ジュールズ――どうしようもない愚弟2
城に戻ると、領内一の治癒魔法の使い手である私の母が、グザヴィエを治癒していた。
母は「金髪のイルゼ」と謳われる美しい女である。
あまりに美しいので、どんな宝石も良く似合う。だが、母がいつも身に着けているのは、細い金の鎖で額に垂らした、菱形の見事な紫水晶だった。父からの贈り物である。
由緒ある公爵家から嫁してきた人で、父とは政略ではなく、熱烈な恋愛結婚だった。物腰は優美で、生まれながらの威厳があり、何度も言うが美しかった。私は母に似なかった。
両親とグザヴィエがいる居間に入っていった時、私は保護した小さな彼を腕に抱いていた。
彼が少し足を引きずって歩く様子を見せたからである。
彼は特段嫌がりもせず、大人しく私に抱き上げられた。
この頃にはうとうとし始めていた彼と一緒に長椅子に座ると、彼は私に体を預け、すうと眠りに落ちた。
「ブランケット」
母が言うと、父がさっとブランケットを取って少年の体に掛ける。魔法で使役させられているかのようだ。
やがて治癒を終えた母は、グザヴィエに手ずから紅茶をいれた。
彼の好みも聞かず、瓶から掻き出すようにしてジャムを紅茶に流し入れる。
「さ」と勧められ、グザヴィエは神妙な顔でカップを受け取った。甘いものが苦手でなくとも、尻込みする量である。だが、彼は一口飲むなり「あれ」という顔をして、残りをぐびぐび飲んだ。癒し手たる母には、グザヴィエの体が今最も欲しているものが、本人よりもよく分かっている。
人心地ついたグザヴィエは、深く頭を垂れて我々に感謝の言葉を述べ、私が既に知っている彼の名と、ダルメス神殿に所属する武装神官だという彼の身分を名乗った。母に「で?」と促され、彼がためらいがちに語り始める。と言っても、大抵のことは察しがついていた。
――聖剣が、彼を選んだ。
ダルメスの聖剣とくれば、「厄災」であり、「守護者」であった。
太古から続くダルメスは、その領土に大陸の楔と呼ばれる禁忌の場所を持っている。
忌まわしき魔獣はその地より発生するとされ、古来より、禍々しく穢れたその地を塞ごうとする試みは何度も繰り返されてきた。
だが、その度に多大な犠牲を出しては失敗し、大陸の楔は未だ開け放たれたままであった。
大いなる自然を人が制圧しようとすることなど、無謀な試みなのかもしれない。それでも、我々には楔を封印したい切実な理由があった。
禍々しき楔からは、十六年を数度経るごとに、魔獣たちの王と呼ぶべきものが発生する。
これが「厄災」である。
この厄災を、聖剣もて退けるのがダルメスの守護者であった。
「厄災が、生じるか」
父が唸り、グザヴィエが「はい」と答えた。
厄災が起きる前年から大地は乱れ、通常の魔獣も数を増す。事はダルメス一国で終わらず、周辺諸国にも影響が及ぶ為、この時ばかりはダルメスも情報を出し惜しみせず、各国も連携して事に当たる。
記録によると、厄災の発生は大抵、十六年を六度、あるいは七度経るごとに起こっていた。つまり、九十六年か百十二年、大体百年周期である。だが、前回の発生は確か、優に二百年以上前のことだった。
「随分、開いたな」
「……はい。十六年を十六度。二百五十六年ぶりでございます」
グザヴィエの答えには、開いたことが何やら不満であるかのような、妙な間があった。
「いつだ」
「月と聖剣が告げるには、これより七年後」
王家の聖剣に光が宿り、厄災の発生が予言された。
これを受けて、「選定の儀」と呼ばれる、守護者を見つける為の儀式が速やかに行われた。守護者は必ずダルメス王家の血を引く者の中から選ばれる。そして、厄災を退けた後は、その者が王である。
うっすらとでも王家の血を引く、十歳以上の男子が全員招集された。私の膝で眠っている、この小さな傍系王子は十歳だそうで、彼も王族の義務として儀式に参加した。
――これより七年の後、聖剣を振るいて厄災を退ける者は誰か。
王家の神聖な谷にて、岩に刺さった聖剣を一人一人抜く試みがなされていく。
予期せぬ事態が起こったのはこの時だった。
王家の聖なる剣、ドゥミリューヌを引き抜いたのは、皆がその存在すら忘れかけていた前々国王の末子の長子、ドラージュ公の嫡男にして、僅か十歳のゲリュオネス・ユーグ・ジュールズ・クラメールだった。
彼が聖剣を抜くとは、本人を含め誰も思っていなかったらしい。聖なる岩のすぐそばで儀式を見守っていたグザヴィエは、彼が聖剣をあっさりと抜き、しかも子供ながらに「嘘だろ、面倒なことになった」とでも言いたげな顔をしたところまで、はっきりと見たそうである。
幼いドラージュ卿は途中で手を止め、あまつさえ剣を元の位置に戻そうとした。
「その瞬間、確信しました。彼こそが守護者で間違いない、と」
どうしてだ。普通に考えて「彼だけは違う」じゃないのか。だが、話の腰を折ってまで確認したいことでもないので、私は黙って続きを聞く。
剣を戻そうとした卿の手を、武装神官長、つまりグザヴィエの大ボスが止めた。大ボスも確信したらしい。
――聖剣は守護者を示した。
大ボスが高らかに宣言し、小さなドラージュ卿はすぐそばにいたグザヴィエに助けを求めるような目を向けた。グザヴィエは一瞬、胸をつかれたが、かと言って彼の為にしてやれることなど何もない。ドラージュ卿の華奢な肩にはこの時、逃がさぬとばかりに大ボスの手がしっかりと乗せられていたそうである。
そして、卿本人と同じかそれ以上に、この結果を受け入れられなかったのが直系王族たちであり、取り分け王だった。
まだ三十歳の男盛り、厄災の発生が七年後であるならば、自ら打って出ることも出来なくはないし、現在十二歳の王太子を差し置いて、傍系王族の子供が選ばれたことにも大いに不満だった。
「王はやり直しを要求しました」
「えっ? どういうこと? 何回やり直したところで、結果は同じでしょう? だって聖剣は既に彼を選んでいるのだから」
私の疑問は無邪気に過ぎた。
グザヴィエは悲しげな笑みを浮かべ、眠っているドラージュ卿を気遣うように、声を落として答えた。
「……卿さえいなくなれば、守護者は再び選び直されるというのが王の考えでした」
「馬鹿な」「そうなのか?」という私と父の声が重なった。
グザヴィエは静かに首を振った。
「答えようがありません。そんなもの、試されたこともないのですから。ですが、一度選ばれた守護者を、こちらの都合で亡き者にしたとして、聖剣が再び守護者を選んでくれるとは限らない。守護者の選定が一度の厄災につき一人なら、今ドラージュ卿を失えば、我々は守護者抜きで厄災に立ち向かわなければならないのです」
神殿としては、そんな危険な賭けに世界の命運を預ける訳にはいかなかった。
だが、王も引かなかった。
堂々たる押し出しの、人望もカリスマもある強い王である。王太子もまた彼に似て、華やかさと強さを齢十二にして既に兼ね備えていた。王とその愛息は、何故あんな傍系の、見るからに軟弱そうな者が守護者なのかと選定結果への不満を隠そうともしなかった。王に心酔する側近たちも、彼ら二人と意見を一つにしていた。
「平穏が、長過ぎたのです」
平穏が長過ぎた。それは本来喜ばしいことであるはずなのに、人とは何と愚かな生き物なのだろう。二百年も開いてしまえば、先人たちが当時確かに感じたはずの、生々しい恐怖などもはや遠い過去である。ダルメス王とその周囲の人間たちには、迫りくる厄災の脅威がまったく見えていないかのようだ。
挙国一致で困難に立ち向かわなければならない最も大切な時に、ダルメスは二つに割れたのだった。
少年の命を奪おうとする手と、少年を過酷な運命に突き落とそうとする手が、それぞれ速やかに伸ばされた。
神殿側の手が、ほんの少しだけ早かった。
――子供はどこだ。
――はて子供とは、どの子供のことでございましょう。
絶対に守護者と呼びたくない王側を相手に、神殿側がいかにも神殿らしく弁を弄している間、グザヴィエら十人の精鋭が、幼いドラージュ卿を連れて密かに王都を脱出した。
本来ならば、彼は然るべき儀式を経て神殿に預けられ、鍛え上げられてゆくはずだったが、こうなった以上、それは流浪の旅の中で為されていかなければならない。
追手が差し向けられるのは時間の問題だった。王とてまったくの愚物ではなかったのである。
神殿側が何も言わずとも、ドラージュ卿にとっては今や、ダルメス国内に留まっている方が危険であり、早晩出国を試みるであろうことは王にも分かっていた。そして、秘密裡に出国したい神殿側は、街道ではなく険しい山道を選ぶに違いない――。
王は一度その懐に入った者たちを、身分の隔てなく可愛がる器量の持ち主であったから、彼の為なら何でもやってのける強くて頼もしい手駒には事欠かなかった。
手段を選ばぬ苛烈な追撃を受け、一人、また一人とグザヴィエの同輩たちは少年を守って死んでいった。
グザヴィエもまた、彼らと同じ運命を辿るはずだった。
あの時、父が地響きを立てて、彼の前に降り立たなければ。
「……このご恩は決して忘れません。ライスターの地に、とこしえの平穏あれ」
語り終えたグザヴィエは、再び深々と頭を垂れた。
「……行くのか」
「はい。あの時は自分が死ぬと思っておりましたので、勝手な願いを申しました。ですが、こうして生き永らえましたからには、これ以上ご迷惑をおかけする訳にはまいりません」
母が治癒したとはいえ、グザヴィエの傷はまだ完全には塞がっていない。それなのに、彼はもうここを出ていくつもりのようだった。
どうしたものか、と私は思案した。
行かせたくない――あなたも、この子も。
私は幼い弟の世話を焼く姉のような顔をして、ドラージュ卿の靴をさりげなく脱がせた。
彼が歩く時に足を引きずっていたのが気になっていた。恐らくだが、この子の足は今、過酷な旅に堪えられぬのではあるまいか。
――何だ、これは。
現れた小さな足の無残さは私の想像以上だった。
包帯代わりか、ぼろ布を巻いた足の裏には、たくさんの擦り傷と血豆が出来ている。いくつかは潰れ、膿んでいた。
母が貴婦人の悲鳴を上げて卿に駆け寄った。
グザヴィエを治癒したばかりで、未だ消耗が激しいはずだったが、母は即座に彼の足裏を包み、再び客人の傷を癒し始めた。
「立ち去るなど許さぬ。この子はうちで預かる」
「しかし。イルゼ」
父の反論の声は弱かった。父はごつごつした外見に似ず、小さくて可愛い生き物に弱い。そして何より母に弱い。
「奥方様、『守護者』を庇護するなど、ダルメス王に命を取ってくれと言っているようなものでございます」
「たわけ。誰が馬鹿正直に『守護者』を預かるなどと言うか」
驚くグザヴィエの言を切って捨て、「この子はうちの遠縁の者です」と、母は迷いのない目で言い切った。
「故あって、我が家で預かることに」
「母上、賛成です。『故あって』の故を、もう詰めてしまいましょう。グザヴィエ、何か良い案はある?」
「え……」
「そうだなぁ……。この子の両親が亡くなり、身寄りがなくなったから引き取ったとでも言うか……」
「お館様、それではこの子の出自を人に聞かれた時に誤魔化せぬでしょう。ライスター本家が引き取るからには、それなりに名の通った家の子でなくてはおかしいし、名のある貴族の当主夫妻が亡くなられたら、それを誰も知らぬということはない」
「いえ、あの……」
「はっ、そうじゃ。お館様の隠し子が見つかったことにするか!」
「母上、それは父上のお人柄と相容れません」
「そうじゃな……私も演技とはいえ、継子苛めをするのはつらい」
「アウグストのところに丁度十歳の子がいるだろう。あの子が実は双子だったことにして、片方をうちで行儀見習いさせるということに……」
「何故片方だけ? と言われるじゃろうし、協力させるアウグスト殿に事情を話さぬ訳にはいかぬ。じゃが、事が事だけに、仔細を知る者は少ない方がよい」
よし、と私は密かに拳を握った。非常にいい流れだ。この少年を引き取ることは、我が家の中では既定路線になりつつある。
「あのう、でしたら……従僕として……」
「仮にも他国の王族に、そんな扱いが出来るか!」
まったく乗り気でなかったグザヴィエも、遂に案出しに参加し始め、ああだこうだと話し合っているうち、母に妙案が降ってきた。
「とある下級騎士の家で見どころのある子を見つけ、養子に迎えたことにしよう。ゆくゆくはクロティルダ、お前と娶せると匂わせるのです」
成程。私は辺境伯の一人娘であり、いずれ婿を取る身である。才ある者は取り合いになるから、早くから囲い込んだ――自然な筋書きだ。
私が十三歳、彼が十歳で、私の方が若干年上ではあるが、まあ三歳程度なら、そこまで無理のある話でもない。
「それはいい案ですね」と頷く私を、グザヴィエが驚いたように見つめていた。分かっている。「女だったんだ」と思っているんだろう。大丈夫、慣れているから、そんな申し訳なさそうな顔をしなくていい。
「……姫君、よろしいのですか」
「構わぬ。お国に帰る際、あくまでドラージュ卿を安全に匿う為の方便であったと宣言し、卿自らに娘の純潔を証言していただければ」
訊かれたのは私だが、答えたのは母だった。シュッとした外国の騎士にいきなり「姫君」と呼ばれ、動揺している間の出来事だった。
「決まりじゃ。異論はないな?」
私に異論などない。父もグザヴィエも何も言わなかった。
「この大恩に、報いる術を持ちません……」
グザヴィエは恐縮することしきりだったが、浮世離れした母はともかく、父には恐らく、ライスター辺境伯としての冷徹な計算もあったと思われた。
賭けではあるが、これは実は、ライスターにとって決して悪い話ではなかった。何と言っても、聖剣が選んだ正統な守護者は彼であり、彼が庇護を必要とするほんの数年だけ匿えば、ライスターは次期ダルメス王に多大な恩を売れる。
だが、私にはそんなことよりも、この少年とずっと一緒にいられることの方がよっぽど重要だった。
既に絡め取られていたのだ。
ぽろぽろと、彼が無防備にこぼした大粒の涙に。
――うんと大事にしてあげよう……。
私は無心に眠る彼の頭をよしよしと撫でた。
この日、私は母に「さっさと寝なさい」と叱られるまで、彼のそばについていた。
足裏を温かく癒されて、気持ちよさそうに目を閉じている彼は、結局翌朝まで目を覚まさなかった。
彼が父から仔細を告げられたのは、半ば癒えている足裏に驚きつつ湯を浴び、柔らかな食事をゆっくりととってからのことだった。
彼は父から話を切り出されると、「あの方は女性だったのですね」と驚いたように言い、「よかったです」と小さな声でぽつりと呟いたという。
十歳の少年に、私は何を心配されたのだろうか。
彼はこちらの申し出を承諾し――「構いませんか」「そのように頼みます」という、大人のようなやり取りがあったそうである――父は彼から「苦労をお掛けします」とのお言葉も賜った。
こうして、ゲリュオネス・ユーグ・ジュールズ殿下は我が家の密やかな客人にして、表向きは家族となった。
聞き覚えはなくとも、派手に悪目立ちするファーストネームは見なかったことにし、無難なミドルネームから取って、彼はジュールズと呼ばれることになった。