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クロティルダ――我が人生の光1

 ――なんてうるわしいひとだろう。


 それが第一印象だった。


 すべてが色褪せた世界でただ一人、かくも瑞々しく鮮やかな。


 ――君は今、生きていることを誇れ。


 生きているということを……?


 馬鹿な。だけど、あなたがそう言うのなら。


 優しい笑みと、鼻先をつつく細い指。


 ――ご褒美をあげる。


 その後の、「しまった」という顔。


 綺麗でひんやりとした見た目に似合わず、あなたはちょっとうっかりさんで。


 果樹園で食べる焼き菓子のように、胸をくすぐる匂いがして。


 唇は甘かった。






 不吉な十六の年巡り、大いなる厄災あり。聖剣に選ばれし者あり。彼の者、聖剣もて厄災を退ける。


 王家の聖剣に光が宿り、月が翳った。


 これより七年の後、厄災が発生するという、それは啓示だった。


 十六の年を十六巡り。前回から数えて、実に二百五十六年ぶりのことだった。


「守護者」なる者を選び出す為の儀式が行われることになり、うっすらとでも王家の血を引く十歳以上の男子が全員、王家の谷に召集された。


 守護者となりし者、これより七年の歳月をかけて、聖剣と心を馴染ませ云々かんぬん。堂々とした押し出しの、美麗な男が何か説明していたが、正直無関係だと思っていた私は彼の言葉をぼんやりと聞き流していた。


 だってそうだろう。この私――ゲリュオネス・ユーグ・ジュールズ・クラメールは、ここにいることが恥ずかしいくらいの傍系で、しかもほんの数日前に十歳になったばかりだったのだから。


 言っても詮のないことだが、もし後ひと月でも聖剣の報せが早ければ、私は召集されずに済んだのだ。


 だが、十歳ともなると、さすがにそんなことを顔に出すほど幼くもない。私は神妙な表情を浮かべ、皆とともに大人しく列に並んでいた。


 武装神官の立会いの下、集められた者たちが、聖剣を引き抜けるかどうかを順に試していく。古今東西、本命は最後に登場すると決まっているから、試す順は子供と老人と血の薄い者が先、直系になればなるほど後だった。


 私は二番目という驚異の早さだった。正直、自分の番が終われば帰りたかったが、最後まで残って結果を見届け、選ばれし「守護者」――勿論、直系王族の誰かであろう――に惜しみない拍手と賛辞を贈る義務があることは承知していた。


 聖岩、と神官たちが呼ぶ、何の変哲もない岩に突き刺さっている白銀の剣の柄を持つ。凝った装飾が綺麗だと思った。意外と握りやすい――あ。


 柔らかなバターから引き抜くように、剣は滑らかに動いた。


 子供ながらにまずいと思った。


 一瞬固まってしまったものの、私は出来る限り自然な風を装って、剣を元に戻そうとした。


「――聖剣は守護者を示した」


 この場を仕切っていた美麗な男が高らかにそう宣言し、剣を戻そうとする私の手を押しとどめた。


 私はうろたえて咄嗟に視線をさまよわせた。


 妙に安定感のある、細身の黒髪の男と目が合って、私は「助けて」と心の中で念じたが、彼は静かな佇まいを崩さなかった。


「さあ。最後までお抜きなさい」


 美麗な男にがっちりと肩を抱かれ、逃げ場のない私は半べそをかきながら、嫌々聖剣を引き抜いた。


 は……と思わず声が漏れるほど、美しい刀身だった。


 ゆらゆらと淡い光をまとい、半ば透き通った刀身にも、柄の部分と趣きをいつにした精巧な文様が刻まれている。全長は私の想像を超えて長かった。これは大人の男でも扱うのが大変ではないかと他人事のように思う。


現世うつしよに戻る時来たり。汝を手にする者、汝の契約が選びし器。聖剣ドゥミリューヌ、守護者とともにあれ」


 私の背丈ほどもある長剣が、見る間に光の粒となり、私の体の中に吸い込まれていく。


「えっ、何これ。どうして」

「ご安心を。これは聖剣があなたを守護者と認めた証です。これから七年の年月をかけ、あなたはドゥミリューヌと心を通わせ、体の一部のように馴染ませてゆくことになります」


 彼の言っていることがよく分からなかった。


「七は聖なる数であり、守護者と聖剣に大いなる力を与えます。忌み数である十六に対抗する、最強の数でございます」


 丁寧な説明だったが、私の疑問はそこではなかった。そうではなくて、剣と心を通わせるとは一体? 変なものが体に入ったけど、これ本当に大丈夫? 取り出したいんだけどどうすればいい?


 私の疑問は尽きなかったが、まずもって、どうして私なのかということが一番分からなかった。


 私の疑問をよそに、美麗な男はさりげなく私の前に立った。


 気づけば周囲の空気が痛いほど張りつめている。


 私は大人しく彼の背の後ろに納まりつつ、彼のローブの陰からこっそりと辺りの様子を窺った。


 ひやり、と氷の刃を喉元に突き付けられたような心地がした。


 王と王太子が剥き出しの敵意を隠そうともせず、私を睨みつけている。


 それまでの彼らからは、恐らくは上品な無関心から来る、鷹揚な優しさしか向けられたことがなかったから、私は恐ろしさに足がすくんだ。


 私は明らかに、彼らの不興を買ったのだ。


 美麗な男は「フラ・グザヴィエ」と、さっき私と目が合った黒髪の男を呼んだ。


「お守りせよ。大切にお育てせよ――守護者である」


 フラ・グザヴィエは畏まって「はい」と答えた。


 彼が私の前に跪き、私の手の甲に口づける。


 剣だこのある彼の硬い手は温かく、冷え切っていた私の手は思いがけない温もりに包まれた。


「ドラージュ卿。これなるは、本日よりあなたにお仕えいたします、グザヴィエ・タイユフェルにございます。この者がこれからあなたをお屋敷までお送りし、しかる後に神殿までお連れいたします」

「そう、ですか……。世話になります」


 フラ・グザヴィエは目元を緩め、「はい」と答えた。この時の私は明らかに血の気のない顔をしていたから、少しでも安心させようとしてくれたのだと思う。


 初めて会った時からずっと、彼はこういう人だった。


 ――「フラ」とは、兄弟という意味の、古い言葉なのです。好きな言葉です。


 逃亡の旅を始めて間もない頃、彼はその言葉の響きを噛みしめるようにして、私にそう教えてくれた。


「――片時も、おそばを離れるな」


 立ち上がったフラ・グザヴィエに美しい男が小声で命じた。その声音の切迫した響きに、私は泣きそうになった。


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。


 おぼろげに分かっていたのは、本来ならば王か王太子、百歩譲っても直系王族の誰かが為すべきことを、私がやってしまったということだけだった。


 儀式の最中は、私よりやや後ろに並んでいた父がそばに来て、私を抱きしめてくれた。


 グザヴィエ他、数名の武装神官に付き添われて父とともに屋敷に戻ると、顔を強張らせた母に出迎えられた。


 既に事情は聞かされていたのだろう。


「まさかこの子が」と、母は私や父同様、驚いていた。


「……大丈夫なのですか」

「命にかえてもお守りいたします」


 本当に大丈夫なら、こんな言い方はしない。


 母に応えるグザヴィエの言葉は、決して大丈夫ではない今の状況を如実に物語っていた。


 ――しかる後に神殿までお連れいたします。


 それでも、この段階ではまだ「しかる後」とは一両日後、遅くとも五日程度を指していた。


 だが、事態は神殿側の予想を超えた形で逼迫し、私はダルメスを脱出することを余儀なくされた。


 慌ただしい出立の前に、母は私を抱きしめて言った。


「お前のことは、『井戸に沈めた』と言います」


 それは王族にのみ伝わる隠語で、ありていに言えば「身分も名もすべて捨てるので、どうか命だけはご容赦を」という意味だった。


 死んだものとして放逐し、残された者は子殺しの罪を負う。万が一にも当人が戻ってきたら、責任をもって今度こそ殺す。そこまでの犠牲を払うから、命だけは見逃してほしいという、それはなりふり構わぬ懇願だった。


 王家の諍いというものは、必然的に同族殺しの側面を持つ。憎しみではなく、純粋に実利を求めて交える刃の陰であれば、最後の最後で幼い血族に対し恩情なり、ふとした気まぐれなりが働かぬこともなかったのだろう。


 これが単なる諍いではなく、王の望みは私が死ぬことでしか叶わないということを、母は分かろうとしなかった。


 訳も分からず、怯えるばかりの私も似たようなものだったが。


 神殿へ向かう馬車の準備が整い、まるで中に私が乗っているかのように、父母が見送りに出る。


 表玄関で無人の馬車が盛大に見送られている間、私はグザヴィエらとともに裏口からひっそりと屋敷を出た。


 追われる草食動物のような、逃亡生活の始まりだった。


 傍系ながらも一応は王族の端くれとして、ぬくぬくと暮らしていた私にとって、山中の険しい道なき道も、屋根のない場所での浅い眠りも、焙っただけの味のない肉も、見た目からして不味そうな携行食も、ひどくつらいものだった。


 敵は執拗だった。


 私を守っていた若き武装神官たちは次々と倒れ、その血の跡を追うように、敵は現れた。


「ここは私が」と敵を引き留めた者は、二度と合流しなかった。


 十の精鋭はあっという間に一人になった。


 ――どんなことがあっても生き延びて、厄災を見事、討ち果たしますよう。


 私を庇って魔獣の爪を受けたグザヴィエが、私を藪の中に隠した。


 ――生きてさえいれば、何とかなります。


 どうしてお前は笑えるのだ、グザヴィエ・タイユフェル!


 青い顔をして微笑む彼は、どこまでも明日が良き日と信じている、善なる魂の持ち主だった。


 こんなことがあっていいのか。私を庇ったせいで彼は死ぬ。


 私の為に流された血と、これ以上一歩も歩けない体。この世に一人残されるくらいなら、私も皆とともに死にたいと思った。あわよくば命であがなわせてほしかった。私のせいで失われた多くのものを。


 すべては私の罪だった。


 その資格もないのに聖剣を抜いてしまったから。


 その後のことは、まるで夢の中の出来事のようだった。


 突如現れた偉丈夫が一瞬にして敵を殲滅し、彼の連れらしい少年が森から飛び出してくる。


 偉丈夫は善なるグザヴィエを、赦すように膝に乗せていた。


 彼らは私を裁く為に降り立った、天からの御使みつかいと思われた。


 ――ごめん、なさい……。

 ――泣くな。


 私よりやや年上の美しい少年は、そう言って私の涙を拭った。


 聞き間違いでなければ、「よく頑張ったね」とも、「よく生きていてくれた」とも言った。


 ――君は今、生きていることを誇れ。


 彼が何を言っているのか、最初はよく分からなかった。


「生かされた命を抱きしめて――君は今、生きていることを誇れ」


 その瞬間、世界は急に鮮やかな色と音を取り戻した。


 私の目の前にある、艶やかな漆黒の髪。赤みを帯びた、滴り落ちるような葡萄酒の色の瞳。


 ああ、そして。


「ご褒美をあげる」


 彼はそう言った後、しまったという顔をして、私の唇の横に不器用なキスをくれた。


 こんな甘い唇は知らない。


 触れたところから赦されていくような、温もりに満ちたキスは。


 あとで……と言いかける彼を遮り、私は強引にキス(それ)をご褒美にしてしまった。


 私にとっては、それは紛れもなくご褒美だった。


 彼は「うん」とか「ああ」とかもごもご言った後、「じゃ、帰ろう」と虚空に手をかざした。


 彼の手の先で、大気が緩やかに振動して円を描き、パンと垂直に広がって、どこかへ通じる回路が開く。


 簡単そうにしているが、かなりの高等魔術だった。


 立ち上がった時によろけた私の肩を彼が抱いた。


「跳ぶよ。しっかりつかまって」


 つかまるというより、縋るように抱きついてしまった私の背を撫で、彼が囁いた。


「そう――いい子」


 煌めく光の渦の中を跳び、彼の軽やかなつま先が、城塞と思しき重厚な建物の中に着地した。


「こっちだ」


 彼は勝手知ったる様子で私を誘導する。


「母が綺麗好きなもので、外から帰ってくる時の回路はここにしかつながっていない。やっぱり討伐後なんかは結構汚れているからね。家族の居間までは、ちょっと歩くことになるけど」


 どれほども進まぬうちに、私が彼の支えなしでは碌に歩けぬことを見て取った彼が、難なく私を抱き上げた。


 彼の体は柔らかく心地よく、私は彼の腕の中で睡魔に負けて目を閉じた。


 夢の中でも、彼の魔力がすぐそばで温かく揺れているのを、私はずっと感じていた。


 再び目を開けた時、私はまだ夢の中にいるような心地だった。


 傷だらけだった足裏はいつの間にか癒され、湯浴み用の湯が用意され、湯から上がると柔らかい食事が供された。


 こんな奇跡があるのだろうか、私は当地を治めるライスター辺境伯に保護されていたのだった。


 生クリームを添えた、ふるふるの小さなムースを食べ終わる頃、辺境伯その人が「ご挨拶を」と現れた。


 ――グザヴィエ!


 辺境伯の後ろから、見間違いようもなく生きているグザヴィエが、危なげない足取りで歩いてくる。


 私は歓喜のあまり彼に駆け寄りそうになったが、ライスター辺境伯の前でそんな子供じみた振る舞いをする訳にはいかなかった。


 気持ちを抑え、何食わぬ顔で立ち上がろうとした私を、辺境伯は「そのままで」とやんわり押しとどめた。


 私の隣の椅子を引いて、私の方に体を向けて座る。


 とても親しい距離だった。


「此度は世話になりました。このご恩は胸に刻みます」

「ドラージュ卿、顔をお上げに」


 顔を上げると、厳つい偉丈夫が陽光のように微笑んでいた。よく見ると意外にも整った顔立ちをしている。どことなく昨日の少年の面影があった。


「もし、あなたさえよろしければ……」


 そうして、親しい距離から切り出されたのは、喉から手が出るほど欲しい庇護の申し出だった。


 私の正体を隠す為に、ゆくゆくは辺境伯のご息女と娶せる心積もりで、とある下級騎士の家から養子としてもらい受けた、ということにするという。


「ご令嬢がいらっしゃるのですか。その方はそれでよいとおっしゃっているのでしょうか」


 私の方に否やはなかったが、そのご令嬢は花の盛りの数年間を私の為に犠牲にすることになる。決して無理強いは出来ないと思った。


 辺境伯は何とも複雑な表情になった。


「本人はそれでいいと申しております。実は、既にお目に掛かっておりまして。ええと、あなたをここまでお連れした、あれが……」

「――あの方は女性だったのですね」


 歓喜のあまり、私の声は上擦った。


 これは神の恩寵だろうか? 私の涙を拭い、口づけを与え、私を抱き上げた麗しのあのひとが、実は女性だったとは。


「よかったです……」


 私は噛みしめるように呟いた。


 男同士で愛し合う者もいるということは知っていたし、それはそれで何の問題もなかったのだが、私が好きなのは異性だという自覚が既にあったので。

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