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クロティルダ――我が人生の光2

 私はそれと自覚せぬまま、姉上の虜だった。


 お姿が見えなければうろうろと探し、鍛錬場で見つければその勇姿に見とれ、お隣に座った時は撫でてもらおうと頭を差し出した。


 ――ジュールズ、肩車をしてやるぞ。ほぉらどうだ、高いだろう。

 ――ジュールズや、こちらへ。母が御本を読んであげましょう。

 ――ジュールズ、天気がいいから遠乗りしない?


 私の身を守る為にひねり出した設定に従い、ライスター家の人々は、内でも外でもごく自然に、私を家族の一員として扱った。


 美しいあのひとを姉上と呼び、おそばにまとわりつくことを許された私は、小さな陽だまりを見つけたような、幸せな日々を送っていた。


「おみ足ももう癒えた頃でしょう、そろそろ鍛錬を」と言い出すグザヴィエを「そのうち」とあしらい、暖炉の前で猫を撫でながら、私はどうにか穏便に、守護者の地位を返上できないものかと頭を悩ませていた。


 守護者なんて正直、手に余る。今でも何かの間違いとしか思えないし、やりたい者がいるのならば、その者がやればいいだろう。


 私の望みはたったひとつ、目立たず騒がず、のらりくらりと生き永らえて、無事に天寿を全うすることだけだった。


 それは、ダルメスのように、一皮むけば中身はドロドロな大国で、傍系王族という微妙な立ち位置の家に生まれ、特に野心も才もない者が皆、共通して持つささやかな願いだった。


 大望を抱かず、危うきに近寄らず。


 ただ息を潜めて、平穏な日々を大切に過ごし、最期は穏やかに。


 だが、そんなものは今や、私には手の届かぬ贅沢となりつつあった。


 ダルメスから凶報がもたらされたのは、そんな折だった。


 唇を引き結び、険しい顔で私を部屋に招き入れたライスター辺境伯は、「お掛けに」と言葉少なに告げた。


 彼が指したのは長椅子で、私の隣に姉上が寄り添えるようにとの配慮だった。


 その心遣いには今でも感謝している。


 この時、私に告げられたのは、私の両親の死だった。


 私の自宅が賊の襲撃を受け、そのせいで両親が亡くなったのだという。


 賊の正体は不明で、父母がどのように亡くなったのかということも、未だ分かっていないということだった。


 傍系とはいえ王族として生まれた以上、父母をこのように失うことも、私自身が命を失うことも、当然心構えが出来ているつもりだったが、その時私を襲った衝撃は想像以上だった。


 見苦しく泣き崩れることこそしなかったが、涙を抑えることは出来なかった。


 どうして――。


 王が欲しいのは私の命ではなかったのか。何故父母が命を奪われなくてはならなかったのか。


 姉上が私の代わりに憤ってくださっていた。


 辺境伯は詳細が分かれば知らせると言ってくれた。


 捧げられた哀悼の意に謝意を表し、あてがわれた自室に戻った私は、床にしゃがみ込んで泣きじゃくった。


 こんな風に、失うなんて。


 命の危険に晒されているのは私であり、父母は大丈夫なのだと思い込んでいた。


 一人でうずくまって泣いていると、姉上の命を受けた侍女が遠慮がちに顔を出し、湯を用意したと告げて、私に湯浴みを促した。


「お体を温めるようにと」


 首を振って断ると、「姫様が是非にと。体を動かすのが億劫なら、姫様が浴槽までお運びし、その後のお世話もする、と」


 姉上の驚くべき申し出を断り、私はのろのろと浴槽に向かった。好いたお方に体を見られるくらいなら、何も考えずに従う方がましだった。


 温かい湯に浸かり、ぼんやりと前を向いていると、「ジュールズ、入るよ」と姉上の声がした。


 咄嗟のことで、私は為す術もなく姉上を迎え入れた。


 姉上は私の顔をじっと覗き込み、私の髪を掻き上げて額に口づけた。


「どう? 何か食べられそう?」


 途端に空腹を感じ、私は「はい」と答えた。


 姉上はほっとした様子で私の両頬を挟み、「分かった」と言って出ていった。


 湯から上がると、柔らかく煮潰した米のスープと姉上が私を待っていた。


 私は姉上に見守られながら、温かいスープを完食した。


 ――ジュールズ、今夜は一緒に寝よう。


 この日、私は姉上にいざなわれ、姉上と夜をともにした。


 ほっとするような姉上の匂いに包まれ、つい気を抜いてしまった私は、よりにもよって姉上の前で、幼子のような振る舞いをしそうになり、慌てて姉上の部屋を辞そうとした。


「駄目だ」


 温かい手が私を絡め取り、私は姉上の寝台に押し倒された。


「こうしよう」と姉上の声が上から降ってくる。


「私は君に背を向けて寝る。君は背中同士でぴったりくっついてくれてもいいし、私の背中を涙と鼻水でぐちゃぐちゃに濡らしてくれてもいい。それしきのことで私は風邪など引いたりしないから。もし向かい合わせになりたければ、こっちを向いてとお言い。……いいね?」


 薄闇の中、滴るような葡萄酒の色の瞳に射すくめられ、私は返事も出来なかった。


 姉上が宣言通り、私に背を向けて横になる。


 私は姉上のご厚意に甘え、おずおずと背中同士でくっついた。


 すぐに物足りなくなり、姉上の方に向き直って、姉上の背に額を当てる。


 それでもやっぱり寂しくて、私は姉上の腕を引いた。


 姉上はもうほとんど眠っていたが、私に腕を引かれるまま、私の方へ寝返りを打ってくださった。


 胸元に触れぬよう気をつけながら、私は姉上の腕の中に潜り込んだ。


 すぐそばで姉上の魔力が穏やかに揺れている。


 その波に身を委ねているうち、私はいつしか眠りに落ちていた。


 こうして私たちはそのまま朝を迎えた。


 ――これはやはり、そういうことになるのだろう……。


 女性と同衾してしまった、ということに気づいたのは、それからしばらく経ってからのことだった。


 こういう時は責任を取らねばならぬ、ということは何となく知っていたから、ふりだけでなく本当に姉上を娶るのだ、と意識し始めたのは多分この頃だったと思う。


 グザヴィエには私の秘めたる恋情などすっかりお見通しだった。


「クロティルダ姫の婿になる方って……」


 凄まじい勢いで振り向いた私に、彼は淡々と言った。


「やはり最低でも、あの方よりお強い方なんでしょうねぇ……」


 絶対そうだと思った。姉上の隣に立つ男が姉上より弱いだなんて、ご本人どころか全ライスターが納得出来まい。


 私は人が変わったように、猛然と剣に打ち込み始めた。


 努力や頑張りは嫌いだったが、姉上は娶らねばならないし、その為には姉上より強くなるしかない。


 これまでの人生において、形ばかりしか剣を嗜んでいなかったことがつくづく悔やまれたが、グザヴィエは根気よく私に付き合い、一から鍛え直してくれた。


 この頃、私が使っていたのは、騎士見習いの少年たちが持つ練習用の剣だった。


 ――しばらくはそれで。ドゥミリューヌが顕現したら、ドゥミリューヌのみをお持ちください。

 ――いつ顕現するの?


 いろいろ大変だったこともあり、すっかり忘れていたが、聖剣は私の体に吸い込まれて久しかった。


 ――そうですね……。あなたの場合ですと、あなたの身長がドゥミリューヌの全長を超える頃でしょうか。


 言われてみれば、かつて岩から引き抜いた時、「長いな……?」とは、私も思ったのだった。


 これは大人の男でも扱うのが大変ではないか、と他人事のように思ったことが、今ではもう遠い過去のようだった。


 猛特訓の甲斐あって、何とか私の恰好がつくようになると、グザヴィエは私を新たな師に託した。


 生ける伝説と呼ばれている老剣士で、愛する姉上の指南役も務めている方である。


 師は遠慮がちにグザヴィエに尋ねた。


「本当に、よろしいので……?」


 私の見た目があまりにひ弱そうなので、師は躊躇していた。


 グザヴィエは力強く師の手を握り、太陽のように微笑んだ。


「構いません。どうか、ひとかどのライスター男に仕上げてやってください」

「――承知ッ」


 その言葉の何が師の琴線に触れたのか分からなかったが、師は俄然やる気をみなぎらせ、グザヴィエの手を握り返した。


「ライスター男の名に恥じぬ、強い男に育ててしんぜようッ!」

「はいッ!」


 私とグザヴィエは跪き、師に深々と頭を垂れた。


 地獄のような日々の始まりだった。


 グザヴィエも容赦なかったが、敬愛する師もまた、こと剣に関してはグザヴィエに輪をかけて容赦なかった。


 以前の私なら、とっくに投げ出しているような過酷なしごきに、私は歯を食いしばって耐えた。


 姉弟子となったお方もまた、私のそばで日々鍛錬に励んでいた。


 控えめに言ってもライスターで五指に入るという、姉上の身のこなしは圧巻だった。


 動きに一切の無駄がなく、体は水中を自在に泳ぐ美しい魚のよう。


 ほれぼれするような跳躍と着地、そして高速の回転は、まるで人ならぬ戦女神の舞を見るようで、私の中で憧憬と焦燥が二つながら激しく渦を巻いた。


 この方を超えなければならないのだ。


 この速さ、流れるように無駄のない、美しい動きを。


 超え……られるか……?


 聞くところによると、姉上は僅か十二歳にして、単身、魔獣を討ち果たされた経歴の持ち主だという。これはかつて辺境伯が打ち立てた、十三歳という大記録を抜いて、現在ライスターの最年少記録ということだった。


 こんなもの、ライスターどころか大陸全体ですら最年少記録ではないだろうか。


 姉上ご愛用の鉄扇を持たせてもらった時、あまりの重さに不覚にもふらついたことがある。


 あの細腕に隠された腕力と、常態で体に循環させている魔力の凄まじい安定感に、私は戦慄を覚えた。


 持ち替えるのが面倒という理由で、鉄扇そんなものを普段使いにしている姉上は恐ろしい人だった。


 そういう、ちょっと雑なところも愛おしく思っておりますが。


 普段の姉上は快活で、情に厚く、優しい人だった。


 私のことを「弟」として、大変可愛がってくださった。


 私は自身の立場を最大限利用して姉上にまとわりつき、何かと理由をつけてはご褒美をねだった。


 例のあれだ。


 ――あ、あとで――。

 ――ごほうび……りがと……。


 本当は知っていた。


 姉上が想定していたご褒美が、実はあれではなかったことも。


 無理な体勢から頬に口づけようとして、何かの拍子でああなったことも。


 姉上は今更違うと言うこともなく、私がねだる度、可愛い困り顔で口づけをくれた。


 どうしよう……姉上のお可愛らしさについてなら、私はいくらでも語れてしまう。


 姉上は甘いものがお好きで、討伐や鍛錬の後などはうっとりと生クリームを召し上がるのだが、そのご様子がまた、殊の外無防備で可愛らしかった。


 見ているこちらが癒されるというか。


 本当に体が欲しがっていて、素直にそれを取り込んでいるのがよく分かる食べ方だった。


 私は鍛錬の前だろうが後だろうが、甘いものが欲しくなったりはしないので、どうしてそんな風になるのか不思議だった。


 ちょっと、搔き立てられる。


 男の体はそんな風に出来ていない。鍛錬の後で欲しくなるのは別のものだ。


 ありていに言えば姉上だった。


 この頃には、姉上から「もうご褒美はあげられない」と言い渡されるくらいには私も育っていた。


 あれはショックだった。


 控えめに言って、血涙が出るかと思うくらい悲しかった。


 私からすれば、いつになくしっとりと口づけられ、「おっ? これは……」と思った矢先に梯子を外されたようなものだった。


 ――お前をいつまでも子供扱い出来ない。

 ――してください。私は姉上の弟なのですよ。

 ――でも、お前は赤くなっている。私を異性として意識したんでしょう?


 私は当然反発したが、逆に痛いところをつかれ、ぐうの音も出なかった。


 私はもう、誰が見ても、ここに来たばかりの頃の小さな子供ではなかった。


 いつの間にか顕現していたドゥミリューヌは手に馴染み、弱く頼りなかった体はそれなりに締まり、そして、ここが一番大事なところなのだが、私はそこそこ強くなっていた。


 あなたまで、もう少し――。


 かつては永遠に届かないと思われた姉上の背中は、あとほんの少し手を伸ばせば、指先がぎりぎり触れるくらいのところまで来ていた。


 姉上、姉上、愛しています。


 もうすぐ届きそうだと思った途端、思いが抑え切れなくなる。


 鍛錬場で端然と扇を構える姉上。


 ただ廊下を歩いているだけの姉上。


 眼差しが勝手に姉上を追う。


 そこに罪深い欲が混じる。


 あまりにも見過ぎていたせいだろう、ある時、私の視線に気づいた姉上が意味深に微笑み、すれ違いざま耳元で囁いた。


「いつでも」


 ――いつでも⁉


 その瞬間、私の理性は焼き切れた。


 物陰に引きずり込んで抱きつこうとした私は、「コラ」と扇で軽く頭を打たれた。


「いつでもとは言ったけど、それはあくまで鍛錬場での話だ。こんなところで私たちが打ち合ったら、通りがかりの誰かに怪我をさせてしまうかもしれないでしょう?」


 私は一瞬で私の恥ずべき勘違いを悟った。


 姉上はご自身の言葉も足りなかったというようなことを言ってくださったが、悪いのはすべて私だった。


 私は謝罪し、走って逃げた。


 穴があったら入りたかった。


 この日以来、私はすべての邪念を振り払うように、一層剣に打ち込んだ。


 他のことはどうでもよかった。どうせ頑張ったところでご褒美ももらえないし。


 だが、生真面目な姉上は、剣以外のことを思い切り疎かにしている私を見過ごすことが出来なかったようだった。


「もう少し身を入れて勉学に励め」

「不要です。男は強ければそれでいい」


 学校の仲間たちも皆、口を揃えてそう言っていた。ライスター男、かくあるべし。


「姉上だって、婿に選ぶのは姉上より強い男でしょう?」


 グザヴィエの推測のみならず、私は長じるにつれ、この手の噂を実にいろんなところで聞いていた。


 断言出来る。全ライスターがそう認識していた、と。


 私は一応、姉上の婿候補と目されていたから、「姫様より強くなれるよう頑張れよ」とよく激励されていた。


「いや? 私より強くなくていいから、勉学のできる者がいい」

「何ですって⁉」


 それは足元から地面が崩れ落ちるような衝撃だった。


 姉上は淡々とした口調で、領を力で守っていくのは姉上ご自身であること、それ故に夫となる者には経営や兵站の方を任せたいと思っていることなどを話してくれた。


「そん、な……だって、姉上は……」


 当のご本人にここまではっきりと否定されているにもかかわらず、私はその事実をすぐに受け入れることが出来なかった。いや、でも、だってグザヴィエは。それに城の内外でうんざりするほど聞いたあの噂は。


 違う、と私は力なく首を振った。


 噂はあくまで噂でしかなく、グザヴィエとて、そうなのではと仄めかしただけだった。要は何かにつけて私を鍛えようとするあいつ(グザヴィエ)の思惑に、まんまと私が乗せられただけだ。いつかその時が来て、私が厄災に立ち向かわざるを得なくなった時、私があっさり負けてしまわぬように。


 私は人が変わったように、血眼になって勉学に励み始めた。


 とある騎士家の次男坊で、ライスター男のくせにやたらと勉強が出来る者がいて、名をカスパーというのだが、私が警戒すべきライバルは目下のところこの男だけだった。後は有象無象である。私はライバルにすり寄り、勉強を教えてもらった。


 彼は普通にいい奴だった。


 ――ありがとう、勉強を教えてくれて。

 ――ううん。僕もジュールズに教えることで理解が深まったし。こっちこそありがとう。


 姉上はカスパーに興味津々だった。


 ――今度うちに連れておいでよ。お菓子でも――。

 ――入り婿候補として品定めする気ですかッ!


 それだけは駄目だった。二人を会わせたが最後、姉上は間違いなくカスパーをお気に召す。


 姉上は私の剣幕に驚き、そんなことはしないと否定してくださった。


 難しい年頃と思われたのか、しばらく腫れ物扱いだったが、姉上は帰宅後もこつこつと宿題に励むようになった私を、優しい笑顔で見守ってくださった。


 姉上、姉上、待っていてください。私はいつか必ず、カスパーを追い抜いてみせますから……!


 だが、姉上がこのように喜んでくださっていた一方で、私の変節が面白くなかった者たちもいた。


 普段から私とつるんで遊んでいた仲間たちである。


 急に付き合いが悪くなったかと思えば、あれほど軽んじていた勉学に励み出したのだから、裏切られたような気分だったのだろう。


 今なら分かる。互いに子供だったのだ。


 とある日の午後、カスパーの待つ自習室へいそいそと向かっていた私は、彼らに行く手を阻まれ、ぐるりと囲まれた。


「何か用か」

「別に」


 そう言いつつも、彼らは道を開けようとはしない。


 そうして、嘲るように口を開いた。


 私が姉上を崇拝していることは周知の事実だったから、私を不快にさせたければ、何をすればいいのか、皆知っていた。


「――男女で何が悪いかァー!」


 恐らくはまだ続く予定であった姉上への侮辱を、私はそれ以上言わせなかった。


 私の手にはドゥミリューヌがいつの間にか顕現していて、私は雄叫びを上げて彼らに突進していった。

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