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第5話 元婚約者を「不要品」と断じる


「……お初にお目にかかりますわ、と言った方がよろしいかしら? それとも、お久しぶり、かしら。カイル殿下」


 ナラクの地に、不釣り合いな豪華な馬車から降り立ったのは、金髪を振り乱し、苛立ちを隠そうともしない元婚約者、カイル・アルスターだった。

 彼の背後には、先程まで私の「おもてなし」に鼻の下を伸ばしていたボルグ将軍が、真っ青な顔で立ち尽くしている。


「エレグバラ! 貴様、この俺を愚弄するのも大概にしろ!」


 カイルの怒声が、静まり返ったナラクの村に響き渡る。

 かつて王立アカデミーのパーティ会場で私を突き放した時と同じ、傲慢で独りよがりな声。

 だが、今の私には、それが壊れかけたおもちゃが鳴らす、虚しい異音にしか聞こえない。


(情報収集完了。殿下の血色、極めて不良。不摂生とストレスによるもの。……そして、その指先に光る指輪。……ああ、王家の宝物庫に眠っていたはずの『建国の誓い』。……それを持ち出してきたということは、相当に追い詰められている証拠ですわね)


「愚弄だなんて。私はただ、殿下が送り込んでくださった『大切なお客様』を、全力でおもてなししていただけですわ。……将軍、楽しんでいただけましたわよね?」


 私が微笑んで視線を送ると、ボルグ将軍はガチガチと歯の根を鳴らしながら、手元の「記念品の石鹸」を背後に隠した。


「そ、その、殿下……。エレグバラ様は、誠心誠意、我々を歓迎してくださり……」


「黙れ、無能が! 貴様、軍資金をすべてこの女のゴミクズに替えたそうだな! 後で厳罰に処してやる!」


 カイルは将軍を蹴り飛ばすと、私に向かって一歩、また一歩と詰め寄ってきた。

 彼の背後で、ギルベルトが静かに剣を引き抜こうとする。

 私はそれを手制止し、あえて無防備な姿でカイルを待ち構えた。


「……エレグバラ。貴様のその『能力』は認めてやる。これほどの死地を短期間で立て直し、軍隊を丸め込むその手腕……。正直、驚いた」


 カイルの声が、急に甘ったるいものに変わった。

 猫撫で声。あるいは、駄駄を捏ねる子供が、目的のために見せる一時的な妥協。


「いいだろう。貴様の罪をすべて赦してやる。それどころか、特別に『王妃』の座を約束してやろう。……リリアは側妃に下げればいい。どうだ? 貴様も、俺の隣に戻りたいのだろう? 愛していると言えば、満足か?」


 沈黙が流れた。

 アンナは吐き気を堪えるように口を押さえ、ギルベルトの周囲には物理的な殺気が黒い炎となって揺らめいている。


 ……対する私は。

 ただ、心の底から込み上げてくる笑いを、扇で必死に抑えていた。


「……ふ。……ふふふ。……あーっはっはっはっは!!」


「な……!? 何がおかしい!」


「いえ、失礼いたしましたわ。……殿下、あまりにも『喜劇』が過ぎますわ。……愛? 王妃の座? ……殿下、貴方は大きな勘違いをしていらっしゃいます」


 私は笑い涙を指先で拭い、冷徹なまでの無表情で彼を見据えた。

 嘘つきの私が、今日、初めて「真実」という名の武器を全力で振るう。


「殿下、今の貴方の『市場価値』をご存知かしら? ……計算して差し上げましょうか」


「市場価値……だと?」


「ええ。まず、貴方が持ち出したその『建国の誓い』の指輪。……それは、我が領地の商会が既に王家から『抵当』として差し押さえているものですわ。……王家の財政は、今や破綻寸前。……正確に言えば、貴方の国の主要な輸出品、食料供給、そして軍の維持費の七割を、我がナラク商会が肩代わりしております」


 カイルの顔から血の気が引いていく。

 情報の餌付け(フォレージング)は、完了している。

 彼が王都で贅沢三昧をし、リリア様に貢いでいる間に、私は「嘘」で稼いだ資金を使って、王国の経済という心臓部を少しずつ、着実に買い占めてきたのだ。


「つまり、今の貴方は、私の所有物である国に居候しているだけの『寄生虫』。……いえ、寄生虫は栄養を吸い取りますが、貴方は何も生み出さない。……鑑定の結果、貴方の価値は……そうね、銅貨十二枚といったところかしら。……ああ、その汚れた王冠代込みで、ですわ」


「き、貴様……! 俺を、この俺を、金で測るというのか!」


「当然でしょう? 愛だの情だのという、価値の不透明な言葉で誤魔化すのはおやめなさい。……私は商売人です。……無価値なものに、一秒だって投資する気はありません」


 カイルが激情に駆られ、私の首を絞めようと手を伸ばす。

 だが、その手は空を切った。


 一瞬。

 瞬きよりも短い間に、ギルベルトの剣がカイルの喉元に突きつけられていたからだ。

 ギルベルトの瞳には、もはや慈悲のかけらもない。ただ、ゴミを見るような冷たい軽蔑だけがある。


「……動くな、銅貨十二枚の男。……その汚い手で、エレグバラ様に触れれば、貴様の首は市場に流れることさえ叶わぬ肉片となるぞ」


「ひ、ひっ……!」


 カイルは情けなく尻餅をついた。

 その拍子に、彼の頭から王冠が転がり落ちる。

 漆黒の砂に汚れ、無造作に転がる金の輪。

 それこそが、彼が縋り付いていた「権威」のなれの果てだ。


「……殿下。貴方は、リリア様に『本物の聖女の力』を求めていらっしゃったわね。……ですが、彼女が持っていたのは、ただの『自己陶酔』という名の病。……そして、貴方が私に求めている『知略』は、今や貴方を破滅させるための刃となりました」


 私は倒れ伏す彼を見下ろし、わざとらしく溜息をついた。


「不要ですわ、そんなもの。……私には、この豊かなナラクの地があり、私を信じる領民がおり……。そして、私の『嘘』を誰よりも高く買ってくださる、素敵な騎士様がおりますもの」


 私がギルベルトの方を向いて微笑むと、彼はほんのわずかだけ、頬を赤らめて視線を逸らした。

 ……あら、可愛い。


「エ、エレグバラ……待て、頼む……! 俺が悪かった! 婚約破棄は取り消す! だから、国を見捨てないでくれ! 俺を助けてくれ!」


 地面に這いつくばり、私の靴を掴もうとするカイル。

 かつての婚約者の、あまりにも無残な姿。

 だが、私の心には、スカッとする快感さえもはや残っていなかった。

 ただ、ただ、不快な汚れを掃除した後のような、さっぱりとした虚無感。


「……お引き取りください。……いえ、その必要もありませんわね。……ボルグ将軍」


「は、はいっ!」


「その『かつての主人』を連れて、王都へお帰りなさい。……そして、王家に伝えてください。……『ナラクは本日をもって独立を宣言する。……これまでの借款しゃっかんの返済が滞るようなら、王都の城を競売にかけ、豚小屋に改築させていただきますわ』……と」


 将軍は狂ったように頷き、腰の抜けたカイルを無理やり引きずって馬車へと放り込んだ。

 走り去る馬車の窓から、カイルが何かを叫んでいるのが見えたが、もはや誰も耳を貸さない。


 村人たちが、歓声とともに私を囲んだ。

 「エレグバラ様万歳!」「独立おめでとうございます!」「これからは我々の国だ!」

 その熱狂の中心で、私はふと、ギルベルトと目が合った。


「……いいのですか? 本当に、あの国を潰しても」


「あら、ギルベルト様。私がそんな野蛮なことをするとお思い? ……ただ、少しだけ『経営陣の刷新』を行うだけですわ。……新しい国王には、もう少し使い勝手の良い、例えば殿下の弟君あたりを据えればよろしいでしょう?」


 私は扇で顔を隠し、クスクスと笑った。

 嘘つきのやり方は、いつだってスマートでなくては。


「……さて。これで、外敵も過去も、すべて片付きましたわね」


 空を見上げれば、かつての毒々しい紫の霧は、今や幻想的な藤色のヴェールへと変わり、ナラクの夜空を美しく彩っている。

 黒い砂は、月の光を浴びて、まるで星屑を散りばめたように輝いていた。


(……ああ。……嘘です。……本当は、少しだけ怖かった)


 心の中で、私は誰にも聞こえない、自分だけの「嘘」を吐いた。

 強がって、計算して、世界を騙し続けてきた。

 もしも、私の言葉が誰にも信じてもらえなくなったら。

 もしも、この嘘の果てに、何もない暗闇しか待っていなかったら。


 そんな不安を、私は誰にも見せない。

 エレグバラという完璧な「嘘つき」であり続けるために。


 ……けれど。


「……お疲れ様でした、エレグバラ様。……貴女のその手が、少し震えている。……気づかぬふりをしようと思いましたが、やはり、俺の目からは隠せなかったようだ」


 ギルベルトが、そっと私の震える指先を握りしめた。

 大きく、温かい手。

 それは、私の吐いてきた数千の嘘を、すべて包み込んで溶かしてしまうような、残酷なほどに真っ直ぐな真実の温度だった。


「……ギルベルト様、貴方は本当に、余計なことばかり見抜いてしまいますのね」


「……俺は、貴女の『騎士』ですから。……嘘も、真実も、すべてを守ると誓ったはずだ」


 私は、彼の胸にそっと額を預けた。

 ナラクの霧が、優しく二人を包み込む。


 世界を騙しきった。

 過去も、国も、敵も、すべてを掌の上で転がした。

 残るは、あと一歩。

 この「嘘」が、本当の「真実」に変わる、最後の魔法うそをかけるだけ。


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