第3話 死神の刃を「愛の誓い」に書き換える
夜の帳が下り、紫の霧がいっそう濃さを増した頃。
私の寝室――といっても、急ごしらえの石造りの小屋の一室に、その男は現れた。
音もなく、風さえも凍りつくような冷気とともに。
窓枠を跨いで音もなく着地したその影は、月光を背負い、死神の如き威圧感を放っていた。
「……夜分に失礼いたしますわ、ギルベルト辺境伯。窓から侵入されるとは、随分と野性味溢れるご挨拶ですこと」
私はベッドの上で優雅に腰掛け、読みかけの魔導書を閉じた。
心臓は、ドラムを乱れ打つような速度で跳ねている。
目の前に立つ男、ギルベルト・フォン・クロムウェル。
戦場では敵の首を躊躇なく刈り取り、味方からも「血も涙もない死神」と忌み嫌われる、この国で最も恐ろしい武人だ。
彼の手には、鈍く光る漆黒のダガーが握られている。
その切っ先は、一点の迷いもなく私の喉元を指していた。
「嘘つき令嬢エレグバラ。貴様の噂は聞いている。……王都を追放され、この死の地に逃げ延びたかと思えば、今度は無知な領民や商人を言葉巧みに騙し、偽りの希望を植え付けているそうだな」
低く、深く、地の底から響くような声。
彼の黒い瞳には、一切の情がない。ただ、不純物を排除しようとする冷徹な殺意だけが宿っている。
「騙すだなんて。心外ですわ。私はただ、彼らが求めている『真実』を提示して差し上げているだけ。……貴方も、何かお探しではありませんの?」
「……俺が探しているのは、貴様のような寄生虫の死体だけだ」
ギルベルトが静かに一歩、踏み出す。
その瞬間、部屋の空気が物理的な重圧となって私を押し潰そうとした。
扉の向こうでアンナが「ヒッ」と短い悲鳴を上げて腰を抜かした音が聞こえる。無理もありませんわね。
(情報収集完了。彼の呼吸……完全に一定。動揺なし。指先のタコ……剣の振りすぎ。……そして、その首筋にかけられた銀のロザリオ。……古い。使い込まれている。……なるほど、そういうことですのね)
私は逃げるどころか、あえて自分から一歩、彼のダガーの先へと歩み寄った。
冷たい刃が、私の白い首筋をわずかに掠める。
「……何をしている。死に急ぐか」
「死? いいえ。貴方のその『痛み』を、終わらせに来たのです。……可哀想な、孤独な聖者様」
ギルベルトの眉が、わずかにピクリと動いた。
私の脳内では、彼という存在を再定義するための「嘘の設計図」が完成した。
「聖者だと? 俺を嘲弄しているのか。俺はこれまで、数え切れないほどの人間を殺してきた。この手は血に汚れ、魂は闇に染まっている。死神こそが俺に相応しい名だ」
「いいえ。貴方が殺してきたのは、人間ではありません。この世界に蔓延る『穢れ』そのものですわ。……貴方は、自らが泥を被ることで、世界の均衡を守ろうとしている。……その証拠に、貴方のそのロザリオ、毎日どれほどの祈りを込めて磨いていらっしゃることか」
私は彼の手を、震える指先でそっと包み込んだ。
鉄のように冷たい手だ。だが、その指先はわずかに震えている――武者震いではない、拒絶されることを恐れる幼子の震えだ。
「……黙れ。貴様に何がわかる」
「わかりますわ。だって、私も同じですもの。……私は嘘を吐き、貴方は剣を振る。形は違えど、私達は『真実』という名の残酷な現実から、人々を守るための防波堤になっている。……貴方のその無慈悲な剣は、本当は誰も傷つけたくないという、あまりにも深い愛の裏返しなのでしょう?」
私はわざとらしく、その瞳に「理解者」としての情熱を灯した。
嘘だ。
彼の剣はただの効率的な殺戮手段だし、ロザリオだって単なる形見かもしれない。
けれど、彼のような「孤独な強者」は、自分の行動に「高潔な理由」を与えられることに、耐え難いほどの飢えを感じているはずだ。
「……愛だと? この俺が?」
「ええ。貴方は、誰よりも優しい。……だからこそ、悪人にならざるを得なかった。……このナラクの地に満ちる魔力の霧を見てください。これは毒ではありません。貴方のように、強すぎる力を持ち、誰にも理解されずに彷彿う『迷える魂の吐息』なのですわ。……私は、それを受け止める場所を、ここに作ろうとしているのです」
私は彼のダガーを、自分の喉からゆっくりと押し下げた。
ギルベルトの力が、抜けていく。
彼の瞳に、初めて「迷い」という色の光が混じった。
「貴方のその力、死神として終わらせるにはあまりにも惜しい。……私の『盾』になりませんか、ギルベルト様? 私のつく嘘を、貴方の剣で真実に変えてほしい。……世界を騙しきった先にある、誰も傷つかない偽物の楽園を、私と一緒に見守ってくださいな」
私は彼の至近距離で、最高の「慈悲の微笑」を浮かべた。
それは、聖女の微笑みでも、令嬢の微笑みでもない。
深淵に誘う悪魔のような、それでいて拒みがたい救済の笑みだ。
沈黙が流れた。
紫の霧が窓から流れ込み、私達二人を包み込む。
やがて、ギルベルトはゆっくりとダガーを鞘に収め、その場に膝をついた。
「……狂っている。貴様も、貴様の言葉も。……だが、その狂気が、俺の犯してきた罪を肯定すると言うのなら」
彼は私の手を取り、その甲に、誓いのキスを落とした。
鋼のような男が、私の足元で完全に屈服した瞬間だった。
「この命、エレグバラ様に捧げよう。……貴様の嘘が、いつか俺を地獄へ連れて行くとしても、俺は貴様の影となり、邪魔する者すべてを斬り伏せる」
(……はい、落ちました。チョロ……いえ、なんて純粋な御方なのかしら)
私は内心でガッツポーズを決めながら、彼の頭を優しく撫でた。
これで、この地における「絶対的な武力」が手に入った。
もはや、誰一人として私の「嘘」に異を唱えることはできない。
翌朝。
アンナが恐る恐る部屋に入ってくると、そこには昨夜の「死神」が、私の後ろでまるで彫像のように直立不動で控えている姿があった。
「お、お嬢様……。その、辺境伯様はどうしてここに……?」
「あら、アンナ。ギルベルト様は、私の『嘘』……いえ、『神託』を守護する聖騎士として、今日から私達と共に歩んでくださることになりましたの」
ギルベルトは無表情のまま、凄まじい眼力でアンナを一瞥した。
アンナは再び「ヒッ」と叫んで部屋を飛び出していった。……ごめんなさいね、アンナ。
私は優雅に紅茶を啜り、窓の外に広がる黒い大地を見渡した。
領民たちは、ギルベルトの姿を見て恐怖に慄いているが、それもすぐに「私に服従した死神=究極の安全」という認識に書き換えてみせましょう。
「……さて。地盤も固まり、盾も手に入りました。……そろそろ、王都の方々が私の成功を妬んで、余計なちょっかいを出してくる頃かしら」
私は手元に届いたばかりの書状を、扇で叩いた。
第一王子カイルが、私の開拓を「不当な魔導資源の占拠」と断じ、調査軍――という名の略奪軍を派遣したという報せだ。
「ギルベルト様。……戦争の準備をいたしましょうか」
「……御心のままに。すべてを、塵にいたしましょうか」
「いいえ、そんな野蛮なことはいたしません。……軍隊を連れてやってくる彼らを、最高に贅沢な『観光客』としてお迎えするだけですわ」
私は悪戯を思いついた子供のように笑った。
侵略軍を、私の領地の「最大のパトロン」に変えてやる。
世界を欺く私の舌が、今度は一国の軍隊を相手に、最大の大ボラを奏でる時だ。




