クロティルダ――我が人生の光3
私の態度は悪かった。絶対に非を認めなかった。
それはそうだろう。事もあろうに、姉上を侮辱されたのだ。むしろ、あれくらいで済ませてしまって甘かったかとすら思っていた。
丸腰の相手に聖剣で襲い掛かったことについては、卑怯にも六対一で囲まれたことと、騎士の風上にも置けぬ彼らの振る舞いとで相殺、もしくはそれでもまだおつりが来ると思っていた。
私の引き取りに現れたのは姉上だった。
普段は後ろでひとつにまとめているだけの黒髪を美しく結い上げ、女性用の外出着を着ていたせいで、一瞬誰か分からなかった。
気軽に弟を迎えにきたという雰囲気ではない。
だが、頭に血が上っていた私は、現れた姉上に対し、噛みつかんばかりの勢いで一方的にまくし立てた。
――私は何も間違ったことをしていません。姉上への侮辱を見過ごすことなど出来ません。
――ドゥミリューヌを鞘から抜いてもいません。急所も外しました。
――万死に値する罪を犯した者たちに対し、私は寛大過ぎるくらいだったと思います。
私が何を言っても、姉上はただ、黙って私を見下していた。
姉上の手が頬に伸びる。
私は反射的に身を竦ませたが、その手は私を打つことなく、悲しげに触れただけだった。
「……ッ、姉、上」
私は赦されたような思いで、姉上の手に頬をすり寄せた。
――行くぞ。
姉上は女装していることなど忘れたように、男らしく顎でくいと扉口を指した。
私は慌てて姉上を追って反省室を出る。
――ああ、鬱陶しい……。
外に出るなり、学友たちの獰猛な視線が姉上に絡みついた。
そうだ。こういうことになってしまうのだ。
普段は男の形をして颯爽と領内を歩き、若い娘に「やあ」と気軽に手を振り返す姉上が、今は完璧な淑女の恰好で、むさ苦しい場所をしずしずと歩いている。
姉上はご自身が女性であることも、とびきりお美しいこともまるで自覚がなかった。
男だらけの場所に、このような姿でいらっしゃるなど、あまりに無防備だった。
――見るなッ! それ以上姉上を見る者は、私が成敗してくれる……ッ!
私は悪い虫たちの視線から姉上を庇い、彼らを睨みつけて牽制した。
馬車の中でも、姉上は一言も言葉を発しなかった。
恐らく、怒っているのだろう。
だが、この件に関しては、私も一歩も引く気はなかった。
帰宅後は、鍛錬場に向かう姉上に何となくついていった。
姉上は着替えることもなく、そのまま女装姿だったから、姉上が扇を取り出した時も、私はまだ何が起こるか分かっていなかった。
鈍銀の扇が空を切った。
「あっ、姉上! お止めください!」
目にも留まらぬ速さで振り下ろされた扇を、私は咄嗟に出したドゥミリューヌで受けた。ドゥミリューヌをもってしても、防ぎ切れぬほどの魔力が衝撃の波となって私の全身を打つ。姉上は凄まじい速さで二手、三手と繰り出してきた。
いや、ちょっと、待っ――。
「いけません、姉上、おみ足がッ……!」
乱れた裾から輝くようなおみ足が見え、私は咄嗟に顔を背けた。
淑女は夫以外の男に決して足を見せない。
男の足とは明らかに違う、すらりと美しい淑女のそれは、私がおいそれと見ていいものではなかった。
姉上が構わず跳び、再び裾が膨らむ。
ひらひらのフリルの海に埋もれた、美しいものが惜しげもなく露わになった。
「姉上ッ、どうか……」
私は必死で目を逸らしながら懇願した。見てはいけない。事は姉上の名誉に関わる。だが、完全にキレている姉上は意にも介さない。殴打の嵐は一向に止まず、姉上が弾む度、ふわりと場違いなほどスカートが優しく膨れ上がる。
――駄目だ、このままでは。
姉上はお強い。このままでは私は早々に致命傷を受ける。うろたえている場合ではなかった。落ち着いて、上半身、腕と目線にだけ集中を――。
とろりと滴るような、葡萄酒の色の瞳はいつもより色が濃く見えた。
涙の幕が張っていて。
――姉、上……。
潤んだ瞳でしかと私を睨みつけ、銀鈍の扇を駆るライスターの戦女神は、息をのむほど気高く美しかった。
「あれしきのことで、領民を打つか」
わななく唇から絞り出された低い声が、千の扇の打擲よりも私を打った。
「お前は何故、身分を隠し、ライスターに身を潜めているか忘れたか。あのようなことをして、正体が露見すれば何とする」
姉上は泣いていた。
いつも冷静な姉上が、私のせいで泣いていた。
綺麗な涙をぽろぽろとこぼしながら、姉上はひたすらに扇を振り下ろした。
叱責されている身の私は当然、一度も反撃しなかったが、姉上はどうしたことか、それが気に入らないようだった。
重く、苛烈で正確な、渾身の一撃が飛んでくる。
私は姉上の扇を弾き、その場に跪いた。
私がしなければならないことはそれしかなかった。
「――もう二度と、姉上を失望させません」
何と軽率だったのだろう。
姉上の騎士になりたくて。
あなたの騎士だと思い上がって。
だが、姉上への許し難い侮辱と思われたことは、姉上にとってはあれしきのことでしかなかった。
「あれしき」のことの為に、皆が腐心して隠そうとしていることを、自ら晒すような真似をした私はどうしようもない愚か者だった。
「……ジュールズ」
姉上は私の正面で膝をつき、私の頬に手を伸ばした。
怯える小さな獣のように、私はびくりと震える。
姉上が私の頬を撫でた。
「ありがとう、私の為に」
「あね、うえ」
――嫌われてはいない。
私は思わず、私の頬に触れている姉上の手を、上からぎゅっと握り込んだ。
「でもね、どんな理由があろうと――」
「分かっています! 今の私は、もう分かっていますから、何も言わなくて大丈夫です……!」
それ以上言わせたくなくて、私は勢いのまま姉上を抱き寄せた。
「姉上……」
いつ以来だろう、こんなに体が触れ合うのは。
姉上の体は腕の中で溶けてしまいそうに柔らかく、抱きつくことが許されていた頃の記憶よりもまだ華奢で、少し力を入れれば折れてしまいそうだった。
え……そうなんだ……。
その事実は私を陶然とさせた。
今の私なら、姉上をこのまま、どうとでも出来る……。
「ジュールズ――」
「分かっています。ですが、もう少しだけ」
そう言ったものの、これ以上抱きついていてはまずいという自覚があった私は、最後に一度だけ強く抱きしめて、すぐに姉上を離した。
「姉上、お手に口づけを」
ほっそりとした手の甲に唇を当て、永遠の愛と忠節を捧げる。
――もう二度と、あなたをあんな風に泣かせません。
私は姉上を立ち上がらせ、部屋までエスコートした。
愚かな雛鳥のままでは、姉上の隣に立つ資格はない。
私は今こそ、はっきりとそれを悟ったのだった。
この日を境に私は生まれ変わった。
私は怪我をさせた者たちの邸宅を回り、彼ら一人一人に頭を下げた。
丸腰の相手に剣で襲い掛かった以上、一発や二発殴られるだけではすまないだろうと思っていたが、意外なことに、彼らからもまた「悪かった」と謝罪を受けた。中には跪き、姉上への侮辱を涙ながらに詫びる者もいた。
――姫様に顔向けが出来ない。
――姉上は気にしていない。今後はお前の強さと闘志が、ライスターを守ることに向けられるなら、それでいいとおっしゃるだろう。
他人に高邁たれと求める以上、自ら率先してそう振る舞うのは当然のことで、これ以降、私は常に騎士道を体現する者として振る舞った。
のらりくらりと生き延びることだけを信条としていた、後ろ向きで無力な子供はもういなかった。
母上様がつけてくださった先生方の教えを受け、社交の場で必要となる教養や話術、身のこなしを学んだ。
領地運営は机上の学問だけでは出来ない。社交も出来るに越したことはなかった。
ひとつ、役得があった。
練習にかこつけて、姉上にダンスのお相手をしていただけたのである。
姉上は普段の恰好もお美しいが、女装姿もまた格別だった。
姉上の体が、実は壊れそうなほど華奢で柔らかいことはもう知っていたから、私は細心の注意を払って姉上を優しく抱いた。
「……姉上?」
私の腕の中で、姉上は「はて?」という顔をしている。手の位置とか力加減とか、何かおかしかったのだろうか。
「何でもない」
「おっしゃってください」
「……大したことでは」
「駄目です、言って」
黙っていられる方が気になる。このままでは夜も眠れなかった。下手なら下手で、はっきりそう言ってほしい。
姉上は途方に暮れたようにぼそりと言った。
「女性扱いされているみたいで、落ち着かない」
何を言っているのだ、この人は。
「女性扱いはします。姉上は女性なので」
私の至極もっともな応えを聞いた姉上はぱっと赤くなり、私は胸のど真ん中を射抜かれた。
どうしてここで赤くなってしまわれるのですか。私の心臓が持たないです。
可愛過ぎて直視出来ず、私はさりげなさを装って視線を外した。
姉上は私をこんなにもふらふらにさせておきながら、鍛錬の時と変わらず、無駄のない美しい動きでステップを踏んでいた。
「踊りやすい」
最初から何となくそう思っていたが、それが確信に変わった時、私は思わず呟いていた。
「気のせいじゃない。姉上とは、とても踊りやすいです」
私たちはやはり、運命の相手ということで間違いないのではないだろうか。互いにこの世でたった一人、唯一の存在。
思い返せば、私たちは出会いからして、まるで何かに導かれるかのようだった――。
「ああ、それは……。私は男性のパートも踊れるから、どうすれば男性側が動きやすいか、何となく分かるからかな……」
もう……。せっかくいい気分だったのに……。
「何故男性のパートが踊れるのですか」
「領の娘たちが、やたら私と踊りたがるものから、それで……」
理由があまりにも姉上らしくて、私はつい噴き出してしまった。笑うなんて、とむくれる姉上に詫び、私は少し際どい距離まで顔を近づけた。
「――てっきり私と姉上の相性が良いからだと思ったのに」
戯れめいたことを仕掛けた理由は、自分でもよく分からなかった。
普段は許されていない、この距離の近さに酔ったのだろうか。
それとも、今日の姉は何となく、私のことを男と意識しているような気がしたからだろうか。
――姉上、これは私の自惚れでしょうか……?
「ああ、それはあるだろうね。お互いに気心が知れているし」
ああそうですか。
姉上の中ではどうあっても、私は「弟」でしかないようで、つれない答えに私は苦笑するしかなかった。
いいです、もう。結婚してからで。
たとえ今は弟としか思えずとも、さすがに結婚相手ともなれば、男として意識せざるを得ないだろう。
ライスターへの婿入りは、私の中では決定事項だった。
既にドゥミリューヌとの話し合いも済んでおり、彼女はダルメス王の許へ還ることに同意している。
今の私は学業成績も良く、母上様がつけてくださった先生方からの評判も上々、剣の師であるガルバレク先生からも、「紛うかたなきライスター男であるッ」とのお墨付きをいただいていた。
もう、求婚してもいいだろう。
条件だけ見れば、断られる理由はなかった。年齢こそ私が三歳下だが、この程度ならどうということはない。私が十六歳で姉上は十九歳、私の歳で婚姻を結ぶ男は皆無ではないし、姉上はそろそろ婿取りをなさる年頃だった。
――次の試験でカスパーを抜いたら、その答案を手に求婚しよう。
私はまだ一度もカスパーを抜いたことがなかったから、これは私がつけなくてはならないけじめだった。
試験に向けて黙々と勉強に励む私を見、姉上は優しく目を細められた。
「何て立派になったのだろう、と姫がうっとりしておられましたよ」
グザヴィエの報告が私をますます燃え立たせた。
その後に続いた「子供の成長って、本当に早いね……」という姉上の言葉を、グザヴィエが省略したことは知らなかった。
そして迎えた試験の日、やるだけやった私は平常心で答案に臨んだ。
手ごわい設問もいくつかあったが、カスパーと毎日勉強していた私にとっては、解きほぐせないほどのものではなかった。
答案が返ってくるまでは、少しだけ落ち着かなかった。
今までのどんな試験よりも手応えを感じていたが、カスパーを超えたかどうかまでは分からなかった。
――ねえ、姉上。超えていたら、くださいますか。
やがて試験の結果が発表され、全問正解者として告げられたのは、私とカスパーの名だった。
私とカスパーは肩を抱き合い、互いの健闘を称えた。
――超えられなかったが、これはもういいだろう!
私は答案を手に勇んで帰宅した。
緊張と期待に胸躍らせて、扉を開いた瞬間。
「――お戻りになりましたか!」
私の目に飛び込んできたのは、ホールに整然と並んで佇む、見覚えのある黒い僧服の群れだった。
「ドラージュ公、お久しぶりでございます」
これは現実のことだろうか。私の前に進み出た男が、私のものではない称号で、にこやかに私を呼ぶ。
私の目の前に立っているのは、かつて幼い私の手を押しとどめ、守護者に据えたあの美しい男だった。