ジュールズ――どうしようもない愚弟3
「姫様、足ッ!」
打ち込んだ扇が剣で弾かれ、危うく取り落としそうになった私に、かつては父の、今では私の指南役であるじいから厳しい声が飛んだ。
じいは私の祖父が若かりし頃、戦場で命を預け合った歴戦の猛者である。
が、今とて別に引退して後進を育てているという訳ではなく、事が起これば当然のように、現役として死地に赴くであろう人だった。ライスターの男たちは皆、老いてなお岩のように屈強であることを止めない。
「背中ッ! まっすぐ!」
つま先の向きに始まり、姿勢のぶれや肩に入った無駄な力など、正しい位置から外れた場所に容赦のない駄目出しが飛ぶ。
男性と比較すると、どうしても体格や重量で見劣りがする私は、最後の最後で膂力のみをもって彼らに競り勝つことが出来ない。それ故に、魔力を含む身体の力を最大限、かつ効率よく使う為には、体をあるべき位置に正しく納め、無駄のない力の通り道を体の中に作ることが必須であった。
「遅いッ!」
更には、重量がない故の敏捷性を極限まで鍛え、活かすこともまた必須であった。
「今のッ! そうです!」
「うん!」
じいは決して厳しいだけの指南役ではなく、良いと思ったら褒めてくれる。恐らくだが、父の頃より少し丸くなっているだろう。
集中した鍛錬の時間が終わると、じいは途端に相好を崩して私の背後を指した。
「姫様の小さな信奉者が、ほれ、あそこに」
振り返ると、物陰からちらちらとこちらを見ているジュールズと目が合った。
「だと嬉しいな。ずっと片思いだと思っていたから」
そんな軽口を叩いてみるが、彼が気になっているのは間違いなく剣や打ち合いの方だと分かっていた。何しろ聖剣に選ばれるほどの逸材である。父やじいに鍛えられ、彼がその才を花開かせていくのが、今から楽しみでならなかった。大きくなったら、いずれ私とも手合わせしてほしいものだ。
私は彼に近づき、彼の頭を撫でた。
「ジュールズ、おやつにしようか」
「はい」
「先に体を清めてくる。ちょっと待ってて」
早いもので、彼が初めて、愛らしい声で遠慮がちに「姉上」と呼んでくれてから、もう半月が経とうとしていた。
先方の希望で名は伏せるが、とある騎士家で見どころのある子を見つけ、剣の才を感じたことから、引き取ることにした。ゆくゆくはクロティルダと共に、領を盛り立てていくことを期待して云々かんぬん……と、父はジュールズを引き取ることになった経緯を皆に長々と説明した。
普段無口な父の饒舌に、皆も何か察するものがあったらしく、「成程。要するにその坊ちゃんは訳ありなんですね。分かりました、いざって時は皆で守り抜いてやりましょう!」と全員の目が語っていた。
さっと体を流した私は、ジュールズを連れて食堂に向かった。
ばあやたちが既に用意してくれているおやつの、ふんわりと幸せな香りが部屋一杯に漂っている。
鍛錬や討伐の後は甘いものだった。
ジュールズと隣り合って席に着き、鉢一杯に用意してもらった生クリームをまずはそのまま、匙ですくって食べる。
ああ、この一口の為に生きている――。
どんな食べ方をしても生クリームは美味しかった。付け合わせのスコーンや柔らかいビスケットにたっぷり乗せて食べてもいいし、その上にカラメルソースを回しかけてもいいし、更にはその上に、ジュールズを拾った山で採れる岩塩をぱらりと垂らしても美味。
隣に座ったジュールズは、おままごとのような小さな椀に、私と同じように生クリームを盛られていた。ああもう。何て言うか、絵として可愛い。
彼がじっと私を見るので、「それじゃ足りないよね」と私の鉢からすくった生クリームをあげようとすると、彼は愛らしく首を振った。
じゃあ食べちゃうよ、と私が匙を口に運ぶと、目をきらきらさせてそれを見ている。
私が大ぶりの鉢から生クリームを飲むようにして食べるのを見るのが、何故か楽しいようだった。
ふふ、子供って本当に可愛いな……。
彼が小さなお口でちまちまと可愛く食べている間、私は自分の生クリームを、付け合わせも込みでぺろりと平らげた。
「お二方、おやつはお済みですか」
満足感に浸りながら食後のお茶を飲んでいると、表のことを取り仕切っている家令が食堂に顔を覗かせた。
「お館様が執務室に来るようにと」
「はぁい」
何だろう、改まって。
ほんの一瞬、胸がざわりとしたが、私は即座に立ち上がる。
行ってみれば分かることだ。
私は小さなジュールズと手をつなぎ、温かく心地よい食堂を後にした。
父の執務室に行くと、険しい顔をした父とグザヴィエが立っていた。
「どうぞ、お掛けに」
人目のないところでも、普段からジュールズを家族のように扱おう、という暗黙の了解を、まるでなかったことのようにして父はジュールズに椅子を勧め、私にも彼の隣に座るよう促した。
ジュールズは一瞬表情を強張らせたが、勧められるまま長椅子に座る。
私の分を空けて座った彼の隣に私が腰を落ち着けると、ジュールズは亜麻色の髪をさらりと揺らして、「どうぞ」と促すように父を見上げた。
「……ドラージュ公ご夫妻が亡くなられました。お悔やみを」
淡い褐色の瞳が見開かれて揺れ、だが彼の体は、幼いながらも、いかにも大国の王族らしい、美しい座り姿勢のまま微動だにしなかった。
「ジュールズのご両親が……どうして……」
彼の意思とはまるで無関係であるかのように、大粒の涙が柔らかな頬を伝ってゆく。私は彼を守るように、彼の体に両腕を回した。
「屋敷が賊の襲撃を受けたそうだ」
「本当に賊なのですか」
訊きながら、自分でもそんな訳がないと思った。ダルメス王の差し金に決まっている。
だが、最も大きな疑問はそこではなかった。
「どうして、殺されなければならなかったのですか!」
これは一体何なのか。筋違いの報復か、ジュールズの行方を聞き出そうとしてやり過ぎたか。それとも何らかの「手違い」だったとでも言うつもりか。
父もグザヴィエも、沈痛な表情を浮かべるばかりで何も答えなかった。
やがて、ジュールズが静かに「詳細をお聞かせねがえますか」と言った。
「……残念ながら、さほど詳しいことは」
父はそう前置きしてから語り始めた。
ライスターとダルメスを行き来する商人たちから、父は彼の国の動向や、彼らの視点で気になったことを定期的に報告させている。
そして、今月分の定期報告が、つい先程上がってきたという。
急報ではない。
つまり、表向きは、彼の国には何も異変が起こっていないということになる。
報告にはごく最近の出来事として、これより七年の後、厄災が発生するという予見があったこと、その為の守護者を選び出す「選定の儀」なるものが行われ、王太子が守護者に選ばれたことなどが記されていた。
「何故、そんな嘘を」
「選定の儀は国家行事ですから、儀式そのものをなかったことにする訳にはいきません。王側としては、そうするより外に道がなかったのかと」
最悪手だと思った。こんなもの、彼らにとっても、自らの退路を断つも同義の措置ではないのか。彼らはこの嘘を実にする為、どんなことでもするしかない。
報告書には続けて、王家に連なる家柄である、ドラージュ公の屋敷が襲撃を受け、夫妻が死亡したことも同時に認められていた。まだ十歳の嫡男は行方不明で、賊に連れ去られたかもしれないとのこと。ダルメス王は幼い血族を案じ、彼の捜索を急がせているという。
よくも抜け抜けと――。
会ったこともないダルメス王を、私は扇で滅多打ちにしてやりたい衝動に駆られた。
「分かっていることは、本当にそれだけなのですか」
私の問い掛けに、父は相変わらずの苦い表情で頷いた。
ジュールズを引き取った際に、父は急ぎ人をやってダルメスの状況を探らせていたのだが、そちらの報告もまた、商人たちからの定期報告とほぼ同時に上がってきたという。
それによると、ドラージュ公家の事件については、末端とはいえ王族への襲撃ということで、捜査状況は厳重に秘され、詳細が一切出てこないらしい。
ますます怪しい。と言うより、怪しさしかない。
だが、主要ではない王室メンバーを襲った悲劇に、市民たちからの関心も薄く、その徹底した情報統制を訝しむ者もいないということだった。今は国中が厄災と守護者の話題で持ちきりである。
「そんな……」
どんな風に亡くなったかすら分からないなんて、ジュールズがあんまり可哀相だった。
「グザヴィエ、何か知らないの?」
グザヴィエはすまなさそうに首を振った。
「出立以来、母国の者とは一切連絡を取っておりませんので」
「え……」
「時満ちて帰還するまで、連絡は不要と命じられています。迂闊なやり取りから、卿の居場所を敵に知られてはなりませんから。神殿の方では聖剣ドゥミリューヌの霊気を通じ、卿の生存を把握しておりますので、それで問題はないのかと」
「生存さえ分かっていれば、それでいいと?」
「クロティルダ」
なじるような口調になった私を父が窘めた。
「……すみません」
分かっている。多くの人の命運を左右する国家や組織の舵取りに、部外者が感傷だけで口を差し挟むものではない。
神殿がグザヴィエに連絡を強いぬのも、当然の最優先事項として、ジュールズの身の安全を確保する為だった。
「引き続き情勢を探らせる。公ご夫妻に関しても、そのうち何か分かることもあろう」
「はい……」
父が静かに言い渡し、私は大人しく頷いた。
騒がしいのは私ばかりで、ジュールズはこの間、一言も言葉を発しなかった。
血の気のない顔をしたジュールズを放っておけず、私は湯を用意させた。
こういう時は体を温めるのが一番である。
体を動かすのが億劫ならば、私が彼を浴槽に運ぶし、その後の世話もする、と侍女を通じて伝えさせたが、彼は言われるがまま、大人しく湯に入ったようだった。
――静かだな……。
扉の外で待機していた私は、中があまりにも静かな気がして、何となく不安になった。
浴槽に身を沈めてやしないだろうか。
「ジュールズ、入るよ」
さりげなさを装い、中に入ると、湯気の向こうにジュールズの顔と華奢な肩があった。
よかった、生きている……。
ジュールズは湯の中からぼんやりと私を見上げていた。
亜麻色の髪が濡れていつもより長く見え、ジュールズは水辺にとろりと佇む、美しい川の妖精のようだった。
私は彼の髪を掻き上げ、額に口づけた。
何か食べられるかと訊くと、はいと言う。
私はほっとして、早々に部屋を出た。
やがて湯から上がった彼が、柔らかく煮潰した米のスープをもそもそと食べるのを、私は隣で見守った。
「ジュールズ、今夜は一緒に寝よう」
その夜、私は彼を私の寝台へ誘った。
ジュールズは抵抗もせず、私に手を引かれてやってきた。
寝台によじ登った彼が、心ここにあらずといった様子でころりと横になる。
私は向かい合って彼の小さな体を抱いた。
そのうち、彼がうとうとし出して、幼子のように親指を吸おうとした。
彼がはっと気づいて身を起こす。
「やっぱり、一人で寝る」
「駄目だ」
私は逃げようとする彼の華奢な背を絡め取った。
彼を優しく寝台に押し倒し、獣の母が子にするように、彼を覗き込む。
「こうしよう。私は君に背を向けて寝る。君は背中同士でぴったりくっついてくれてもいいし、私の背中を涙と鼻水でぐちゃぐちゃに濡らしてくれてもいい。それしきのことで私は風邪など引いたりしないから。もし向かい合わせになりたければ、こっちを向いてとお言い。……いいね?」
そう言って、私は彼に背を向け、横になった。
彼が私の体を乗り越えて出ていってしまったらどうしようと思ったが、しばらくして、もぞもぞと小さな背中がくっついてきた。
良かった……。一人で眠ろうとしないでくれて。
ほどなくして、彼が私の方に向き直る気配があり、小さな額が背中に押し当てられた。
やがて華奢な腕が回され、私にきゅっとしがみついてくる。
腕を引かれたような気がして、私はそのまま寝返りを打った。
目を閉じたまま、彼を腕の中に囲い込む。
私の腕の中で、ジュールズの呼吸が寝入る前の穏やかさを帯び始めた。
彼はまだ、ほんの小さな子供なのだ。
なのに何故、彼ばかりがこうもつらい目に遭わなくてはならないのだろう……。
彼の体温に包まれるように、私もいつしか眠りに落ちた。
翌朝、目が覚めると私とジュールズは向かい合ったまま、彼は私の腕の中でぐっすりと眠っていた。
私は彼の髪を掻き上げて、撫でるように後ろに梳いた。
彼の長い睫毛が震え、淡い褐色の目が開く。
姉上、と彼は呟いて、ほっとしたような顔をすると、再び目を閉じた。