番外編・母上の妙案
私の仮の弟となったゲリュオネス・ユーグ・ジュールズ殿下が、「ジュールズ」と呼ばれる度、「はい」と愛らしく答えるようになった日から数日後、我が家の実質的な支配者から「話があります」と皆に召集がかかった。
「よいことを思いつきました」
何だろう……。ちょっと怖いと思いつつ、私はジュールズと仲良く隣り合わせに座り、母の次の言葉を待つ。
「ジュールズに女の子の恰好をさせ、当家が引き取っているのは女子だと周囲に思わせるのです」
おお、と私は思わず声に出していた。
それはいいかもしれない!
ダルメス王が探しているのは、亜麻色の髪をした綺麗な十歳の男の子であり、女の子など最初から対象外である。
「さすがですね、母上。私にはそんなこと、思いつきもしませんでした」
「ホホ。さきほど無心で花の手入れをしている時に思いついた。――お館様、異論はありますか」
「……」
父は何とも言えない表情で黙っている。戦で例えれば奇策と言ってよい提案であり、俄かには判断がつきかねるのだろう。
「まあ一度着せてみて、それから判断しては?」
と、母は控えていた侍女に目配せし、「さ、ジュールズや、母と一緒に支度をしに行きましょう」とジュールズの手を取った。
ジュールズはすぐ隣にいた私ではなく、父やグザヴィエに助けを求めるような目を向けた。彼の心情を理解できるのは、同性たる父かグザヴィエだけだと本能的に知っていたのだろう。
理解は出来るが、母に逆らってまで助ける気もない二人に生温い笑顔を向けられ、ジュールズは無の境地のような目で、大人しく母に手を引かれて部屋を出ていった。
後に残ったのは父とグザヴィエ、そして私である。我々三人は、女の支度を待つ男たちのように、部屋に漂う奇妙な沈黙を持て余しながら、のんびりとお茶を飲んだ。
やがて、扉が再び開き、満足げな笑みを湛えた母がまず入ってくる。後に続くジュールズは、明らかに母のスカートの後ろに身を隠していた。
「さ、ジューリア。そう恥ずかしがらずとも」
上機嫌な母のスカートの陰から覗く、小さな姫君の佇まいは既に可愛らしく、我々三人は思わず立ち上がっていた。
ジューリアが着ているのは、私が彼の年齢の頃に着ていた、淡い薔薇色のドレスだった。間違いなく、私より彼の方が似合っている。フリルもレースもたっぷりなそれは完全に母の趣味で、この頃から鍛錬に明け暮れていた私が、数えるほどしか袖を通さなかったものだった。
肩より少し上の、さらさらの亜麻色の髪は愛らしく編み込まれ、清楚なレースのリボンで飾られている。ご丁寧に薄化粧まで施され、彼の華奢な雰囲気によく似合う、お人形のようなドレスを着たジュールズは、女の私ですらうっとりと見とれてしまうほど高貴で美しかった。
女性としての美が、既に完成されている……。
――こ、これは……かえって悪目立ちしてしまうんじゃ……。
――そうですね、ここまで人目を引く仕上がりだと、間違いなくそうなるでしょう。亜麻色の髪をした綺麗な男の子の正体を隠す為、女装させたということが秒でばれそうです。
こそこそと言い合う私とグザヴィエの横で父が宣告した。
「――却下」
「何故じゃ!」
母はキッと眦をつり上げた。
「いや、だってこれ……」
「お館様! 私はせっかく可愛らしい娘を産んだというのに、クロティルダは鍛錬ばかりして、全然ドレスを着ようとしませんでした! 私だって本当は、娘を着飾らせて楽しみたかったのに!」
――えっ、私?
父が何か言おうとするのを遮り、母は取り出した手巾を握り締めてふるふると積年の思いを吐露する。
成程……。母上にとってはジュールズの正体も誤魔化せるし、可愛い娘を着飾らせる楽しみも味わえるしで、一石二鳥だったのだろう。
「イ、イルゼ、落ち着け。それはそれ、これはこれだろう……」
父が必死で母を宥めている。
その隙に、私はジュールズを抱き上げ、「逃げろ~」と退散した。
「待ちなさい!」
待たない。私は悪い魔女から可憐な姫君を救う騎士なのだ。
階段下の小部屋に素早く潜り込み、ジュールズを降ろす。
「ほとぼりが冷めるまで、しばらくここに隠れていよう」
私がそう言うと、ジュールズが大人の女性のように苦笑した。
無自覚だろうが、女装姿に何の違和感もないから、何をやっても普通に女性に見える。可愛い。
「父上がうまく説得してくれたらいいんだけど……」
ジュールズがこくこくと頷く。
私は可愛い姫君の手を取り、無理を承知で頼み込んだ。
「ねえ、ジュールズ、もしそこまで嫌じゃなかったらの話なんだけど、今日一日だけは、その恰好でいてくれない? ……母上の為に」
私が女装しなかったツケを、今になって彼に払わせているようで申し訳ないのだが、妥協案と言おうか、落としどころはその辺りになるような気がする。
「いいですよ」と、意外にもあっさりとジュールズは頷いた。
「ありがとう……。恩に着る」
私がほっとして彼の手を握り込むと、彼がおずおずと私を見上げた。
「あ、姉上……」
「なあに」
「あとで、ご褒美をくださいますか」
「いいよ、今でも」
彼の唇の横に口づける。よく分からないが、彼にとっては何故かこれがご褒美なのである。経緯を考えるに、九死に一生を得たことの象徴なのかもしれなかった。
彼が嬉しそうにふんわりと笑う。可愛い……今は特に。ああ、駄目だ。この子がお嫁に行く日、私は泣いてしまうかもしれない――。
「姉上……」
彼は穿いているスカートの裾を軽くつまみ、遠慮がちに尋ねた。
「姉上は、こういう恰好をなさらないのですか」
「あ、うん。動きにくいし、そもそも私のような外見だと、女の恰好は似合わないしね」
「そんなことありません! ものすごく似合います」
どうした。そんなに気を遣わなくても。
十歳児なりの可愛い気遣いが嬉しくて、私は彼の頭を撫でた。
「そう?」
「はい。とてもよくお似合いですから、普段からこのような恰好をしていただきたいです」
「ふふ。そうだなぁ……」
私は可愛い鼻先をちょいとつついて言った。
「考えておく。でも、君が大きくなるまでは、私を君の騎士でいさせてよ。この恰好でいるのは、何かあった時、裾に邪魔されずに君を守れるからでもあるんだ」
そう説明すると、彼は綺麗な目を瞬かせ、それから、やけに真剣な表情で、私の目を覗き込んだ。
「では、私が大きくなったら、私が姉上の騎士になります。姉上が毎日女装出来るように」
「頼もしいね、ありがと」
可愛らしい姫君は「はい」と頷き、すっと目を細めた。ああ、こんな格好をしていても、彼はやはり男の子なんだな、と私はしみじみ実感する。
これは、剣を手にする男の目だ。
「すぐに大きくなりますから、少しだけ待っていてくださいね」
「うん。待ってる」




