親友として俺ができること(神宮寺拓海視点)
俺、神宮寺拓海が柊木透矢と初めて会ったのは、大学一年の春だった。情報工学の講義で隣に座ったのがきっかけだ。透矢は地方出身で、初めての一人暮らしに緊張している様子だった。真面目で、少し人見知りする性格。でも、プログラミングの課題に取り組む姿勢は真剣そのもので、俺はすぐに「こいつとは気が合いそうだ」と思った。
それから四年間、俺たちは同じ研究室で学び、時には夜遅くまで課題に取り組み、たまに飲みに行っては他愛もない話をした。透矢には彼女がいた。水無月梢。清楚で控えめな女性だと、透矢から何度も聞かされていた。俺も何度か会ったことがあるが、確かに派手さはなく、真面目そうな印象だった。透矢は彼女のことを本当に大切にしていた。デートの計画を立てる時も、彼女の誕生日プレゼントを選ぶ時も、透矢はいつも真剣だった。「梢は俺には勿体ないくらいの女性なんだ」と、照れくさそうに言っていた透矢の顔を、俺は今でも覚えている。
だから、あの日透矢から電話がかかってきた時、俺はすぐに何かがおかしいと気づいた。透矢の声は、いつもの落ち着いたトーンではなく、どこか震えていた。
「拓海、今から会えるか。相談したいことがある」
その一言で、俺は全てを察した。何か、重大なことが起きたんだ。俺はすぐに「いつもの喫茶店で会おう」と答えた。一時間後、喫茶店で向かい合った透矢の顔は、見たこともないほど青ざめていた。目の下には隈ができ、髪も少し乱れている。普段あれほど几帳面な透矢が、こんな姿を見せるなんて。
「どうした、透矢。何があった?」
俺が訊ねると、透矢は震える手でコーヒーカップを握りしめた。そして、ゆっくりと話し始めた。梢がスマホを忘れたこと。そこに表示されたメッセージ。蓮という男の存在。高級ホテルでの密会。そして、透矢を「安定した保険」として見ていたという残酷な真実。
話を聞きながら、俺の中で怒りが湧き上がってきた。透矢は、誰よりも真面目で、誠実で、人を裏切るような男じゃない。そんな透矢を、三年間も騙し続けていたなんて。しかも、結婚まで考えていた相手に。俺は、拳を握りしめた。でも、ここで感情的になっても仕方ない。今、透矢に必要なのは、冷静な助言だ。
「最悪だな」
俺は、まずそう言った。透矢は、力なく頷いた。
「で、透矢はどうしたいんだ?」
俺が訊ねると、透矢は答えられなかった。彼は、きっと頭の中が混乱しているんだろう。愛していた女性に裏切られて、どうすればいいのか分からない。そんな透矢を見て、俺は言った。
「透矢、感情的になるな。まずは証拠を集めろ」
透矢は、俺を見た。その目には、まだ迷いがあった。
「証拠?」
「ああ。もし梢と別れるなら、ちゃんとした理由が必要だ。それに、その蓮って男、どんな奴かも調べた方がいい。もしかしたら、梢も騙されてる可能性だってある」
俺の言葉に、透矢は少しだけ表情を変えた。そうだ、透矢。今はまだ、全てが終わったわけじゃない。まずは、事実を確認するんだ。俺は、透矢にSNSでの調査方法を教えた。裏アカウントの探し方、相手の行動パターンの分析、そして証拠の集め方。透矢は、俺の話を真剣に聞いていた。
「拓海、手伝ってくれるか?」
透矢が訊ねた。
「当たり前だろ。お前は俺の親友だ。困ってる時に助けないで、何が親友だ」
俺は、そう答えた。透矢は、初めて少しだけ笑顔を見せた。それは、とても弱々しい笑顔だったけど。
それから二週間、俺と透矢は徹底的に調査を行った。梢のSNSアカウント、鷹司蓮という男の素性、そして過去の女性関係。調べれば調べるほど、最悪な事実が浮かび上がってきた。鷹司蓮は、若手経営者として表向きは成功しているように見えたが、実際は女子大生を金で誘惑し、飽きたら捨てるという最低な男だった。過去二年間で、少なくとも五人の女性と同じパターンで関係を持っていた。
「こいつ、完全に遊びだな」
俺は、画面を見ながら吐き捨てるように言った。透矢は、黙って画面を見つめていた。その横顔は、とても悲しそうだった。
「梢は、騙されてるのか?」
透矢が訊ねた。
「いや、どうだろうな。梢も自分から乗ってる可能性もある。金目当てとか、特別扱いされたいとか」
俺の言葉に、透矢は何も答えなかった。きっと、まだ梢のことを信じたい気持ちがあるんだろう。でも、現実は残酷だ。梢の裏アカウントには、高級ブランドのバッグ、高級レストランでの食事、そして幸せそうな投稿が並んでいた。これは、騙されているというより、自分から楽しんでいる証拠だ。
そして、決定的な瞬間が訪れた。梢から透矢に、結婚の話が持ちかけられたんだ。透矢がそのことを俺に話した時、俺は信じられなかった。
「は? 結婚? あいつ、お前を騙しながら結婚の話を?」
「ああ」
透矢の声は、どこか空虚だった。
「俺、梢に何て答えればいいんだ?」
「考える時間をくれって言えばいい。そして、その間に計画を立てるんだ」
「計画?」
「ああ。復讐の計画だ」
俺がそう言うと、透矢は驚いた顔をした。でも、すぐにその表情は、冷たいものに変わった。
「復讐……」
「そうだ。透矢、お前は三年間、梢を信じてきた。でも、梢はお前を裏切った。それも、結婚を持ちかけながらだ。こんなの、許せるわけがない」
透矢は、しばらく黙っていた。でも、やがて静かに言った。
「拓海、手伝ってくれるか?」
「当たり前だろ」
俺は、即答した。それから一ヶ月、俺たちは復讐の計画を練った。俺の専門は情報工学、特にセキュリティとハッキング技術だ。大学の研究では、システムの脆弱性を見つけて報告する、いわゆる「ホワイトハッカー」の勉強をしていた。その技術を、今回は復讐のために使う。倫理的にはグレーゾーンだが、俺は透矢のためなら何でもやる覚悟だった。
鷹司蓮の会社のシステムに侵入するのは、思ったより簡単だった。セキュリティが甘すぎる。パスワード管理も杜撰で、二段階認証すらない。俺は、会社の経費記録を全て入手した。そこには、信じられない事実が記録されていた。高級ホテル代、レストラン代、ブランド品の購入。全て会社の経費で処理されている。総額は、約八百万円。これは完全に横領だ。
「透矢、見てくれ。こいつ、会社の金を横領してる」
俺が画面を見せると、透矢は冷たい目でそれを見つめた。
「証拠として使えるか?」
「ああ、十分だ。この記録を第三者機関に提出すれば、監査が入る。そうすれば、こいつは逮捕される」
透矢は、小さく頷いた。そして、静かに言った。
「これで、計画は完成だな」
「ああ。あとは、実行するだけだ」
復讐の日。俺は、透矢と一緒にレストランに向かった。透矢は、驚くほど冷静だった。普段の優しい透矢ではなく、まるで別人のように感情を殺している。俺は、そんな透矢を見て、少し心配になった。でも、これは必要なことだ。透矢が前に進むためには、この復讐を成し遂げなければならない。
レストランの個室には、両家の両親が揃っていた。そして、梢。彼女は白いワンピースを着て、幸せそうに微笑んでいた。その笑顔を見て、俺は怒りが込み上げてきた。この女、透矢をここまで傷つけておいて、まだ幸せそうな顔をしているのか。
そして、俺が連れてきた鷹司蓮。彼は、いつものように爽やかな笑顔を浮かべていたが、透矢と目が合うと、一瞬だけ表情が固まった。ああ、こいつも気づいたんだ。これから何が起こるのかを。透矢がプロジェクターのスイッチを入れた。壁に映像が映し出される。最初は、梢の裏アカウント。次に、梢と蓮のメッセージのやり取り。そして、ホテルの出入り記録。蓮が過去に弄んだ女性たちの証拠。最後に、会社の経費を横領していた記録。
部屋は、完全に凍りついた。梢の顔は真っ青で、蓮は呆然としていた。両親たちも、何が起きているのか理解できない様子だった。でも、透矢は淡々と説明を続けた。その声は、驚くほど冷静で、感情の起伏がなかった。俺は、透矢の横で立っていた。もし何かあれば、すぐに動けるように。
梢が泣き崩れ、蓮が激昂した。でも、透矢は動じなかった。ただ、冷たく事実を突きつけるだけ。梢の父親が激怒し、梢を絶縁すると言った。蓮は、全てが終わったと悟ったようだった。そして、レストランを出る時、透矢は一度も振り返らなかった。俺は、透矢の背中を見ながら思った。こいつ、本当に強くなったな。
でも、同時に心配にもなった。こんなに感情を殺して、透矢は本当に大丈夫なのか。復讐を終えた後、心が壊れてしまわないか。
その夜、俺と透矢は二人で飲んだ。大学近くの居酒屋で、静かに酒を酌み交わした。
「拓海、ありがとう」
透矢が言った。
「礼なんていいよ。俺たち、親友だろ」
「ああ、そうだな」
透矢は、少しだけ笑った。その笑顔は、以前のような温かいものではなかったけど、でも確かに生きている証だった。
「透矢、お前、本当に大丈夫か?」
俺が訊ねると、透矢は黙って酒を飲んだ。そして、ゆっくりと言った。
「わからない。でも、やらなければ前に進めなかった」
「そうか」
俺は、それ以上何も言わなかった。きっと、透矢は自分で答えを見つけるだろう。俺にできることは、ただ隣にいることだけだ。
それから数ヶ月、透矢は徐々に元の生活を取り戻していった。大学の研究に集中し、就職活動も順調に進んだ。俺も同じ企業に就職が決まり、俺たちは一緒に新しい生活を始めることになった。そして、ある日、透矢が職場で新しい彼女ができたと話してくれた。明るく前向きな女性だと、嬉しそうに話す透矢を見て、俺は安心した。ああ、透矢は本当に立ち直ったんだ。
「拓海、俺、あの時お前がいなければ、きっと壊れてたと思う」
透矢が言った。
「何言ってんだ。お前が強かったからだよ」
「いや、お前のおかげだ。本当に、ありがとう」
透矢の言葉に、俺は少し照れくさくなった。
「まあ、俺たち親友だし。困った時は助け合うのが当然だろ」
「ああ、そうだな」
透矢は、笑った。それは、以前と同じような、温かい笑顔だった。俺は、その笑顔を見て思った。よかった、透矢は本当に前に進めたんだ。
数年後、透矢は新しい彼女と結婚した。結婚式に呼ばれた俺は、友人代表としてスピーチをした。
「柊木透矢は、俺の大学時代からの親友です。真面目で、誠実で、何より人を大切にする男です。過去には辛いこともありました。でも、彼は決して折れず、前を向いて生きてきました。そして今、本当に信頼できるパートナーと一緒になることができました。透矢、本当におめでとう。そして、新婦さん、透矢をよろしくお願いします」
スピーチを終えると、会場から拍手が起こった。透矢は、少し涙ぐんでいた。俺は、席に戻りながら思った。よかった、本当によかった。透矢は、新しい幸せを掴んだんだ。
披露宴の後、透矢が俺のところに来た。
「拓海、今日は本当にありがとう」
「いいって。それより、お前、幸せそうだな」
「ああ、幸せだ。本当に」
透矢の言葉に、俺は頷いた。
「あの時、お前は正しい選択をしたんだよ。復讐を成し遂げて、そして前を向いた。だから今、こうして幸せになれたんだ」
透矢は、少し黙ってから言った。
「拓海、お前がいなければ、俺は今ここにいなかった。本当に、ありがとう」
「もういいって。俺たち、親友だろ。これからも、ずっとな」
「ああ、ずっとだ」
俺たちは、固く握手をした。そして、俺は思った。親友として、俺ができることは、ただ透矢の隣にいることだけだった。でも、それが一番大切なことだったんだ。透矢が辛い時も、嬉しい時も、ずっと隣にいる。それが、親友としての俺の役割だ。
今、透矢は幸せだ。新しい奥さんと、新しい人生を歩んでいる。梢や鷹司蓮のことは、もう過去の出来事だ。透矢は、自分の力で未来を掴み取った。俺は、そんな透矢を誇りに思う。そして、これからも、親友として透矢の隣にいる。それが、俺、神宮寺拓海の役割だ。




