第1話 婚約破棄? いいえ、これは国家試験です
「エレグバラ・フォン・アスター! 貴様のような邪悪な女との婚約など、今この瞬間をもって破棄させてもらう!」
眩いシャンデリアが照らす王立アカデミーの卒業記念パーティ。
その中央で、第一王子カイルが、私の鼻先に指を突きつけていた。
彼の隣には、今にも泣き出しそうな表情で彼の手にしがみつく男爵令嬢、リリア。
周囲を囲むのは、好奇と嘲笑を隠そうともしない学友たちだ。
……ああ、予定通りですね。
私は手にしていた扇をパチンと閉じ、優雅に、あくまでも優雅に一礼した。
私の脳内では、この瞬間のために構築された数千の「嘘」が高速で検索を開始する。
(情報収集完了。王子の心拍数、通常より一五%上昇。興奮状態。背後のリリア様、目薬による偽りの涙を確認。周囲の野次馬、刺激を求めている。……よし、この『真実』を、一番美味しい『物語』に書き換えましょう)
「……婚約、破棄、でございますか」
私はわざとらしく震える声で、顔を伏せた。
肩を小刻みに揺らし、絶望に打ちひしがれた令嬢を演じる。
「そうだ! しらを切るな。お前がリリアに加えた陰湿な嫌がらせの数々、すべて報告を受けている。階段から突き落とそうとし、愛用のドレスを切り裂き、さらには心ない言葉で彼女を罵倒した……! これ以上の言い逃れはさせんぞ!」
王子の怒声に、会場が「そうだそうだ」「悪役令嬢め」とざわめき立つ。
言い逃れ? ふふ、そんな下品なことはいたしません。
私は、彼らが一番欲しがっている「納得感」という名の餌を放り投げるだけです。
「……殿下。……素晴らしいですわ」
私は顔を上げ、満面の笑みを浮かべた。
涙など一滴も出ていない。むしろ、深い慈愛に満ちた聖母のような眼差しを彼に向ける。
「は……? 何が素晴らしいだと?」
「その正義感! 弱きを助け、悪を断じるその果敢な決断力! ……おめでとうございます、殿下。合格ですわ」
私がパチパチと拍手を送ると、会場は一瞬にして静まり返った。
王子は呆然として、突き出していた指を震わせている。
「ご、合格……? 何の、話を……」
「あら、ご存知なかったのですか? いえ、当然ですわね。これは王家極秘の――『次期王妃適正および国王危機管理能力測定試験(ランクS)』だったのですから」
私は扇で口元を隠し、秘密を共有するように声を潜めた。
もちろん、そんな試験はこの国の歴史上一秒たりとも存在したことはない。私の完全なる作り話だ。
「し、試験……? リリアへの嫌がらせがか?」
「左様でございます。殿下、よくお考えになって。私が、証拠も残さず相手を破滅させる術を熟知しているこの私が、なぜこれほど『分かりやすい』嫌がらせを、衆人環視の中で行ったのかを」
私は一歩、王子に詰め寄った。
「階段から突き落とした? いいえ、あれはリリア様の背後に潜んでいた『毒蜘蛛』を、私の魔力で弾き飛ばした副産物です。ドレスを切り裂いた? とんでもない。あの布地には隣国の工作員が仕込んだ『盗聴用の魔導糸』が編み込まれていたのです。私は己の手を汚してまで、王家の機密を守ったのですわ!」
「な、なんだと……!? しかし、彼女を罵倒したのは……!」
「『厳しい王妃教育に耐えられるか』という精神負荷テストです。……ああ、リリア様。貴女も素晴らしい。あのような罵詈雑言(という名の愛の指導)を受けても、なお王子への愛を貫かれた。……貴女も、合格です」
リリアが「えっ、あ、はい……?」と困惑の声を漏らす。
彼女には理解できないだろう。今、私の言葉によって、彼女の受けた「被害」がすべて「試験の課題」に上書きされたのだから。
「殿下。私は、悪役を演じることで、お二人の愛の深さと、殿下の王としての資質を証明したのです。……ああ、なんて孤独で、報われない任務だったのでしょう。でも、今の殿下の毅然とした態度を見て、私は救われました」
私はハンカチで目元を拭うふりをする。
会場の空気が変わった。
「エレグバラ様は、実は国のために……」「なんて高潔な犠牲精神なんだ」「王子を試していたのか!」という囁きが、波のように広がっていく。
情報の収集効率が極めて高い大衆は、自分たちが「騙されていた」と思うよりも、「実は深い裏があった」という物語を好む。その方が、自分たちも「真実を見抜いていた」側になれるからだ。
「だ、だが、それならなぜ事前に言わなかった!」
「極秘試験だと申し上げたでしょう? ……ですが、あまりにも殿下がお辛そうでしたので、私も胸が痛んで。……ああ、そうだわ。この試験を完遂した『試験監督官』としての報酬、並びに『守秘義務解除手数料』を頂戴できれば、今回の婚約破棄、喜んで拝受いたします」
私は手際よく、ドレスの隠しポケットから一枚の書類を取り出した。
それは事前に用意していた「婚約解消に伴う財産分与および慰謝料請求書」……ではなく、「国家特別任務遂行に伴う諸経費精算書」だ。
「諸経費……精算……?」
「ええ。毒蜘蛛の駆除費用、魔導糸の解析および破棄費用、そして何より、私の『乙女のプライドをドブに捨てて悪役を演じた精神的苦痛への補填』。……しめて、王家予算の年間予備費の三割ほど。……安いものでしょう? 未来の賢王の誕生を祝う、いわば御祝儀ですわ」
王子の顔が青ざめる。だが、今ここで「そんな試験は知らない」と言えば、彼は「国民の前で、自分を助けてくれた婚約者を冤罪で追放しようとした愚王」に逆戻りする。
彼に残された道は、私の作った「賢王の物語」に乗り続けることだけだ。
「……あ、ああ。わかった。認める。エレグバラ、貴様の忠義……しかと受け取った。精算書には後でサインをしよう」
「恐悦至極に存じます、殿下。……ああ、それから」
私は去り際、王子の耳元でだけ聞こえるように囁いた。
「ちなみに、隣国の死神辺境伯ギルベルト様が、先ほどからこちらを興味深げに見ていらっしゃいますわ。……彼は『嘘を見抜く瞳』を持っているという噂ですが、殿下のこの立派な立ち振る舞い、どう映っているかしら。……ふふ、せいぜいボロが出ないようにお気をつけて」
実際には、ギルベルト辺境伯が嘘を見抜けるかなど知らない。
ただ、彼が今この会場にいて、退屈そうにワインを飲んでいるという事実を「脅し」に転用しただけだ。
「なっ……あ、ああ……っ!」
王子が震える視線で会場の隅にいる黒衣の男を見る。
私はそれを見届け、優雅な足取りで会場を後にした。
(交渉終了。利益確定。……さて、次は追放先の『貧乏領地』でしたかしら。……『呪われている』という噂のあの土地、どう書き換えてあげましょうか。楽しみですわね)
会場を出た瞬間、私は重苦しい令嬢の仮面を脱ぎ捨て、口角を吊り上げた。
真実なんて、ただの素材。
それをどう料理して、誰に食わせるか。
世界は私の舌先一つで、いくらでも美味しく書き換えられる。
夜風に銀髪をなびかせながら、私は高らかに笑った。
嘘つき令嬢エレグバラの、真実よりも美しい物語は、まだ始まったばかりなのだから。




