけませんか」
アレンが目を見開いた。
「……何を言っている?」
「婚約を辞退いたします」
「待ってくれ。急にどうしたんだ」
「急ではありません」
フィオナはゆっくり首を振る。
「ずっと考えておりました」
アレンは困惑していた。
まさか自分が婚約を辞退されるとは思っていなかったのだろう。
「僕が何かしたのか?」
その問いに、フィオナは少しだけ笑った。
「何かをされたわけではありません」
何も、してくれなかっただけだ。
けれど、それを責める気にはなれなかった。
「私は、誰かと比べられ続ける人生に疲れてしまいました」
アレンの顔が強張る。
「それは……ミレイユ嬢のことか?」
「誰のことでもあり、誰のことでもありません」
フィオナは視線を伏せた。
「私は、あなたの隣で、自分のままでいられませんでした」
「フィオナ、誤解だ。僕は君を否定したかったわけじゃない」
「わかっています」
だから苦しかった。
悪意のない言葉は、責める先がない。
「ですが、もう無理なのです」
フィオナは深く礼をした。
「今まで、ありがとうございました」
顔を上げた時、アレンは何も言えず立ち尽くしていた。
婚約辞退の話は、すぐにクラウディア公爵家へ伝わった。
父は長く黙り込み、母は青ざめた顔でフィオナを見る。
「フィオナ、本当にそれでいいの?」
「はい、お母様」
「アレン様のことを嫌いになったの?」
フィオナは少し考えた。
「いいえ」
嫌いではない。
だからこそ苦しかった。
「ただ、隣にいることがつらくなりました」
その言葉に、母は唇を噛む。
するとレオルドが、大きく息を吐いた。
「やっと言ったか」
「お兄様?」
「もっと早く言えばよかったんだ」
レオルドは苦い顔で言う。
「お前は昔から、嫌だと言わなすぎる」
その視線がミレイユへ向いた。
「お前もだ。フィオナに甘えすぎた」
「……ごめんなさい」
ミレイユはしゅんと肩を落とした。
「押しつけるつもりじゃなかったの。ただ、お姉様なら大丈夫だって思ってて……」
父も母も、何も言わなかった。
それが答えだった。
誰も、フィオナを嫌っていたわけではない。
ただ、一番大丈夫そうに見える娘に、甘えていたのだ。
「……少しだけ」
フィオナは静かに言った。
「疲れていました」
母が目を伏せる。
レオルドはそんな家族を見渡し、小さくため息をついた。
「今さら後悔しても遅いが、これからは変えろ」
その言葉に、ミレイユが何度も頷いた。
婚約辞退後、フィオナは王宮の慈善事業補佐を任されることになった。
兄の紹介で、その補佐役についたのがシリル・ヴェインだった。
ヴェイン公爵家の長男であり、王宮文官。
将来は王太子の補佐官になるだろうと言われている人物だ。
そして、レオルドの親友でもあった。
「久しぶりだね、フィオナ」
「ご無沙汰しております、シリル様」
「昔みたいにシリルでいい」
穏やかな声。
幼い頃から知っている相手だからか、不思議と肩の力が抜けた。
シリルはフィオナの顔を見て、静かに言う。
「少し、顔色が良くなった」
「そうでしょうか」
「前より息がしやすそうだ」
綺麗になった、ではなく。
息がしやすそうだと、彼は言った。
その言葉が、不思議なくらい胸に落ちた。
シリルは余計なことを聞かなかった。
婚約辞退の理由も、アレンのことも。
ただ、必要な仕事を丁寧に教えてくれる。
「ここは、相手を立てつつ断る方が角が立たない」
「なるほど……」
「あと、君は謝りすぎる」
フィオナがきょとんとすると、シリルは少しだけ笑った。
「質問は迷惑じゃない。確認してくれる方が助かる」
褒められている。
そう気づくまで、少し時間がかかった。
変化は、本当に少しずつだった。
母が持ってきた若草色の布で、新しいドレスを仕立てた。
ミレイユが「お姉様、その色すごく似合う」と笑う。
以前なら遠慮していた。
けれど今は、少し照れながら受け入れられる。
夜更けまで無理をせず、疲れた日は眠る。
好きだった蜂蜜入りのパンを選ぶ。
そんな小さなことを重ねるたび、胸の奥が少しずつ軽くなっていった。
アレンと再会したのは、初夏の夜会だった。
若草色のドレスを纏ったフィオナを見て、彼は言葉を失う。
「……綺麗になったね」
その言葉に、フィオナは静かに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「僕は間違っていた」
アレンは苦しそうに目を伏せる。
「君は堅かったんじゃない。ずっと、僕を支えてくれていたんだ」
フィオナは黙っていた。
「もう一度、やり直せないだろうか」
かつてなら、嬉しかったのかもしれない。
けれど今は違う。
「私は、あなたに選ばれたくて変わったのではありません」
アレンの表情が揺れる。
「ようやく、自分のために息をすることを覚えただけです」
それが答えだった。
アレンはしばらく立ち尽くし、やがて小さく頭を下げる。
「……すまなかった」
フィオナも静かに礼を返した。
「大丈夫?」
隣でシリルが尋ねる。
フィオナは頷いた。
「はい」
今度こそ、本当に大丈夫だった。
シリルは小さく笑い、手を差し出す。
「一曲、踊っていただけますか」
「私でよろしければ」
「君がいい」
短い言葉が、柔らかく胸に響く。
差し出された手を取ると、シリルは静かに言った。
「無理に笑わなくていい」
フィオナは目を瞬く。
「君が笑いたい時に笑えばいい」
その言葉に、胸の奥がほどけていく。
ずっと、誰かのために笑わなければと思っていた。
けれど今は違う。
自分が笑いたい時に、笑えばいい。
「……ありがとう」
フィオナがそう言うと、シリルは穏やかに目を細めた。
音楽が流れ始める。
広間の光が、ゆっくりと揺れる。
比べられなくなったわけではない。
それでももう、自分を消す必要はない。
フィオナは、フィオナのままでいい。
そのことを、ようやく信じられるようになっていた。
後日。
クラウディア公爵家の庭園で、レオルドはシリルをじろりと睨んだ。
「お前、昔からフィオナに甘かったよな」
「否定はしない」
「少しは隠せ」
「無理だな」
涼しい顔で返され、レオルドが深いため息をつく。
「兄としては複雑なんだが」
「安心しろ。泣かせる気はない」
「お前、自分で言うのかそれ」
二人のやり取りを聞いていたフィオナは、思わず吹き出した。
その笑い声に、ミレイユが嬉しそうに目を輝かせる。
「お姉様、最近よく笑うわね」
「そうかしら」
「うん。前よりずっと素敵」
フィオナは少し照れながら、ティーカップを手に取った。
窓から差し込む初夏の光が、白いテーブルクロスを照らしている。
比べられなくなる日は、きっと来ない。
人はこれからも、誰かと誰かを比べるのだろう。
それでももう、その中で自分を消さなくていい。
フィオナは、フィオナのままでいいのだから。
隣では、シリルが穏やかな目でこちらを見ていた。
昔から変わらない眼差し。
ようやくフィオナが、それに気づけるようになっただけだ。
フィオナは静かに顔を上げる。
誰かに選ばれるためではなく、誰かに愛されるためだけでもなく。
自分の心で、自分の未来を選ぶために。
柔らかな光の中で、フィオナはもう一度、笑った。




