27話
翌日。俺たちは遂に縁解きの元凶となる、菊理媛神へ会いに行くこととなった。
午前五時。学校の授業が始まるよりも早い時間に、俺たちは用務員室に集合する。
集まった面子は、俺と、凛音と、和花さんと、ハナコさんの四人だ。
「そろそろ動き始めた方がいいな」
ハナコさんが時計を見て言う。
「昨晩、生じた縁解きにより、学校周辺の歪みは一気に拡大した。私はこの歪みに対処しなければならないため、菊理媛神のもとへ向かうのはお前たち三人だけだ」
ハナコさんの目が、俺と凛音と和花さんを見据える。
俺たち三人だけで行動することは昨晩のうちから聞いていた。全員、首を縦に振る。
「よし。では行ってこい」
凛音と和花さんが用務員室を出る。
俺も二人に続こうとしたところで――ハナコさんに呼び止められた。
「悠弥。先日、渡したアレは持っているな?」
「……はい」
「使いどころを間違えるなよ? 我々の理想はあくまで平和的解決だ」
その言葉を強く頭に刻んで、俺は用務員室を出た。
凛音、和花さんと共に、学校の外に出る。行き先は駅だ。
駅に辿り着いた俺たちは、そこで事前に調べた時刻表を頼りに、目的の電車に乗る。
「悠弥君……本当に、私はその、祟りというのを受けているの?」
電車の中で、和花さんは訊いた。
「……はい」
「そっか。……全然、実感ないや」
和花さんには、昨晩のうちに俺の口から事情を説明していた。
和花さんを助けるための手順は単純である。事情を説明して、神との交渉に協力してもらえばいいだけだ。
しかし和花さんの縁解きは、相手を他人と思わなくなった瞬間、発動する。事情を説明した先にある協力関係という縁が結ばれた時点で、記憶が無くなってしまうのだ。そのため凛音もハナコさんも、今まで先へ進むことができなかった。
だが今回は、縁解きが通用しない俺を壁役にすることで、遂に最後の段階へ進むことができた。現状、和花さんが信頼しているのはあくまで俺一人である。凛音やハナコさんは顔見知りではあっても信頼はしていない、他人という認識を保っていた。
「すみません。今まで黙っていて」
「ううん、それは別にいいの。私のために色々と気を遣ってくれたんだよね?」
その通りであるため否定はしない。
しかし、和花さんの立場から考えたらどうだろうか? 俺たちは今まで、こんな大切なことをずっと黙っていたのだ。もっと早く教えて欲しかったに違いない。
「ただ……これが終わったら、悠弥君はもう、写真部を抜けちゃうんだよね?」
「え?」
訊き返すと、和花さんは目を丸くした。
「違うの……? だって悠弥君は、祟りを解消するために写真部に入ったんでしょ?」
「それは、まあ、最初はそうだったんですが……」
罪悪感を覚えながら補足する。
「和花さんに近づくだけなら、仮入部のままでも良かったんです。それでも俺が入部届を出したのは、この件が終わった後も、和花さんと一緒に活動したいと思ったからですよ」
そう言うと、和花さんは目を潤ませた。
「そう、なんだ……そうなんだ、そうだったんだね……」
和花さんは手の甲で目尻の涙を拭った後、満面の笑みを浮かべる。
「ならもう、何も怖いものはないねっ!」
途端に明るくなった和花さんに、俺は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……もしかして、さっきから暗かった理由って、それだけですか?」
「そ、それだけって、私にとっては一大事だよ! 記憶が戻るのも大切だけど、だからと言って悠弥君と離ればなれになるのも嫌だし……」
「離ればなれって、恋人じゃないんですから」
「う……で、でもそれと同じくらい、仲良くしたいってことなの!」
純真無垢な顔で、爆弾級に心が揺らぐ発言を和花さんは繰り出す。
前々から思っていたが、和花さんは距離感がイマイチ読めない。
しかしきっと、それには理由がある。
なにせ、今まで和花さんの人間関係は「他人」というカテゴリしかなかったのだ。家族、知人、友人、恋人。俺たちはそれぞれに対して、距離感を使い分けているが、和花さんにはその経験が圧倒的に不足している。結果、距離感がおかしくなっているのだろう。
その時。凛音が態とらしく咳払いする。
「着きましたよ」
電車を降りて駅を出る。
山に向かって歩き続け、長い階段を上った先に、大きな鳥居があった。
「ここが……」
白山神社。七年前、静真一家が旅行で訪れた神社であり、そして和花さんが巫女舞を誤ったことで縁解きの祟りを受けてしまった場所。
全ての始まりとなったこの地に、俺たちは足を踏み入れた。
この神社には縁結びの神、菊理媛神が祀られている。
正確には――菊理媛神の分霊が、この神社には存在する。
分霊と言っても、本体との違いは全くない。神道において、神は幾つもの分霊に分かれることが可能であり、更にそれぞれが本体となる神と全く同じ働きをするそうだ。日本各地には同じ神を祀る神社も多いが、それらは分霊を祀っているらしい。
鳥居を潜りながら辺りを見回す。
事前にハナコさんが神社庁に手回ししたらしく、境内に参拝客は一人もいなかった。
代わりに、神社庁から協力者として派遣された神職の者たちが集まっている。
「先輩、私たちは着替えてきます」
「ああ」
凛絵と和花さんが巫女装束に着替える間、俺は神事の準備を始める神職たちを観察した。
これから彼らが行うのは、実在する神に対する本物の神事である。その緊張感は並々ならぬものがあった。袴を着た神職たちは誰一人笑わず、細心の注意を払って神具を扱っている。
「お待たせしました」
凛音の声が聞こえて振り返る。そこには巫女装束を着た二人の少女の姿があった。
流石は姉妹。凛音に巫女装束が似合っていることは何度も確認済みだが、和花さんもとても似合っている。
「和花先輩。準備はいいですか?」
「……うん」
「では、音楽が始まったら私の後に続いてください」
淡々と告げて、凛音は唇を引き結ぶ。
「えっと、凛音ちゃん」
和花さんが遠慮気味に呼んだ。
「私と貴女は……どういう関係だったの?」
瞬間、凛音の顔に様々な感情が込められた。怒り、後悔、憐憫。複雑に絡み合ったそれらの感情を全て押し留め、凛音は答える。
「全てが終われば……自ずと、分かりますよ」
絞り出したような声音だった。
しかし、凛音の瞳には、強い決意が灯っていた。
太鼓や笛の音が響く。
神事が始まった。神社の内部には、ご神体を置く本殿と、その手前で祭祀や拝礼を行うための拝殿がある。参拝客が手を合わせて祈祷するのは拝殿の方だ。
凛音と和花さんは、拝殿の前で巫女舞を披露した。和花さんは凛音から事前に巫女舞の手順を教わっている。一晩で習得するなんて不可能ではないかと俺は懸念していたが――和花さんは幼い頃、凛音以上に巫女舞を経験していたらしい。記憶を失った凛音が巫女舞をしてみせたように、和花さんも身体に染みついた経験だけは手放していなかった。
この巫女舞は、形式だけのものではない。
和花さんの誠意と後悔が詰まった、菊理媛神に対する懺悔である。
かつて和花さんは、舞の手順を誤ったことで粗相を起こした。だから今回は決して手順を誤らず、丁寧に、誠心誠意、神事に没頭する。
幸い舞は緩やかだった。和花さんは最後までやり遂げる。
「菊理媛神」
拝殿の先に頭を垂れて、和花さんは言った。
「どうか、お許しを」
この謝罪が受け入れられさえすれば――全ては終わる。
和花さんと、菊理媛神の和解。これが、俺たちにとって一番、平和的な解決法だ。
固唾を呑んで一分ほど待ち続けた、その時。
「あ、あ――っ」
和花さんが急に、苦しそうな声を漏らした。
「和花さん!」
「先輩、待ってください!」
身体を痙攣させ、蹲っている和花さんに近づこうとすると、凛音がそれを制止する。
呻き声を零していた和花さんは、やがてゆっくりと身体を起こす。
「……人間風情が、妾の邪魔をしおって」
その瞳には、深い緑色の眼光が灯っていた。
瞬間、全身に強い重圧がのし掛かる。身体に痛みはない。ただ、心が酷く怯えていた。
大気が軋み、木々の枝葉が揺れる。舞を手伝っていた神職たちは、豹変した和花さんを見て恐れおののき、我先にと退散した。
混乱の渦中で、凛音だけは落ち着いていた。
「菊理媛神であらせられますか」
「如何にも」
和花さん――いや、菊理媛神の分霊は肯定した。
元来、巫女舞とは巫女の身体に神を下ろす、神がかりを目的とした儀式である。今、和花さんの肉体には菊理媛神の分霊が宿っていた。
「貴様らが、妾の祟りを邪魔した人間だな」
菊理媛神は、目の前で傅く凛音と――傍で待機していた俺を睨んで言う。
「妾は、許さん」
端的に、神は告げた。
「どうしても祟りを終わらせたいならば――この娘を人身御供に捧げよ」
己の胸に掌をあてて、神は言った。
静真和花を捧げよ。それが神の意思だった。
頭を下げていた凛音が俺の方を見る。
俺は無言で首を縦に振った。――ハナコさんが予想した通りの展開だった。
「静真和花は悔いています。もう二度と、七年前のような失態は繰り返さないことをお誓い申し上げます。何卒、寛大なご処置を」
「許さんと言ったら許さん」
凛音が食い下がるも、神は動じない。
ここまで予想通りだと、残念ながら最悪の展開は免れないだろう。
「供物をご所望でしたら、近いうちに貢ぎ物を用意させていただきます。ですから――」
「くどいッ!」
神が怒鳴る。
「妾は許さんと言った。それでも許して欲しくば、この女を人身御供に捧げよと言った。選択肢があるだけでも感謝せよ。矮小な人間がいくら乞うたところで、神の言葉は覆らん」
まるで虫けらを見るような目で、神は傅く凛音を見下ろしていた。
覚悟を決めて、俺は凛音の傍まで歩み寄る。同時に凛音も伏せていた顔を上げ、立った。
「人身御供は、捧げません」
強烈な重圧を感じながら、俺は言う。
「縁解きの祟りを解いてくれるまで……俺たちは、貴女に抗います」
明確に抵抗の意思を示す。
すると、和花さんに宿った神は、口角を吊り上げた。
「くふ……くかかかッ!! なんたる無礼、なんたる蛮勇、なんたる蒙昧よ!」
盛大に笑いながら神は言う。
ふわりと、その黒髪が宙に浮いた。
大気が震え、足元の石畳が軋んだ。俺たちは神の怒りを買ったようだ。
「切っても切れぬ仲。決して解けぬ縁。ならば――根元から刈り取ってやろうッ!」
瞬間、神の両隣に巨大な水塊が現れた。
「水……ハナコさんが、言ってた通り……ッ!!」
眼前の光景に、俺はハナコさんに伝えられた話を思い出す。
菊理媛神は縁結びの神と呼ばれているが、それはククリヒメのククリが括る――つまり結ぶと解釈されているからだ。
だが、ククリの解釈は他にもある。例えば潜る――水に潜るという説だ。
この解釈から、菊理媛神は、水神と捉えられることもある。
「己が軽挙を悔いるがいいッ!!」
直径五メートルにも及ぶ水の玉は、神が両手を振り下ろすと同時に俺たちへと放たれる。
「先輩!」
降り注ぐ水塊を前にして、凛音は俺を守るよう前に立ち、五枚の札を重ねて掲げる。
札の前に鳥居のような紋様が展開された。直後、その鳥居が盾となって水を防ぐ。
「凛音!?」
「だい、じょうぶ……ですッ! 多少の攻撃なら、境界を区切って防げます!」
理屈は分からないが、凛音ならあの水塊を防げるらしい。
なら俺は、凛音を信頼して己の役割を全うする。
「先輩は前へ!」
「ああッ!」
水塊の防御は凛音に任せて、俺は和花さんに宿る神へと接近した。
飛来する水塊を凛音が素早く防御する。激しい水飛沫が飛び交う中、俺は少しずつ神との距離を詰めていった。
――近づけば勝機はある。
ポケットの中で小さく音を立てるソレに意識を傾けながら、俺は疾駆した。
「寄るな、人間風情が」
神が片手を俺に向けながら言った。
刹那、得体の知れない悪寒が全身を包む。
俺はこの悪寒を、知っていた。
「しま――っ!?」
プツリ、と糸が断たれたかのような音が聞こえた。
縁解きの祟りだ。神の哀れみは発動しなかった。
つまり俺は――――――――あれ?
「俺、は……?」
俺は、何をしているんだ?
湿り気を帯びた風が頬を撫でる。
屋外? 俺は今、外にいるのか?
ここは何処だ? どうして俺は、こんなところにいる?
「先輩、縁を……ッ!?」
背後から声が聞こえた。振り向くと、そこには背の低い巫女服の少女がいる。
少女は何故か、見開いた目で俺を見ていた。焦燥と驚愕。まるで最悪の異常事態を目の当たりにしたかのようなその表情に、俺もまた困惑する。
刹那。巨大な水塊が三つ、俺の頭上から降り注いだ。
「先輩!」
少女が叫びながら俺のもとへ駆けつけて、両手を前に翳した。
鳥居のような紋章が宙に浮かび、降り注ぐ水塊が弾かれる。
「な、なんだよ、これ……っ!?」
小雨のように降り注ぐ水に濡れながら、俺は尻餅をつく。
「お、おい! これ……どういう状況なんだ?」
何が起きているのかサッパリ分からない。戸惑う俺に、少女は薄ら笑みを浮かべて、
「……大丈夫です。先輩は、下がっていてください」
震えた声で、少女は言った。
「今度は、私が助ける番です」
水塊が次々と降り注ぐ。
少女は不可思議な力でそれを防ぎ、耐えていた。
「く、う……ッ!?」
まるで俺を庇うかのように、少女は俺の目の前で水塊を防ぎ続ける。正面に浮かぶ鳥居の紋章はピシリ、ピシリと音を立て、少しずつ亀裂が走っていた。
弱音を必死に堪えるその表情を見て……俺の心は強く揺さぶられた。
――俺は、この少女を知っている?
どうしてそう思ったのかは分からない。
ただ、目の前の少女からは、赤の他人とは思えない何かを感じる。
『可哀想に』
そうだ。
俺には、やらなくちゃいけないことがあった筈だ。
『哀れな』
助けたい人がいる。
守りたい人が二人いる。
きっと、そのうちの一人は――この少女だ。
『――助けてあげましょう』
耳元で囁きが聞こえると同時に、ぶわりと世界が揺らいだような気がした。自分を中心に不思議な力が伝播する。歪められた現実が……認識が、本来の形に修正される。
そうだ、俺は――。
「――凛音ッ!!」
この子も、守りたい。
決意を思い出した俺は、水塊に押し潰されそうな凛音を抱きかかえて飛び退いた。
「なにッ!?」
菊理媛神が目を見開いて驚愕する。
同じように、胸元の凛音も驚いた様子でこちらを見ていた。
「先、輩……?」
「悪い。もう大丈夫だ」
先程、俺が記憶を失った時の、悲しそうな凛音の表情を思い出す。
もうあんな顔はさせたくない。
「馬鹿な! 八百万の神が、どうして人間風情に力を貸す!?」
神が叫ぶ。流石にこれは神にとっても予測できなかった事態らしい。
戸惑う神へ、再び走り出した。菊理媛神は狼狽しながらもすぐに新たな水塊を用意する。先程よりも大きな水塊が三つ、同時に襲い掛かった。
水塊が頭上から迫る中、俺は和花さんと一緒にデートしたことを思い出す。
どうして、一度目のデートでは神の哀れみが発動しなかったのか。どうして、二度目のデートでは神の哀れみが発動したのか。
一度目と二度目の違い。それは――ハナコさんの電話だ。
二度目のデートが終わった後、俺はハナコさんと電話で話した。ハナコさんとの電話は、一度目のデートでは存在しなかったことだ。
あの電話自体に意味はない。
しかし俺は、あの電話を機に、和花さんは救うべき相手だと再認識した。
八百万の神々は、そんな俺の覚悟を感じ取ってくれたのだろう。
――神は見ている。
俺が、助けるに値する人間なのかを確かめるために。
――神はいつだって、俺の意志を試している。
だから、俺がその意志を示しさえすれば。
きっと今も、力を貸してくれる。
「俺は――」
迫る水塊に押し潰される寸前、はっきりと叫んだ。
「――和花さんを助けたいッ!!」
決意を露わにした刹那、背中から誰かに優しく支えられるような感触があった。
『助けてあげましょう』
神々の声が耳朶を打つ。
次の瞬間、降り注ぐ水塊が掻き消えた。
「貴様、まさか――天照大御神に哀れまれた人間かッ!?」
「だとしたら、なんだ!」
精一杯、地を蹴って神へと近づく。
「お、おのれ、恥知らずの神々め! このような人間に力を貸すなど!?」
巨大な水塊も、縁解きの祟りも、全てを八百万の神々が防いでくれる。
しかし、菊理媛神に肉薄する直前、心臓が激しく脈打った。
「つ、ぁ――ッ!?」
身体の奥底。心臓の辺りが何かに苛まれる。その痛みと苦しさは想像を絶した。
反動――儀式も供物も捧げずに、神の力を借りすぎると、俺の身体は人間のものから他のナニかに変貌してしまう。
だが、退けない。
――退くわけにはいかない!
あと一歩、進んだ先に、和花さんの未来がある。
思い出を取り戻し、思い出を作ることができる未来を、あの人に届けたい。
全身の痛みを無視して、俺は和花さんの肩に触れた。
「ひっ!?」
その肉体に宿る神は、目を剥いて怯えた様子を見せる。
「ち、近づいたところで、どうにもならんぞッ! 人間如きが、神である妾を傷つけることなど、できる筈もない!」
「最初から……傷つけるつもりなんて、ない」
怒鳴り散らす神に向かってそう告げると、俺はポケットからある物を取り出した。
それは昨夜、ハナコさんから渡されたものだった。
『結論から言うと、静真和花と菊理媛神は、ほぼ確実に和解できない』
ハナコさんは昨夜の時点で、この展開を予想していた。
あの時の会話を、俺は鮮明に覚えている。
『これまでの経緯から、菊理媛神……正確にはその分霊だが、とにかくこれが極めて狭量であると察することができる』
『狭量って……』
神に対しての評価ではない。あの時の俺は、そう思った。
『加えて、我々も準備不足だ。本来なら貢ぎ物の十や二十を用意するべきだが、先程も言った通り菊理媛神は狭量であるため、ちまちま準備をしているうちにまた祟りを起こされる可能性がある。このままだとジリ貧になってしまうと私は判断した』
実際、あの夜もハナコさんが急いで歪みを対処していた。
このまま行動を続けても後手に回ることは明白だった。
『よって――強攻策を用意した』
そう言ってハナコさんは、脇に置いていた木箱を取り出した。
箱の中には、不思議な形をした金属が入っていた。
『これは……』
『奈良の、天河神社から拝借した神器だ。いざという時はこれを使え』
渡された神器を見て、俺は不安を抱いた。
神事会の仕事は神との交渉である。しかしこれを使う時があるとすれば、それはもう交渉の範疇ではない。そんな俺の思いを見透かしてか、ハナコさんは口を開いた。
『悠弥。喧嘩も交渉のひとつだぞ』
そんなわけがあるか――と、あの時は内心で反論したが。
今は、そうかもしれないと思っている。
「和花さんッ!!」
その身に宿る神ではなく、その身の持ち主である人間の名を呼ぶ。
俺は和花さんの胸元に、神器を押し当てた。
「き、貴様、まさかこれは――」
こちらの意図を理解したのか、菊理媛神が焦燥する。だがもう遅い。
――五十鈴。
それが、神器の名だった。
岩戸隠れの伝説において、天鈿女命は、舞を用いて岩に隠れた天照大御神を外に出したという。この舞をする際に使用していた道具が五十鈴だ。三つの鈴が三角形に繋がっているこの神具を、天鈿女命は矛に取り付けて舞ったらしい。
凛音と同様、和花さんには天鈿女命との繋がりがある。しかし和花さんは菊理媛神によってその繋がりが上書きされてしまった。だから和花さんには、凛音と同じ天鈿女命の神痕ではなく、菊理媛神の神痕が刻まれていた。
なら――――元の繋がりが復活すれば?
神器、五十鈴は、和花さんが本来持っている天鈿女命の力を引き出すことができる。
「や、やめろ! 貴様ァッ!?」
菊理媛神の声を無視して、五十鈴を和花さんの身体へ押し込んだ。
――神器を用いて、和花さん自身の力を強化する。
それこそが、ハナコさんの用意した強攻策だった。
元々、和花さんの力は、菊理媛神が同格の存在と誤認するほど強かったらしい。
ならば、その力を更に強くすれば?
菊理媛神にとって、静真和花という人間が、本当の意味で同格の存在になれば――。
「ぐあッ!?」
分霊が悲鳴を上げる。
和花さんの腕に刻まれていた菊理媛神の神痕が、矛を象った天鈿女命の神痕に上書きされた。本来の神痕を取り戻した和花さんは、神々しい光を発しながら静かに目を覚ます。
――現人神。
それは人の身でありながら、神と同格になった存在のことである。
五十鈴によって、和花さんと天鈿女命の繋がりは一層強化された。元々、力が強かった和花さんは今、現人神の境地に達したのだ。
人間は神に敵わない。
だが、同じ神ならば敵う。
神と化した今の和花さんに、菊理媛神の祟りは通用しない。
「……貴女が、菊理媛神ですか?」
意識を取り戻した和花さんは、目を瞑り、胸元で手を重ね、まるで自分自身に問うかのような仕草を見せた。恐らく、まだ肉体には菊理媛神が宿っているのだろう。
「私に罰を与えることは構いません。ですが……貴女は私の大切な人たちにまで、手を出しました。それだけは、決して見過ごすことができません」
身体の中にいる菊理媛神へ、和花さんは訥々と語りかける。
「どうかお願いします。私のことはもう忘れてください」
和花さんは囁くように言った。
「でないと――――消しちゃいます」
ゾッとするほど冷たい声音で、和花さんは告げる。
それは今までの理不尽に対する、全ての怒りと恨みを凝縮したような一言だった。
暫くすると、和花さんは「ふぅ」と安堵の息を零す。
「……終わったみたい」
穏やかに微笑む和花さんに、俺は恐る恐る訊いた。
「祟りは、消えたんですか?」
「うん。……私がプレゼントしたデジカメ、大切に使ってくれてありがとう」
デジカメを貰ったのは、俺が祟りを無効化できなかった一週目のことだ。
和花さんの記憶が戻っている。
なら、今まで解けていた他の縁も――――。
「りん」
和花さんが、凛音の方を見て言う。
凛音は、涙を流しながら蹲っていた。
失っていた記憶を取り戻したのか、凛音は目を大きく見開いて、和花さんのことを見つめる。
「姉、さん……?」
「うん」
本当に、姉さん……?
うん、そうだよ。
「姉、さん……っ」
「うん……っ」
ああ、本当に姉さんなんだ……。
うん、そうだよ。
凛音の中で、疑いが、不信が、諦念が、崩れていく。
和花さんはそんな凛音のことを、ただじっと見つめていた。
「あ、あぁ、あぁ、あぁああぁあ、ぁああぁああああぁあああぁ……っ!!」
凛音は、大粒の涙を流しながら和花さんに抱きついた。
「姉さん…………姉さん、姉さん……っ!!」
「りんっ! りん……っ!! りんっ!!」
強く抱き合う二人は、まるで今まで呼べなかった分を取り戻すかのように、何度も何度も力強く互いの名を叫び続けた。
もう二度といなくならないで、と。
まるで祈るかのように――――。